妙吉侍者の事 附 秦の始皇帝の事
この頃、左兵衛督直義朝臣、将軍に代はつて天下の権を取りたまひし後、専ら禅の宗旨に傾いて、夢窓国師の御弟子となり、天竜寺を建立して陞座拈香の招請隙なく、供仏施僧の財産、目を驚かさずと云ふ事なかりけり。
ここに、夢窓国師の法眷{*1}に妙吉侍者といひける僧、これを見て羨ましき事に思ひければ、仁和寺に志一房とて外法成就の人のありけるに、咜祇尼天{*2}の法を習ひて、三七日行ひけるに、頓法たちどころに成就して、心に願ふ事のいささかも叶はずといふ事なし。
これより夢窓和尚も、この僧を以て一大事に思ふ心、つき給ひにければ、左兵衛督の参られたりける時、和尚、宣ひけるは、「日夜の参禅、学道の御ために候へば、如何にも怠る処をこそ勧め申すべく候へども、行路、程遠くして、往還の御煩ひ、その恐れ候へば、今より後は、これに妙吉侍者と申す法眷の僧の候を、参らせ候べし。語録なんどをもかひがひしく沙汰し、祖師{*3}の心印をも直に承当し候はんずる事、恐らくは恥づべき人も候はねば、我に替はらず常に御相看候て、御法談候べし。」とて、則ち妙吉侍者を左兵衛督の方へぞ遣はされける。
直義朝臣、一度この僧を見奉りしより、信心胆に銘じ、渇仰類なかりければ、唯、西天の祖達磨大師、二度我が国に西来して、直指人心の正宗を示さるるかとぞ思はれける。やがて一條堀川村雲の戻橋といふ所に寺を立てて、宗風を開基するに、左兵衛督、日夜の参学、朝夕の法談、隙なかりければ、その趣に随はんために、山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹{*4}の長老も、風を顧みて吹挙を臨む。況んや卿相雲客の交じはり近づき給ふ有様、奉行頭人のへつらひたる体、語るに詞も及ぶべからず。車馬、門前に立ち列なり、僧俗、堂上に群集す。その一日の布施物、一座の引手物などを集めば、山の如く積むべし。唯、釈尊出世のその古、王舎城より毎日、五百の車に色々の宝を積んで仏に奉り給ひけるも、これには過ぎじとぞ見えたりける。
かやうに万人崇敬、類なかりけれども、師直師泰兄弟は、「何條その僧の知恵才学、さぞあるらん。」と欺いて、一度も更に相看せず。あまつさへ、門前を乗り打ちにして、路次に行き逢ふ時も、大衣を沓の鼻に蹴さする体にぞ振舞ひける。吉侍者、これを見て安からぬ事に思ひければ、物語の端、事のついでには、唯、「執事兄弟の振舞、穏便ならぬものかな。」と云ひ沙汰せられけるを聞きて、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔、「すはや、究竟の事こそありけれ。師直師泰を讒し失はんずる事は、この僧にまさる人あらじ。」と思はれければ、やがて交じはりを深くし媚びを厚くして、様々讒をぞ構へける。吉侍者も、元来、憎しと思ふ高家の者どもの振舞なれば、事に触れ、「彼等が所行の有様、国を乱り政を破る最たり。」と讒し申さるる事多かりけり。
中にも、詞巧みに譬への実にもとおぼゆる事ありけるは、或る時、首楞厳経の談義、已に終はつて、異国本朝の物語に及びける時、吉侍者、左兵衛督に向つて申されけるは、「昔、秦の始皇帝と申しける王に、二人の王子おはしけり。兄をば扶蘇、弟をば胡亥とぞ申しける。扶蘇は第一の御子にておはせしかども、常に始皇帝の御政の治まらで、民をば{*5}憐れまず、仁義を専らにし給はぬ事を諌め{*6}申されける程に、始皇帝の叡慮に逆ひて、さしもの御おぼえもなかりけり。第二の御子胡亥は、寵愛の后の腹にておはする上、驕りを好み賢を憎み、悪愛他に異にして、常に君の傍を離れず、趙高と申しける大臣を執政に附けられ、万事唯、この計らひにぞ任せられける。
「かの秦の始皇と申すは、荘襄王の御子なりしが、年十六の始め、魏の畢万、趙の襄公、韓の白宣、齊の陳敬仲、楚王、燕王の六国を皆滅ぼして、天下を一にし給へり。諸侯を朝せしめ四海を保てる事、古今第一の帝にておはせしかば、『これをぞ始めて皇帝とは申すべし。』とて、始皇とぞ尊号を奉りける。
「ここに、『昔、洪才博学の儒者どもが、五帝三王の跡を追ひ、周公孔子の道を伝へて、今の政、古に違ひぬと毀り申す事、唯、書伝の世にある故なり。』とて、三墳五典史書全経{*7}、総て三千七百六十余巻、一部も天下に残さず、皆焼き棄てられけるこそ浅ましけれ。又、『四海の間に、宮門警固の武士より外は、兵具を持つべからず。』一天下の兵どもが持つ処の弓箭兵仗、一つも残らず集めてこれを焼き棄てて、その鉄を以て長さ十二丈の金人十二人を鋳させて、湧金門にぞ立てられける。
「かやうの悪行、聖に違ひ天に背きけるにや、邯鄲といふ所へ天より災ひを告ぐる悪星一つ落ちて、忽ちに方十二丈の石となる。面に一句の文字あつて、秦の代滅びて漢の代になるべき瑞相をぞ示したりける。始皇、これを聞き給ひて、『これ、全く天のする所にあらず。人のなす禍ひなり。さのみ遠き所の者には、よもこれをせじ。四方十里が中を離るべからず。』とて、この石より四方十里が中に居たる貴賤の男女、一人も残らず皆首を刎ねられけるこそ不便なれ。
「東南には函谷二崤{*8}の嶮しきをそばだて、西北には洪河涇渭の深きを巡らして、その中に廻り三百七十里、高さ三里の山を九重に築き上げて、口六尺の銅柱を立て、天に鉄の網を張りて、前殿四十六殿、後宮三十六宮、千門万戸とほり{*9}開き、麒麟列なり鳳凰相向かへり。虹の梁、金の鐺{*10}、日月光を放ちて、楼閣互に映徹し、玉の砂、銀の床、花柳影を浮かべて、階闥{*11}品々に分かれたり。
「その居所を高くし、その歓楽を極め給ふについても、唯、有待の御命限りある事を歎き給ひしかば、『如何にもして蓬莱にある不死の薬を求めて、千秋万歳の宝祚を保たん。』と思ひ給ひける処に、徐福、文成と申しける道士二人来つて、『我、不死の薬を求むる術を知りたる』由申しければ、帝、限りなく悦び給ひて、先づ彼に大官を授けて、大禄を与へ給ふ。やがて彼が申す旨に任せて、年未だ十五に過ぎざる童男丱女{*12}六千人を集め、竜頭鷁首の船に載せて、蓬莱の島をぞ求めける。
「海漫々としてほとりなし。雲の浪煙の波いと深く、風浩々として閑かならず、月花星彩、蒼茫たり。蓬莱は、今も古も唯、名をのみ聞きける事なれば、天水茫々として、求むるに所なし。『蓬莱を見ずんば、否や、帰らじ。』といひし童男丱女は、いたづらに船の中にや老いぬらん。徐福、文成、その偽りの顕はれて、責めの我が身に来らんずることを恐れて、『これは、いかさま、竜神の祟りをなすとおぼえ候。皇帝自ら海上に幸なつて、竜神を退治せられ候ひなば、蓬莱の島をなどか尋ね得ぬこと候べき。』と申しければ、始皇帝、『実にも。』とて、数万艘の大船を漕ぎ並べ、連弩とて、四、五百人して引いて同時に放つ大弓大矢を、船毎に持たせられたり。これは、祟をなす竜神、もし海上に現じて出でたらば、射殺さんための用意なり。
「始皇帝、已に之罘の大江を渡り給ふ道すがら、三百万人の兵ども、舷を叩き大鼓を打つて鬨を作る声、止む時なし。磯山嵐、沖津浪、互に響きを交じへて、天維坤軸もろともに絶え砕けぬとぞ聞こえける。竜神、これにや驚き給ひけん、臥したけ五百丈ばかりなる鮫大魚と云ふ魚に変じて、浪の上にぞ浮かび出でたる。頭は獅子の如く、遥かなる天に伸び上がり、背は竜蛇の如く、万頃の浪に横たはれり。数万艘の大船、四方に漕ぎ分かれて、同時に連弩を放つに、数百万の毒の矢にて鮫大魚の身に射立てければ、この魚、忽ちに射殺され、蒼海万里の波の色、皆血になつてぞ流れける。始皇帝、その夜竜神と自ら戦ふと夢を見給ひたりけるが、翌日より重き病をうけて、五体暫くも安き事なく、七日の間苦痛逼迫して、遂に沙丘の平台にして、則ち崩御なりにけり。
「始皇帝、自ら詔を遺して、御位をば第一の御子扶蘇に譲り給ひたりけるを、趙高、『扶蘇、御位に即き給ひなば、賢人才人みな朝家に召し仕はれ、天下を我が心に任する事あるまじ。』と思ひければ、始皇帝の御譲りを引き破つて捨て、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥と申しけるに代をば譲り給ひたりと披露して、あまつさへ討手を咸陽宮へ差し遣はし、扶蘇をば討ち奉りてけり。
「かくて、幼稚におはする胡亥を、二世皇帝と称して御位に即け奉り、四海万機の政、唯、趙高が心のままにぞ行ひける。この時、天下初めて乱れて、高祖、沛郡より起こり、項羽、楚より起こつて、六国の諸侯、悉く秦を背く。これに依つて、白起、蒙恬、秦の将軍として戦ふといへども、秦の軍、利なくして、大将皆討たれしかば、秦又、章邯を上将軍として、重ねて百万騎の勢をさし下し、河北の間に戦はしむ。百たび戦ひ千たび遭ふといへども、雌雄未だ決せず、天下の乱、止む時なし。
「ここに趙高、秦の都咸陽宮に兵の少なき時を伺ひ見て、『二世皇帝を討ち奉り、我、世を取らん。』と思ひければ、先づ我が威勢の程を知らんために、夏毛の鹿に鞍を置きて、『この馬に召されて御覧候へ。』と、二世皇帝にぞ奉りける。二世皇帝、これを見給ひて、『これ、馬にあらず。鹿なり。』と宣ひければ、趙高、『さ候はば、宮中の大臣どもを召されて、鹿馬の間を御尋ね候べし。』とぞ申しける。二世、即ち百司千官、公卿大臣、悉く召し集めて、鹿馬の間を問ひ給ふ。人皆、目しふる{*13}者にあらざれば、馬にあらずとは見えけれども、趙高が威勢に恐れて、『馬なり。』と申さぬはなかりけり。二世皇帝、一度、鹿馬の分かちに迷ひしかば、趙高大臣は、忽ちに虎狼の心をさし挟めり。
「これより趙高、『今は、我が威勢を押す人はあらじ。』と、兵を宮中に差し遣はし、二世皇帝を攻め奉るに、二世、趙高が兵を見て、遁るまじき処を知り給ひければ、自ら剣の上に伏して、則ち御自害ありてけり。これを聞いて、秦の将軍にて漢楚と戦ひける章邯将軍も、『今は、誰をか君として秦の国をも守るべき。』とて、忽ちに降人になつて、楚の項羽の方へ出でければ、秦の代、忽ちに傾いて、高祖項羽もろともに咸陽宮に入りにけり。趙高、世を奪ひて二十一日と申すに、始皇帝の御孫子嬰と申ししに殺さる。子嬰は又、楚の項羽に殺され給ひしかば、神陵三月の火、九重の雲を焦がし、泉下多少の宝玉、人間の塵となりにけり。
「さしもいみじかりし秦の代、二世に至つて亡びしことは、唯、趙高が奢りの心より出で来たる事にて候ひき。されば、古も今も、人の代を保ち家を失ふ事は、その内の執事管領の善悪によることにて候。今、武蔵守越後守が振舞にては、世の中静まり得じとこそおぼえて候へ。我が被官の者の、恩賞をも賜はり御恩をも拝領して少所なる由を歎き申せば、『何を少所と歎き給ふ。その近辺に寺社本所の所領あらば、境を越えて知行せよかし。』と下知す。又、罪科あつて所帯を没収せられたる人、縁書{*14}を以て執事兄弟に属し、『如何仕るべき。』と歎けば、『よしよし、師直、そらしらずして見んずるぞ。たとひ如何なる御教書なりとも、唯、押さへて知行せよ。』と成敗す。
「又、正しく承りし事の浅ましかりしは、『都に王といふ人のましまして、若干の所領をふさげ、内裏、院御所といふ所のあつて、馬より下るむづかしさよ。もし王なくて叶ふまじき道理あらば、木を以て造るか、金を以て鋳るかして、生きたる院、国王をば、いづ方へも皆流し捨て奉らばや。』といひし詞の浅ましさよ。
「一人、天下に横行するをば、武王、これを恥ぢしめりとこそ申し候へ{*15}。況んや、己が身申し沙汰する事をも、へつらふ人あれば改めて非を理になし、下として上を犯す科、事、既に重畳せり。その罪を刑罰せられずば、天下の静謐、いづれの時をか期し候べき。早く彼等を討たせられて、上杉、畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ参らせんと思し召す御心の候はずや。」と、詞を尽くし譬へを引いて、様々に申されければ、左兵衛督{*16}、つらつら事の由を聞き給ひて、「実にも。」と悟る心、つき給ひにけり。
これぞ早、仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗どもが、『又、天下を乱らん。』と、様々に計りし事の端よとおぼえたる。
直冬西国下向の事
先づ、「西国静謐のため。」とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。
そもそもこの直冬と申すは、古、将軍の忍びて一夜通ひ給ひたりし越前局と申す女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男になして{*17}京へ上せ奉りし人なり。この由、内々申し入るる人ありしかども、将軍、かつて許容し給はざりしかば、独清軒玄恵法印がもとに所学して、幽かなる体にてぞ住み侘び給ひける。器用、事がら、さる体に見え給ひければ、玄恵法印、事のついでを得て左兵衛督に、かくと語り申したりけるに、「さらばその人、これへ具足して御渡り候へ。事の様、よくよく試みて、げにもと思ふ処あらば、将軍へも申し達すべし。」と、始めて直冬を左兵衛督の方へぞ招引せられける。
これにて一、二年過ぎけるまでも猶、将軍、許容の儀なかりけるを、紀伊国の宮方ども蜂起して、事、難儀に及びける時、将軍、始めて父子の号を許され、右兵衛佐に補任して、この直冬を討手の大将にぞ差し遣はされける。紀州、暫く静謐の体にて、直冬、帰参せられしより後、早、人々これを重んじ奉る儀も出で来り、時々、将軍の御方へも出仕し給ひしかども、猶、座席なんどは仁木、細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未だ無かりき。
而るを今、左兵衛督の計らひとして西国の探題になし給ひければ、いつしか人皆帰服し奉りて、附き従ふ者多かりけり{*18}。備後の鞆におはし給ひて、中国の成敗を司るに、忠ある者は、望まざるに恩賞を賜はり、咎ある者は、罰せざるにその境を去る。
これより、多年非をかざりて上を犯しつる師直師泰が悪行、いよいよ隠れもなかりけり。
校訂者注
1:底本は、「法眷(ほつけん)」。底本頭注に、「同朋即ち同弟子。」とある。
2:底本は、「咜祇尼天(だきにてん)」。底本頭注に、「稲荷のこと。本地は弁財天。」とある。
3:底本は、「祖父」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇祖父 達磨大師。」「〇心印 祖庭事苑に『達磨西来不立文字、単伝心印、直指人心見性成仏、証道歌梵。』」とある。
4:底本頭注に、「〇山門 比叡山延暦寺。」「〇寺門 三井寺。」「〇五山 天竜、相国、建仁、東福、万寿の五寺。」「〇十刹 禅宗の有名な十寺を数へて云ふ。」とある。
5:底本は、「民をも愍(あは)れまず」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
6:底本は、「事を申されける」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
7:底本頭注に、「〇三墳 伏羲、神農、黄帝の書。」「〇五典 少昊、顓頊、高辛、唐、虞の書。」「〇史書 一般の史書。」「〇全経 経書全体で六経を云ふ。」とある。
8:底本は、「二崤(じかう)」。底本頭注に、「崤山に二陵があるので二崤と云ふ。」とある。
9:底本は、「とをり」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
10:底本は、「虹(こう)の梁(うつばり)金の鐺(こじり)、」。底本頭注に、「〇虹の梁 西都賦(底本は「賊」)の註に『梁曲如虹故言虹梁』」「〇鐺 榱の端の飾。」とある。
11:底本は、「階闥(かいたつ)」。底本頭注に、「宮殿。」とある。
12:底本は、「丱女(くわんぢよ)」。底本頭注に、「少女。」とある。
13:底本は、「盲(めしひ)る」。
14:底本は、「縁書(えんしよ)」。底本頭注に、「ゆかりある者の頼み書。」とある。
15:底本は、「申し候。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇一人天下に云々 孟子に『一人衡行天下武王恥之。』註に『衡は横なり。』とある。」とある。
16:底本頭注に、「足利直義。」とある。
17:底本頭注に、「〇喝食 禅律の寺院の侍童。」「〇男になして 元服せさせて。」とある。
18:底本は、「多かりける。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
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