雲景未来記の事

 又、この頃、天下第一の不思議あり。出羽国羽黒といふ所に、一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申しける。「希代の目に逢ひたり。」とて、熊野の牛王の裏に告文を書きて、出だしたる未来記あり。
 雲景、諸国一見悉くあつて、過ぎにし春の頃より思ひ立つて、都に上り、今熊野に居住して、華洛の名跡を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なるに、天竜寺一見のために、西郊にぞ赴きける。官の庁の辺りより、年六十ばかりなる山伏一人、行き連れたり。かの雲景に、「御身は、いづくへ御座ある人ぞ。」と問ひければ、「これは、諸国一見の者{*1}にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕り候はばやと存じて、天竜寺へ参り候なり。」とぞ語りける。「天竜寺もさる事なれども、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざや、見せ奉らん。」とてさそひ行く程に、愛宕山とかや聞こゆる高峯に到りぬ。誠に仏閣綺麗にして、玉を敷き、金を鏤めたり。
 信心肝に銘じ、身の毛よだち貴く思ひければ、かくてもあらまほしく思ふ処に、この山伏、雲景が袖を控へて、「これまで参り給ひたる思ひ出に、秘所どもを見せ奉らん。」とて、本堂の後ろ、座主の坊とおぼしき所へ行きたれば、これ又、殊勝の霊地なり。ここに至つて見れば、人多く坐し給へり。或いは衣冠正しく金笏を持ち給へる人もあり、或いは貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景、恐ろしながら広廂{*2}にくぐまり居たるに、御座を二帖敷きたるに、大きなる金の鵄、翅をつくろひて著座したり。右の脇には、たけ八尺ばかりなる男の大弓大矢を横たへたるが、畏まつてぞ候ひける。左の一の座には、袞竜の御衣{*3}に日月星辰を鮮やかに織りたるを著給へる人、金の笏を持つて並み居給ふ。
 座敷{*4}の体、余りに怖ろしく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏、答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡らせ給へ。その傍なる大男こそ為義入道の八男、八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝、井上皇后{*5}、後鳥羽院、後醍醐院、次第の登位を追つて悪魔王の棟梁となり給ふ、やんごとなき賢帝達よ。その座の次なる僧綱達こそ、玄昉、真済、寛朝{*6}、慈恵、頼豪、仁海、尊雲等の高僧達、同大魔王となつて、今ここに集まり、天下を乱し候べき評定にてあり{*7}。」とぞ語りける。
 雲景、恐ろしながら、「不思議の事かな。」と思ひつつ畏まり居たれば、一の座の宿老の山伏、「これは、いづくより来り給ふ人ぞ。」と問ひければ、引導の山伏、しかじかとぞ申しける。その時、この老僧、会釈して、「さらば、この間京中の事どもをば皆、見聞き給ふらん。何事か侍る。」と問ひければ、雲景、「殊なる事も候はず。この頃は唯、四條河原の桟敷の崩れて、人多く打ち殺され候事、『昔も今も、かかる事候はず。唯、天狗のわざ。』とこそ申し候へ。その外には、『将軍御兄弟、この頃執事の故に、御中不快。』と申し候。『これ、もし天下の大儀に成り候はんずるやらん。』と貴賤、申し候。」とぞ答へける。
 その時、この{*8}山伏申しけるは、「さることもあるらん。桟敷の顛倒は、総じて天狗のわざばかりにも非ず。故をいかにといふに、当関白殿{*9}は、忝くも天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として、やんごとなき上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申すは、今上皇帝の御連枝{*10}にて、三塔の貫首、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にておはします。将軍と申すは、弓矢の長者にて、海内の衛護の人なり。而るに、この桟敷と申すは、橋の勧進に桑門の世捨人{*11}が興行する処なり。見物の者といふは、洛中の地下人、商売の輩どもなり。それに日本一州を治め給ふ貴人達、交じはり雑居し給へば、正八幡大菩薩、春日大明神、山王権現の怒りを含ませ給ふに依つて、この地を戴き給ふ堅牢地神、驚かせ給ふ間、その勢に応じて、皆崩れたるなり。この僧も、その頃京に罷り出でしかども、村雲の僧に申すべき事ありて立ち寄りしに、時刻移りて見ず。」とぞ申しける。
 雲景、「さて今、村雲の僧と申して、行徳権勢、世に聞こえ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向、『天狗にておはします。』と申し候は、如何様の事にて候やらん。」と問ひければ、この僧の曰く、「それは、さる事候。かの僧は、殊にさかしき人にて候間、天狗の中より選び出だして、乱世のなかだちのために遣はしたるなり。世の中乱るれば、元の住所へ帰るべきなり。さてこそ所多きに村雲といふ所に住するなれ。雲は、天狗の乗り物なるに依つての故なり。かやうの事、ゆめゆめ人に知らせ給ふべからず。初めてここへ尋ね来り給へば、委細の物語を申すなり。」とぞ語りける。
 雲景、「不思議の事をも見聞くものかな。」と思ひて、「天下の重事、未来の安否を聞かばや。」と思ひて、「さて将軍御兄弟、執事の間の不和は、いづれか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三條殿と執事の不快は、一両月を過ぐべからず。大なる珍事なるべし。理非の事は、是非を弁へ難し。この人々、身の難に逢ひ不肖なる時は、『あはれ、世を保たん時は、政道をもよく行はんずるものを。』と思ひしかども、富貴充満の後は、古のあらまし、一事も通らず。上暗く下へつらひて、諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑑にも背き、天下貴賤の人望にも違ひて、我が非をば知らず、人を謗り合ふ心あり。唯、獅子の虫の獅子の肉を食らふが如し。たまたま仁政と思ふ事も、さもあらず。唯、人の煩ひ歎きのみなり。
 「それ仁とは、恵みを四海に施し、深く民を憐れむを仁といふ。それ政道といふは、国を治め人を憐れみ、善悪親疎を分かたず撫育するを申すなり。然るに近日の儀、いささかも善政を聞かず。欲心熾盛にして、君臣父子の道をも弁へず、唯、人の財を我が有にせんとばかりの心なれば、偽り飾らずといふ事なし。仏神よく知見しおはしませば、我が企つる処も成らず、果報浅深に依つていささか世を取り国を保つものありといへども、真実の儀にあらず。されば、一人として世を治め、運長久に保たざるなり。君を軽んじ、仏神をだにも恐るる処なき末世なれば、かつてその外の政道、何事かあるべき。然る間、悪逆の道こそ替はれ、猜み、もどき{*12}合ふ輩、いづれも差別なく亡びんこと、疑ひなし。喩へば、山賊と海賊と寄り合つて、互に犯科の得失を指し合ふが如し。
 「されば、近年武家の世を執る事、頼朝卿より以来高時に至るまで已に十一代、蛮夷の賤しき身を以て世の主たる事、必ず本義にはあらねども、世、澆季に及ぶしるしに力なく、時と事と、唯一世の道理にあらず。臣君を殺し、子父を殺す、力を以て争ふべき時到る故に、下剋上の一端にあり。高貴、清花も、君主、一の人{*13}も、共に力を得ず。下輩下賤の士、四海を呑む。これに依つて、天下、武家となるなり。これ、必ず誰がためにも非ず。時代機根相萌して、因果業報の時到る故なり。
 「君を遠島へ配し奉り、悪を天下に行ひし義時{*14}を、浅ましといひしかども、宿因のある程は、子孫、無窮に光栄せり。これ又、涯分の政道を行ひ、己を責めて徳を施ししかば、国豊かに、民苦しまず。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨て給ふ時を得て、先帝{*15}、高時を追伐せらる。これ、必ずしも後醍醐院の聖徳の至りに非ず。自滅の時到るなり。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給ひし後鳥羽院の御時は、上の威も強く、下の勢も弱かりしかども、下勝ち、上負けぬ。今、末世濁乱の時分なれども、下勝つ事を得ず、上負けざる事は、貴賤に依らず、運の興廃なるべし。これを以て心得給ふべし。」と語りければ、雲景、重ねて申さく、「先代、運尽きて亡びしかば、など先朝{*16}、久しく御代をば治めおはしまし候はぬ。」と問ひければ、「それ又、仔細ある事に候。
 「先朝、随分賢王の行ひをせんとし給ひしかども、真実、仁徳撫育の叡慮は総じてなし。絶えたるを継ぎ廃れたるを興し、神明仏陀を御帰依ある様に見えしかども、憍慢のみあつて実義おはしまさず。されども、それ程の賢王も末代にはあるまじければ、何事にもよき真似をばすべし。これを以て、暫くなれどもその御器用に当たり、運の傾く高時、消え方の灯の前の扇とならせ給ひて亡ぼし給ひぬ。その理に報いて、累代、繁栄四海に満ぜし{*17}先代をば亡ぼし給ひしかども、誠に尭舜の功、聖明の徳おはしまさねば、高時に劣る足利に世をば奪はれさせ給ひぬ。今、持明院殿は、なかなか権を執り運を開く武家に従はせ給ひて、ひとへに幼児の乳母を憑むが如く、奴と等しくなつておはします程に、仁道の善悪に依つて、かへつて形の如く安全におはしますものなり。これも、御本意にはあらねども、理をも欲心をも打ち捨てておはしまさば、末代邪悪の時、中々御運を開かせ給ふべきものなり。
 「とても王法は、平家の末より本朝には尽きはてて、武運ならでは立つまじかりしを御了知もなくて、仁徳聖化は昔に及ばずして、国を執らん御欲心ばかりを先とし、元に世を復すべしとて、末世の機分、戎夷の掌に堕つべき御悟り無かりしかば、御鳥羽院の御謀叛いたづらになつて、公家{*18}の威勢、その時より塗炭に堕ちしなり。されば、その宸襟を休めんために、先朝、高時を失ひ給ひしかども、尚、公家の代をば取らせ給はぬものなり。
 「さても、三種の神器を本朝の宝として、神代より伝はる璽、国を治め守るも、この神器なり。これは、伝ふるを以て詮となす。然るに、今の王者、この明器を伝ふる事なくて位を践みおはします事、誠に王位とも申し難し。然れども、さすが三箇の重事を執り行はせ給へば、天照大神も守らせ給ふらんと、憑もしき処もあるなり。この明器、我が朝の宝として、神代の始めより人皇の今に至るまで、取り伝へおはします事、誠に小国なりといへども、三国{*19}に超過せる我が朝神国の不思議は、これなり。されば、この神器なからん代は、月入りて後の残夜の如し。末代のしるし、王法を神道棄て給ふ事と知るべし。
 「この重器は、平家滅亡の時、安徳天皇、西海に渡し奉りて海底に沈められし時、神璽、内侍所をば取り返し奉りしかども、宝剣は遂に沈み失せぬ。されば王法、悪王ながら安徳天皇の御時までにて失ひ果てぬる証は、これなり。その故は、後鳥羽院の始めて三種の重器なくして元暦に践祚ありしに、その末流の皇統、継体として今に御相承の佳模{*20}とは申せども、思へば、かの元暦よりこそ正しく、本朝に武家を始め置かれ、海内に則り、君王をないがしろにし奉る事は、出で来にけれ。されば、武運、王道に勝ちし表示には、宝剣はその時までにて失せにき{*21}。依つて、武威盛んに立つて、国家を奪ふなり。
 「然れども、その尽きし後百余年は、武家、我意に任せて天下を司るといふとも、王位も文道も相残る故に、関東、形の如く政道をも治め、君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置きたれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主相伝領には手を懸けず、めでたかりしに、時代純機、宿報の感果ある事なれば、後醍醐院、武家を亡ぼし給ふに依つて、いよいよ王道衰へて、公家悉く廃れたり。この時を得て、三種の神器は、いたづらに微運の君に随つて、空しく辺鄙外土に交じはり給ふ{*22}。これ、神明、我が朝を棄て給ひ、王威、残る所なく尽きし証拠なり。これ、元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受け給ふ主に随ひ給はぬは、国を守らざるしるしなり。されば、神道王法、共になき代なれば、上廃れ下驕つて、是非を弁ふる事なし。然れば、師直師泰が安否、将軍兄弟の通塞{*23}も、弁へ難し。」とぞ語りける。
 雲景、重ねて申しけるは、「さては早、乱悪の世にて、下、上に逆ひ、師直師泰、我がままにしすまして、天下を保つべきか。」と問へば、「いや、さはあるべからず。如何に末世濁乱の儀にて、下先づ勝つて、上を犯すべし。されども又、上を犯す咎遁れ難ければ、下又、その咎に伏すべし。その故は、将軍兄弟も、敬ひ奉るべき一人の君主を軽んじたまへば、執事その外家人等も又、武将を軽んじ候。これ、因果の道理なり。されば、地口天心を呑む{*24}といふ変あれば、如何にも下剋上の謂はれにて、師直、先づ勝つべし。これより天下、大きに乱れて、父子兄弟、怨讎を結び、政道、いささかもあるまじければ、世上も左右なく静まり難し。」とぞ申しける。
 雲景、「今、かやうに世間の事、鏡を懸けて宣ひつる人は、誰そ。」と尋ぬれば、「かの老僧こそ、世に人の持ち扱ふ{*25}愛宕山の太郎房にておはします。」と答へける。尚も天下の安危、国の治乱を問はんとする処に、俄に猛火燃え来つて、座中の客、七顛八倒する程に、門外へ走り出づると思うたれば、夢の覚めたる心地して、大内の旧跡、大庭の椋の木の下に、朦々としてぞ立つたりける。
 四方を見廻したれば、日、已に西の山の端に残りて、京へ出づる人多ければ、それに伴ひて我が宿坊に辿り来て、心閑かにかの不思議を案ずるに、疑ひなく天狗道に行きにけり。「これは、唯打ち棄つべきに非ず。且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかし。」と思ひしかば、我が身の刑を顧みず、委細に書き載せ、熊野の牛王の裏に告文を書き添へ、貞和五年閏六月三日と書きつけて、伝奏につけて進奏す。誠に怪異の事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「一見(けん)にて候が、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 2:底本は、「広廂(ひろびさし)」。底本頭注に、「寝殿内の一間通りの廂。」とある。
 3:底本は、「袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)」。底本頭注に、「天子の礼服。」とある。
 4:底本は、「桟敷(さじき)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「〇淡路の廃帝 淳仁天皇。」「〇井上皇后 聖武帝の皇女。光仁帝皇后。」とある。
 6:底本頭注に、「〇玄肪 阿刀氏。」「〇真済 紀氏。」「〇寛朝 敦実親王の子で池僧正と号す。」とある。
 7:底本は、「評定にてある。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 8:底本は、「其の時山伏」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 9:底本頭注に、「藤原良基。」とある。
 10:底本頭注に、「兄弟。」とある。
 11:底本は、「桑門(さうもん)の世捨人(よすてびと)」。底本頭注に、「僧侶。」とある。
 12:底本頭注に、「非難し。」とある。
 13:底本頭注に、「摂政又は関白。」とある。
 14:底本頭注に、「北條義時。」とある。
 15:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 16:底本頭注に、「〇先代 北條高時。」「〇先朝 後醍醐帝。」とある。
 17:底本は、「満(み)たせし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「朝廷。」とある。
 19:底本頭注に、「印度、支那、日本。」とある。
 20:底本は、「佳模(かも)」。底本頭注に、「佳例。」とある。
 21:底本は、「失ひにき。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 22:底本頭注に、「〇微運の君 南朝の天皇を指す。」「〇辺鄙外土 片田舎即ち吉野を指す。」とある。
 23:底本頭注に、「吉凶。」とある。
 24:底本は、「地口(ちこう)天心(てんしん)を呑む」。底本頭注に、「下が上を凌ぐ。」とある。
 25:底本頭注に、「もてはやす。」とある。