上杉畠山高家を讒する事 附 廉頗藺相如が事

 この時、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔直宗といふ人あり。才短にして、官位、人よりも高からん事を望み、功少なくして、忠賞、世に越えん事を思ひしかば、唯、師直、師泰が将軍御兄弟の執事として、万、心に任せたる事を猜み、折節につけては、吹毛の咎を争ひて讒を構ふる事、止む時なし。されども将軍も左兵衛督も、「執事兄弟なくては、誰か天下の乱を鎮むる者あるべき。」と、他に異に思はれければ、少々の咎をば耳にも聞き入れ給はず、唯、佞人讒者の世を乱らん事を悲しまる。
 それ、天下を取つて世を治むる人には、必ず賢才輔弼の臣下あつて、国の乱を鎮め、君の誤りを正すものなり。所謂、尭の八元、舜の八愷、周の十乱、漢の三傑、世祖の二十八将、太宗の十八学士{*1}、みな禄厚く官高しといへども、もろもろにありて争ふ心なかりしかば、互に非を諌め国を鎮めて、唯、天下の無為ならん事をのみ思へり。これをこそ呼んで忠臣とは申すに、今、高、上杉の両家、中悪しくして、ややもすれば、かの失を指してはその権を奪はんと、心にさし挟みて思へること、豈忠烈を存ずる{*2}人とせんや。
 詞長うして聞くに怠りぬべしといへども、暫く譬へを取りて愚かなる事を述ぶるに、昔、異朝に卞和と申しける賤しき者、楚山に畑を打ちけるが、まはり一尺に余れる石の、磨かば玉になるべきを求め得たり。「これ、ひそかに用ゐる{*3}べきものにあらず。誰にか奉るべき。」と人を待ちける処に、楚の武王、楚山に御狩をし給ひけるに、卞和、この石を奉つて、「これは、世に類なき程の玉にて候べし。磨かせて御覧候べし。」とぞ申しける。武王、大きに悦んで、則ち玉磨きを召して、これを磨かせらるるに、光、更になかりければ、玉磨き、「これは、玉にては候はず。ただ尋常の石にて候なり。」とぞ奏しける。武王、大きに怒つて、「さては、朕を欺ける者なり。」とて、卞和を召し出だして、その左の足を切つて、かの石を背に負はせて、楚山にこそ追ひ放されけれ。
 卞和、罪なくしてこの刑に遭へる事を歎きて、楚山の中に草庵を結びて、この石を負ひながら、世に玉を知る人の{*4}なき事をのみ悲しみて、年月久しく泣き居たり。その後、三年ありて、武王、隠れ給ひしが、御子文王の御代になりて、文王、又或る時、楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣く声あり。文王、怪しみて泣く故を問ひ給へば、卞和、答へて申さく、「臣、昔この山に入りて畑を打ちし時、一つの石を求め得たり。これ、世に類なき程の玉なる間、先朝{*5}武王に奉りたりしを、玉磨き、見知らずして、『ただ石にて候。』と申したりし間、我が左の足を斬られ参らせて、不慮の刑に逢ひ候ひき。願はくは、この玉を君に献じて、臣が罪なき所を顕はし候はん。」と申しければ、文王、大きに悦んで、この石を又、或る玉磨きにぞ磨かせられける。これも又、見知らざりけるにや、「これ、全く玉にては候はず。」と奏しければ、文王、又大きに怒つて、卞和が{*6}右の足を切らせて、楚山の中にぞ棄てられける。
 卞和、両足を切られて、五体、苦しみをせめしかども、唯、二代の君の眼拙き事をのみ悲しみて、終に百年の身の死を早くせん事を痛まず。落つる涙の玉までも、血の色にぞなりにける。
 かくて二十余年を過ぎけるに、卞和、猶、命つれなくして、石を負ひながら、唯、とことはに泣き居たり。さる程に、文王崩じ給ひて、太子成王の御代になりにけり。成王、又或る時、楚山に狩し給ひけるに、卞和、尚、先にも懲りず、草庵の内より這ひ出でて、二代の君に二つの足を切られし故を語つて、泣く泣くこの石を成王に奉りけり。成王、則ち玉磨きを召して、これを磨かせらるるに、その光、天地に映徹して、無双の玉になりにけり。これを行路に懸けたるに、車十七両を照らしければ、照車の玉とも{*7}名づけ、これを宮殿にかくるに、夜十二衢を輝かせば、夜光の玉とも名づけたり。誠に天上の摩尼珠、海底の珊瑚樹も、これには過ぎじとぞ見えし。
 この玉、代々天子の御宝となりて、趙王{*8}の代に伝はる。趙王、これを重んじて、趙璧と名を替へて、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚めねども、書を照らす光、暗からず。輦路に月を得ざれども、路を分かつ影、明らかなり。
 この頃、天下大きに乱れて、諸侯皆、威あるは弱きを奪ひ、大なるは小を亡ぼす世になりにけり。かの趙国の傍に、秦王{*9}とて威勢の王おはしけり。秦王、この趙璧の事を伝へ聞きて、如何にもして奪ひ取らばやとぞ巧まれける。異国には会盟とて、隣国の王、互に国の境に出で合ひて、羊を殺してその血を啜り、天神地祇に誓ひて法を定め、約を堅くして交じはりを結ぶ事あり。この時に隣国に見落とされぬれば、当座にも後日にも、国を傾けられ位を奪はるる事ある間、互に賢才の臣、勇猛の士を具して、才をたくらべ武を争ふ習ひなり。
 或る時秦王、会盟あるべしとて、趙王に触れ送る。趙王、則ち日を定めて国の境へぞ出で合ひける。会盟、事未だ定まらず、血未だ啜らざる先に、秦王、宴を設けて楽を奏し、酒宴、日ねもすに及べり。酒酣にして、秦王、杯を挙げ給ふ時、秦の兵ども、酔狂せる真似をして座席に進み出でて、目を怒らかし臂を張りて、「我が君、今、興に和して杯を傾けんとし給ふ。趙王、早く瑟を調べて寿をなし給へ。」とぞいらで申しける。趙王、もし辞せば、秦の兵のために殺されぬと見えける間、趙王力なく、瑟を調べ給ふ。君の傍には必ず左史右史とて、王の御振舞と詞とを註し留むる人あり。時に秦の左太史、筆を取つて、「秦趙両国の会盟に、先づ酒宴あり。秦王、杯を挙げ給ふ時、趙王、自ら寿をなし、瑟を調ぶ。」とぞ書きつけける。
 趙王、後記に留まりぬる事、心憂しと思はれけれども、すべきわざなければ{*10}力なし。杯廻りて、趙王、又飲み給ひける時に、趙王の臣下に始めて召し仕はれける藺相如といひける者、秦王の前に進み出でて、剣を抜き臂をいららげ{*11}、「我が王、已に秦王のために瑟を調べぬ。秦王、何ぞ我が王のために寿をせざるべき。秦王、もしこの事辞し給はば、臣、必ず君王{*12}の座に死すべし。」と申して、誠に思ひ切つたる体をぞ見せたりける。秦王、辞するに詞なければ、自ら立つて寿をなし、瓫{*13}を打つて舞ひ給ふ。則ち、趙の左太史進み出でて、「その年月の何日の日、秦趙両国の会盟あり。趙王、杯を挙げ給ふ時、秦王、自ら酌を取つて瓫を打ち畢んぬ。」と、委細の記録を書き留めて、趙王の恥をぞすすぎける。
 かくて趙王、帰らんとし給ひける時、秦王、傍らに隠せる兵二十万騎、甲冑を帯して馳せ来れり。秦王、この兵を差し招きて、趙王に向ひて宣ひけるは、「卞和が夜光の玉、世に類なき光ありと伝へ承る。願はくは、この玉を賜ひて、秦の十五城をその代はりに献ぜん。君又、玉を出だし給はずば、両国の会盟、忽ちに破れて、永く胡越を隔つる思ひをなすべし。」とぞおどされける。
 異国の一城といふは、方三百六十里なり。それを十五合はせたらん地は、あたかも二、三箇国にも及ぶべし。「たとひ又、玉を惜しみて十五城に替へずとも、今の勢にては無代に{*14}奪はれぬべし。」と思はれければ、趙王、心ならず十五城に玉を替へて、秦王の方へぞ出だされける。秦王、これを得て後、十五城に替へたりし玉なればとて、連城の玉とぞ名づけける。その後、趙王、たびたび使を立てて十五城を乞はれけれども、秦王、忽ちに約を変じて、一城をも出ださず、玉をも返されず。唯、使を欺き、礼を軽くして、返事にだにも及ばねば、趙王、玉を失ふのみならず、天下の嘲り甚だし。
 ここに、かの藺相如、趙王の御前に参つて、「願はくば君、臣に許されば、我、秦王の都に行き向つて、かの玉を取り返して、君の御憤りを休め奉るべし。」と申しければ、趙王、「さることやあるべき。秦は、已に国大に兵多くして、我が国の力、及び難し。たとひ兵を引いて戦ひを致すとも、いかでかこの玉を取り返す事を得んや。」と宣ひければ、藺相如、「兵を引き力を以て玉を奪はんとにはあらず。我、秦王を欺いて取り返すべき謀りごと候へば、唯、御許容を蒙つて、一人罷り向ふべし。」と申しければ、趙王、猶も誠しからず思ひ給ひながら、「さらば、汝が意に任すべし。」とぞ許されける。
 藺相如悦んで、やがて秦国へ越えけるに、兵の一人も召し具せず、自ら剣戟をも{*15}帯せず。衣冠正しくして車に乗り、専使の威儀を調へて、秦王の都へぞ参りける。宮門に入つて礼儀をなし、「趙王の使に藺相如、直ちに奏すべき事あつて参じたる」由を{*16}申し入れければ、秦王、南殿に出御なりて、則ち謁をなし給ふ。
 藺相如、畏まつて申しけるは、「先年、君王に献ぜし夜光の玉に、隠れたる瑕の少し候を、かくとも知らせ参らせで進じ置き候ひし事、第一の越度にて候。およそ玉の瑕を知らで置きぬれば、遂に主の宝にならぬことにて候間、趙王、臣をしてこの玉の瑕を君に見せ参らせんために、まゐつて候なり。」と申しければ、秦王悦んで、かの玉を取り出だし、玉盤の上にすゑて、藺相如が前に置かれたり。
 藺相如、この玉を取つて楼閣の柱に押しあて、剣を抜いて申しけるは、「それ、君子は食言{*17}せず。約の堅き事、金石の如し。そもそも趙王、心あきたらずといへども、秦王、強ひて十五城を以てこの玉に替へ給ひき。然るに、十五城をも出だされず、又、玉をも返されず。これ、盜跖が悪にも過ぎ、文成{*18}が偽りにも超えたり。この玉、全く瑕あるにあらず。只、臣が命を玉と共に砕きて、君王の座に血を注がんと思ふゆゑに参つて候なり。」と怒つて、玉と秦王とをはたと睨み、近づく人あらば、忽ちに玉を切り破つて、返す刀に腹を切らんと、誠に思ひ切つたる眼ざし、事がら、敢へて遮り留む様もなかりけり。
 秦王、呆れて詞なく、群臣、恐れて近づかず。藺相如、遂に連城の玉を奪ひ取つて、趙の国へぞ帰りにける。趙王、玉を得て悦び給ふ事、ななめならず。これより藺相如を賞翫せられて、大禄を与へ、高官を授け給ひしかば、位、外戚を越え、禄、万戸{*19}に過ぎたり。やがて牛車の宣旨{*20}を蒙り、宮門を出入するに、時に王侯貴人も、目をそばめて{*21}、皆、道を去る。
 ここに廉頗将軍と申しける趙王の旧臣、代々功を積み忠を重ねて、我に肩を並ぶべき者なしと思ひけるが、忽ちに藺相如に権を取られ、安からぬことに思ひければ、藺相如が参内しける道に三千余騎を構へて、これを討たんとす。藺相如も、勝れたる兵千余騎を召し具して出仕しけるが、遥かに廉頗が道にて相待つ体を見て、戦はんともせず、車を飛ばせ兵を引いて、己が館へぞ{*22}逃げ去りける。廉頗が兵、これを見て、「さればこそ。藺相如、勢ひ唯、他の力をかる者なり。直に戦ひを決せん事は、廉頗将軍の小指にだにも及ばじ。」と笑ひ欺きける間{*23}、藺相如が兵、心憂き事におもひて、「さらば我等、廉頗が館へ押し寄せ、合戦の雌雄を決して、かの輩が欺きを防がん。」とぞ望みける。
 藺相如、これを聞きて、その兵に向つて涙を流して申しけるは、「汝等、未だ知らずや。『両虎、相戦ひて共に死する時、一狐、その弊えに乗つてこれを噛む。』といふ譬へあり。今、廉頗と我とは両虎なり。戦へば必ず共に死せん。秦の国は、これ一狐なり。弊えに乗つて趙を食らはんに、誰かこれを防がん。この理を思ふ故に、我、廉頗に戦はん事を思はず。一朝の嘲りを恥ぢて、両国の傾かん事を忘れば、豈忠臣にあらんや。」と、理を尽くして制しければ、兵皆、理に折れて、合戦の企てを止めてけり。
 廉頗又、この由を聞きて、黙然として大きに恥ぢけるに、尚、我が咎を直に謝せんために、杖を背に負ひて、藺相如のもとに行き、「公の忠貞の誠を聞きて、我が確執の心を恥づ。願はくは公、我をこの杖にて三百打ち給へ。これを以て罪を謝せん。」と請うて、庭に立ちてぞ泣き居たりける。藺相如、元来、義あつて怨みなき者なりければ{*24}、なじかはこれを打つべき。廉頗を引いて堂上に据ゑ、酒を勧め交じはりを深うして返しけるこそ優しけれ。されば、趙国は、秦楚に挟まれて、地狭く兵少なしといへども、この二人、文を以て行ひ{*25}、武を以て専らにせしかば、秦にも楚にも傾けられず、国家を保つ事、長久なり。
 誠に、私を忘れて忠を存ずる{*26}人は、かやうにこそあるべきに、東夷南蛮は虎の如く窺ひ、西戎北狄は竜の如く見ゆる折節、高、上杉の両家、さしたる恨みもなく、又とがむべき所もなきに、権を争ひ威を猜みて、ややもすれば確執に及ばんと、互に隙を伺ふ事、豈忠臣といふべしや。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇尭の八元 尭の高辛氏の八人の才子。」「〇舜の八愷 高陽氏の八人の才子。」「〇周の十乱 乱は理(治)。論語『武王曰予有乱臣十人。』と見ゆ。」「〇漢の三傑 張良、蕭何、韓信。」「〇二十八将 後漢の光武帝の中興の臣二十八人。」「〇十八学士 唐の太宗が文学の士十八人を選んだ。」とある。
 2・26:底本は、「存する」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 3:底本は、「用ゆべき」。
 4:底本は、「知る人なき事」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「先帝。」とある。
 6:底本は、「卞和(べんくわ)の右の足」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 7:底本は、「玉と名づけ、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 8:底本頭注に、「恵文王。」とある。
 9:底本頭注に、「昭王。」とある。
 10:底本は、「なれば」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 11:底本頭注に、「怒らし。」とある。
 12:底本は、「君主」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 13:底本は、「瓫(ほとぎ)」。
 14:底本は、「無代(むだい)に」。底本頭注に、「代償なしにて。」とある。
 15:底本は、「剣戟(けんげき)を帯せず、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 16:底本は、「由申し入れ」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 17:底本頭注に、「虚言。」とある。
 18:底本頭注に、「〇盜跖 秦時代の大盗で荘子に詳し。」「〇文成 資治通鑑に齊人の李少翁が武帝に見えた。帝が幸した王夫人が卒した。少翁は方を以て夜鬼を致した所が王夫人の顔の如くだつた。帝は帷中から之を望み乃ち拝して文成将軍となしたと見える。」とある。
 19:底本は、「万古(ばんこ)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 20:底本頭注に、「牛車に乗つたまゝ宮門を出入してよいといふみことのり。」とある。
 21:底本は、「目を側(そばだ)てて」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 22:底本は、「館(たち)にぞ」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 23:底本頭注に、「嘲笑したので。」とある。
 24:底本は、「者なれば、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 25:底本は、「文(ぶん)を行ひ、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。