巻第二十七

天下妖怪の事 附 清水寺炎上の事

 貞和五年正月の頃より、犯星客星{*1}、隙なく現じければ、「かたがたその慎しみ軽からず。王位の愁へ、天下の変、兵乱、疫癘あるべし。」と陰陽寮、頻りに密奏す。これをこそ如何と驚く処に、同じき二月二十六日夜半ばかりに、将軍塚、おびただしく鳴動して、虚空に兵馬の馳せ過ぐる音、半時ばかりしければ、京中の貴賤、不思議の思ひをなし、「何事のあらんずらん。」と魂を冷やす処に、明くる二十七日の午の刻に、清水坂より俄に失火出で来て、清水寺の本堂、阿弥陀堂、楼門、舞台、鎮守まで一宇も残らず炎滅す。火災は尋常の事なれども、風吹かざるに、大きなる炎遥かに飛び去つて、厳重の御祈祷所、一時に焼失すること、只事にあらず。およそ天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄{*2}、定まれる表事なり。
 又、同じき六月三日、八幡の御殿、辰の刻より酉の時まで鳴動す。神鏑、声を添へて、王城を差して鳴りて行く。
 又、六月十日より、太白、辰星、歳星の三星、あはせて打ち続きしかば、「月日を経ず大乱出来して、天子位を失ひ、大臣災ひを受け、子父を殺し、臣君を殺し、飢饉疫癘兵革相続き、餓莩{*3}巷に満つべし。」と天文博士、註説す。
 また閏六月五日戌の刻に、巽の方と乾の方より稲光輝き出でて、両方の光、寄り合つて戦ふが如くして、砕け散つては寄り合つて、風の猛火を吹き上ぐるがごとく、余光、天地に満ちてひかる中に、異類異形のもの見えて、乾のひかり退き行き、巽のひかり進み行きて、互のひかり消え失せぬ。「この妖怪、いかさま、天下おだやかならじ。」と申し合ひにけり。

田楽の事 附 長講見物の事

 今年、多くの不思議打ち続く中に、洛中に田楽を翫ぶ事、法に過ぎたり。大樹{*4}、これを興ぜらるる事、又、類なし。されば、万人手足を空にして、朝夕これがために婬費す。「関東亡びんとて、高時禅門、好み翫びしが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なり。」とぞ申しける。
 同じき年六月十一日、抖擻の沙門{*5}ありけるが、四條橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合はせ、老若に分かちて、能くらべをぞせさせける。四條河原に桟敷を打つ。「希代の見物なるべし。」とて、貴賤の男女、こぞる事ななめならず。公家には摂籙{*6}大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹、これを興ぜられしかば、その以下の人々は申すに及ばず、卿相雲客、諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至るまで、我劣らじと桟敷を打つ。五、六、八、九寸の安の郡{*7}などをゑり貫きて、わたり{*8}八十三間に三重四重に組み上げ、物もおびただしく構へたり。
 已に時刻になりしかば、軽軒香車、地を争ひ、軽裘肥馬、繋ぐに所なし。幔幕、風に飛揚して、薫香、天に散満す。新、本の老若、東西に仮屋を打つて、両方に橋懸かりを懸けたりける。楽屋の幕には纐纈を張り、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚ぐるに異ならず。舞台に曲彔縄床を立て並べ、紅緑の氈を延べ敷いて、豹虎の皮を懸けたれば、見るに眼を照らされて、心も空になりぬるに、律雅、調べ凄まじく、颯声、耳を澄ます処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴らし、音取りの笛を吹き立てたれば、匂ひ薫蘭を凝らし、粧ひ紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練り出でたれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の鉄漿黒にて、色々の花鳥を織り尽くし、染め狂はしたる水干に、銀の乱紋打つたる下濃の袴に下括りして拍子を打ち、綾藺笠{*9}を傾け、西の楽屋よりきらめき渡つて出でたるは、誠にゆゆしくぞ見えたりける。
 一のささら{*10}は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉{*11}は道一。各々神変の堪能なれば、見物、耳目を驚かす。かくて立て合ひ終はりしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染みてぞ出だしたる。かかる処に、新座の楽屋より、八、九歳の童に猿の面をきせ、御幣を差し上げて、赤地の金襴の打ち懸けに虎の皮の貫{*12}を踏み開き、小拍子に懸けて紅緑の反り橋を斜めに踏んで出でたりけるが、高欄に飛び上がり、左へ廻り右へ巡り、跳ね返つては上がりたる有様、誠にこの世のものとは見えず。「忽ちに山王神託して、この奇瑞を示さるるか。」と、感興、身にぞ余りける。されば、百余間の桟敷ども、こらへかねて座にも堪らず、「あら、面白や。堪へがたや。」と喚き叫びける間、感声、席に余りつつ、暫しは閑まりもやらず。
 かかる処に、将軍の御桟敷のあたりより、いつくしき女房の練貫の褄高く取りけるが、扇を以て幕を揚ぐるとぞ見えし。大物の五六にて打ちつけたる桟敷、かたぶき立つて、「あれや、あれや。」といふほどこそあれ、上下二百四十九間、ともに将棋倒しをするが如く、一度にどうとぞ倒れける。若干の大物ども落ち重なりける間、打ち殺さるる者、その数を知らず。かかる紛れに物取りども、人の太刀刀を奪ひて逃ぐるもあり、見つけて切つて留むるもあり。或いは腰膝を打ち折られ、手足を打ち切られ、或いは己と抜けたる{*13}太刀長刀にここかしこを突き貫かれて血にまみれ、或いは沸かせる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。ただ、衆合叫喚の罪人もかくやとぞ見えたりける。
 田楽は、鬼の面を著ながら、装束を取つて逃ぐる盜人を、赤き笞を打ち振りて、追つて走る。人の中間若党は、主の女房を舁き負ひて逃ぐる盗人を、打物の鞘をはづして追つ懸くる。返し合はせて切り合ふところもあり、切られて朱になる者もあり。修羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前にあるが如し。「梶井宮も、御腰を打ち損ぜさせたまひたり。」と聞こえしかば、一首の狂歌を四條河原に立てたり。
  釘附にしたる桟敷のたふるるは梶井宮{*14}の不覚なりけり
又、「二條関白殿も御覧じ給ひたり。」と申しければ、
  田楽の将棋だふしの桟敷には王ばかりこそ上がらざりけれ
 「これ、只事にあらず。いかさま、天狗の所行にこそあるらん。」と思ひ合はせて、後、よくよく聞けば、山門西塔院釈迦堂の長講{*15}、所用ありて下りける道に、山伏一人行き合つて、「只今、四條河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申しければ、長講、「日、已に日中になり候。また、用意の桟敷なんど候はで、唯今よりその座に臨み候とも、内へ如何か入り候べき。」と申せば、山伏、「内へ易く入れ奉れるべき様、候。唯、我が後について歩まれ候へ。」とぞ申しける。長講、「実にも、聞ける如くならば、希代の見物なるべし。さらば、行きて見ばや。」と思ひければ、山伏の後につきて三足ばかり歩むと思ひたれば、おぼえず四條河原に行き至りぬ。
 早、中門の口打つ程になりぬれば、鼠戸の口も塞がりて{*16}、入るべき方もなし。「如何して内へは入り候べき。」とわぶれば、山伏、「我が手に取りつかせ給へ。飛び越えて内へ入り候はん。」と申す間、「実しからず。」と思ひながら手に取りつきたれば、山伏、長講を小脇に挟んで、三重に構へたる桟敷を軽々と飛び越えて、将軍の御桟敷の中にぞ入りにける。
 長講、席に坐し、座中の人々を見るに、皆、仁木、細川、高、上杉の人々ならでは交じはりたる人もなければ、「如何この座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、かの山伏、忍びやかに、「苦しかるまじきぞ。唯、それにて見物したまへ。」と申す間、長講は、「様ぞあるらん。」と思ひて、山伏と並んで将軍の対座に居たれば、種々の献杯、様々の美物の、杯の始まるごとに、将軍、殊にこの山伏と長講とに色代{*17}ありて、替はる替はる始めたまふ処に、新座の楽屋より、猿の面を著て御幣を差し挙げ、橋の高欄を一飛び飛びては拍子を踏み、踏みては御幣を打ち振つて、誠に軽げに跳り出でたり。
 上下の桟敷見物衆、これを見て、座席にも堪らず、「面白や、堪へがたや。我、死ぬるや。これ、助けよ。」と喚き叫んで感ずる声、半時ばかりぞののめきける{*18}。この時、かの山伏、長講が耳にささやきけるは、「余りに人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒まさせんずるぞ。騒ぎ給ふな。」といひて、座より立つて、或る桟敷の柱を、「えいや、えいや。」と押すと見えけるが、二百余間の桟敷皆、天狗倒しに逢ひてけり。よそよりは、辻風の吹くとぞ見えける。誠に今度桟敷の儀、神明、御眸を廻らされけるにや。
 かの桟敷崩れて人多く死にける事は、六月十一日なり。その次の日、終日終夜大雨。車軸を降らし、洪水盤石を流し、昨日の河原の死人、汚穢、不浄を洗ひ流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部、悉く霊神の威を助けて、清浄の法雨を注ぎける、ありがたかりしためしなり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「犯星(ぼんしやう)客星(きやくしやう)」。底本頭注に、「ともに不祥の星の名。」とある。
 2:底本頭注に、「火神。火災。」とある。
 3:底本は、「餓莩(がへう)」。底本頭注に、「飢ゑ死んだ者。」とある。
 4:底本は、「大樹(だいじゆ)」。底本頭注に、「将軍。」とある。
 5:底本は、「抖擻(とそう)の沙門(しやもん)」。底本頭注に、「行脚の僧。」とある。
 6:底本は、「摂籙(せつろく)」。底本頭注に、「摂政。」とある。
 7:底本頭注に、「材木の出所。五六八九寸は材木の角をいふ。」とある。
 8:底本は、「囲(かこ)み」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本は、「綾藺笠(あやゐがさ)」。底本頭注に、「狩猟の時などに用ゐる藺で編んだ笠。」とある。
 10:底本は、「簓(さゝら)」。
 11:底本頭注に、「猿楽の技術の名。刀を空へ投げて手で受くるわざ。」とある。
 12:底本は、「貫(つらぬき)」。底本頭注に、「脚にはく皮製のもの。」とある。
 13:底本は、「己(おのれ)と抜きたる」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 14:底本は、「梶井宮(かぢゐのみや)」。底本頭注に、「〇梶井 鍛冶に言ひ懸く。」とある。
 15:底本頭注に、「堂守。」とある。
 16:底本頭注に、「〇中門の口打つ程云々 見物が大入りで木戸を閉ぢる程になつたので。」「〇鼠戸 門側の切戸。」とある。
 17:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
 18:底本頭注に、「騒いだ。」とある。