左兵衛督師直を誅せんと欲する事
かかりし処に、師直師泰等誅罰の事、上杉、畠山が讒、尚深く、妙吉侍者、頻りに申されければ、将軍に知らせ奉らで、左兵衛督{*1}、ひそかに上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斎藤五郎左衛門入道、五、六人に評定あつて、内々師直兄弟を誅せらるる謀りごとをぞ議せられける。「大高伊予守は大力なり。宍戸安芸守は物馴れたる剛の者なれば。」とて、彼等二人を組手に定め、「もし手に余ることあらば、討ち洩らさぬ様に用心せよ。」とて、器用の者ども百余人、物具せさせて、ひそかにこれを隠し置き、師直をぞ召されける。
師直は、夢にも思ひ寄るべき事ならねば、若党中間は皆、遠侍、大庭に並み居て、中門の唐垣をかけへだて、師直唯一人、六間の客殿に坐したり。師直が今の命は、風待つ程の露よりも危ふしと見えける処に、殊更この事、勝れて申し沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心がはりして、「告げ知らせばや。」と思ひければ、ちと色代{*2}する様にして、吃と目くばせをしたりければ、師直、心早きものなりければ{*3}、やがて心得て、かりそめに罷り出づる体にて、門前より馬に打ち乗り、己が宿所にぞ帰りける。
その夜、やがて粟飯原、斎藤二人、執事の屋形に来つて、「この間、三條殿の御企て、上杉、畠山の人々の隠謀、とこそ候ひつれ、かくこそ候ひつれ。」と語りければ、執事、様々の引出物して、「猶も殿中様の事は、内々告げ承り候へ。」とて、斎藤、粟飯原を帰しけり。師直、これより用心厳しくして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め、虚病してぞ居たりける。
去年の春より越後守師泰は、楠退治のために河内国に下つて、石川河原に向ひ城を構へて居たりけるを、師直、使を遣はして事の由を告げたりければ、畠山左京大夫清国、紀伊国の守護にておはしけるを呼び奉つて、石川城をふまへさせて、越後守は、急ぎ京都へぞ帰り上りける。
左兵衛督は、師泰が大勢にて上洛する由、聞き給ひて、「この者が心をとらでは叶ふまじ。すかさばや。」と思はれければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万、短才庸愚の事ある間、暫く世務のいろひを止むるところなり。今より後は、越後守を以て管領に居せしむるものなり。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。師泰、この使に対して、「仰せ、畏まつて候へども、枝を切つて後、根を断たんとの御意にてぞ候らん。いかさま、罷り上り候て御返事をば申し入れ候べし。」と、事の外なる返事申して、やがてその日、石川の陣をぞ打ち出でける。甲冑を鎧うたる兵三千余騎にて打つ立つて、持楯、一枚楯、人夫七千余人に持たせて、ひたすら合戦の体に出で立つて、わざと白昼に京に入る。目を驚かす有様なり。
「師泰、執事の宿所に著きて、三條殿合戦の企てあり。」と聞こえければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行き向ふ。師直、急ぎ対面あつて、「三條殿、謂はれなく師直が一家を亡ぼさんとの御用意、事、已に喉に迫り候間、将軍へ内々事の由を歎き申して候へば、『武衛、左様の企てに及ぶ條、事の体、隠便ならず。速やかにその儀を留めて、讒者の罪を緩くすべからず。よくよく制止を加ふべし。もし猶、叙用せずして討手を遣はす事あらば、尊氏、必ず師直と一所になつて安否を共にすべし。』と仰せ出だされ候。将軍の御意、かくの如くに候へば、今は、恐れながら三條殿の討手に向つて、矢一つ仕らんずるにて候。京都の事は、内々志を通ずる人多く候へば、心安く候。尚も唯、難儀におぼえ候は、左兵衛佐殿、備後におはせられ候へば、一定、中国の勢を引きて攻め上られぬとおぼゆるばかりにて候。今夜、急ぎ播磨へ御下り候うて、山陰山陽の両道を、杉坂船坂の切所にて支へて給はり候へ。」とて、一献を勧められけるが、「この太刀は、保昌{*4}より伝へて、代々身を放たざる守りと存じ候へども、これを参らすべし。」とて、懐剣といふ太刀を錦の袋より取り出だして、赤松にこそ引きたりけれ。
円心、やがて領掌し、その夜、都を立つて播磨国に馳せ下り{*5}、三千余騎を二手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、二つの道を差し塞ぎ、義旗、雲竜を靡かして、回天の機をぞ顕はしける。されば直冬、「大勢にて上らん。」と議せられけるが、その支度、相違したりけり。
御所を囲む事
さる程に、「洛中には唯今合戦あるべし。」とてあわて立ちて、貞和五年八月十二日の宵より、数万騎の兵、上下へ馳せ違ふ。馬の足音、草摺の音、鳴り止む隙もなかりけり。
先づ三條殿へ参りける人々には、吉良左京大夫満義{*6}、同上総三郎満貞、石堂中務大輔頼房、同左馬頭頼直、石橋左衛門佐和義、子息治部大輔宣義、尾張修理大夫高経{*7}、子息民部少輔氏経、舎弟左近大夫将監氏頼、荒河三河守詮頼、細川刑部大輔頼春、同兵部大輔顕氏、畠山大蔵少輔直宗、上杉伊豆守重能、同左馬助朝房、同弾正少弼朝貞、長井大膳大夫広秀、和田越前守、高土佐守師秋、千秋三河左衛門大夫惟範、大高伊予守重成、宍戸安芸守朝重、二階堂美濃守行通、佐々木豊前次郎左衛門尉顕清、里見蔵人義宗、勝田能登守助清、狩野下野三郎、苑田美作守、波多野下野守、同因幡守、祢津小次郎、和久四郎左衛門尉、斎藤左衛門大夫利康、飯尾修理進入道、須賀壱岐守清秀、秋山新蔵人朝政、島津四郎左衛門尉、これ等を宗徒の兵として、都合その勢七千余騎、轅門を固めて控へたり。
執事師直の屋形へ馳せ加はる人々には、山名伊豆守時氏、今川五郎入道心省、同駿河守頼貞、吉良左近大夫将監貞経、大島讃岐守盛真、仁木左京大夫頼章、舎弟越後守義長、同弾正少弼頼勝、桃井修理亮義盛、畠山宮内少輔国頼、細川相模守清氏、土岐刑部大輔頼康、同明智次郎頼兼、同新蔵人頼雄、佐々木佐渡判官秀綱、同四郎左衛門尉秀定、同近江四郎氏綱、佐々木大夫判官氏頼、舎弟四郎左衛門尉直綱、同五郎左衛門尉定詮、同大原判官時親、千葉介貞胤、宇都宮三河入道、武田伊豆前司信氏、小笠原兵庫助政長、逸見八郎信茂、大内民部大輔、結城小太郎、梶原河内守、佐竹掃部助師義、同和泉守、三浦遠江守行連、同駿河次郎左衛門、大友豊前太郎頼時、土肥美濃守高真、土屋備前守範遠、安保肥前守忠実、小田伊賀守、田中下総三郎、伴野出羽守長房、木村長門四郎、小幡左衛門尉、曽我左衛門尉、海老名尾張六郎季直、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、二階堂山城三郎行元、中條備前守秀長、伊勢勘解由左衛門、設楽五郎兵衛尉、宇佐美三河三郎、清久左衛門次郎、富永孫四郎、寺尾新蔵人、厚東駿河守、富樫介を始めとして、多田院御家人、常陸平氏、甲斐源氏、高家の一族は申すに及ばず、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳せ寄る間、その勢程なく五万余騎、一條大路、今出川、転法輪、柳が辻、出雲路河原に至るまで、透きまもなく打ち込みたる。
将軍、これに驚かせ給ひ、三條殿へ使を以て仰せられけるは、「師直、師泰、過分の奢侈、身に余つて、忽ち主従の礼を乱る。末代といひながら、事、常篇に絶えたり{*8}。この上は、いかさま、それへ寄する事もあるべし。急ぎこれへ御渡り候へ。一所にて安否を定めん。」と仰せられければ、左兵衛督、馳せ集まりたる兵どもを召し具して、将軍の御所近衛東洞院へぞおはしける。この事の様を見て、叶はじとや思ひけん、初め馳せ集まりたる兵ども、五騎十騎落ち失せて、師直の手にぞ加はりける。されば、宗徒の御一族、近習の輩、弐心なく忠を存ずる兵、僅かに千騎にも足らざりけり。
明くれば八月十三日の卯の刻に、武蔵守師直、子息武蔵五郎師夏、雲霞の兵を相率して、法成寺河原に打ち出でて、二手にむづと押し分けて、将軍の御所の東北を十重二十重に囲みて、三度鬨をぞ揚げたりける。越後守師泰は、七千余騎を引き分けて、西南の小路を立て切り、搦手にこそ廻りけれ。「四方より火をかけて焼き攻めにすべし。」と聞こえしかば、兵火の余煙遁れ難しとて、その近辺の卿相雲客の亭、長講堂、三宝院へ資財雑具をはこび、僧俗男女、東西に逃げ迷ふ。
内裏も近ければ、軍勢、事に触れて狼藉をも致すべしとて、俄に竜駕を促され、持明院殿へ行幸なる。摂籙大臣、諸家の卿相、あわて騒いで馳せまゐる。宮中の官女上達部、かちにて逃げふためけば、八座七弁、五位六位、大吏外記、悉く階下庭上に立ち連なり、禁中変化の有様は、目も当てられざる事どもなり。暦応より以来は、天下、武家に帰し、世上も少し穏やかなりしに、去年、楠正行、乱を起こせしかども、討死せしかば、いよいよ無為の世になりぬと喜びあふ処に、俄にこの乱出で来ぬれば、「とにもかくにも、治まりやらぬ世の中。」と、歎かぬ者こそなかりけれ。
将軍{*9}も左兵衛督も、「師直、師泰、たとひ押し寄するといふとも、防戦に及ばん事、かへつて恥辱なるべし。兵、門前に防がば、御腹召さるべし。」とて、小具足ばかりにて閑まり返つておはしけり。師直、師泰、擬勢はこれまでなれども、さすがに押し寄する事はなく{*10}、いたづらに時をぞ移しける。
さる程に、須賀壱岐守を以て師直が方へ仰せられけるは、「累祖義家朝臣、天下の武将たりしより以来、汝が累祖、当家累代の家僕として、未だかつて一日も主従の礼儀を乱さず。然るに、一旦の怒りを以て、身に余る恩を忘れ、穏やかに仔細を述べず、大軍を起こして東西に囲みをなす。これ、たとひ尊氏を賤しとすとも、天の責めをば遁るべからず。心中に憤る事あらば、退いて所存を申すべし。但し、讒者の真偽に事を寄せて、国家を奪はんとの企てならば、再往の問答に及ぶべからず。白刃の前に我が命を止めて、忽ちに黄泉の下に汝が運を見るべし。」と、唯一言の中に若干の理を尽くして仰せられければ、師直、「いやいや、これまでの仰せを承るべしとは存ぜず。ただ讒臣の申す処を御承引候て、故なく三條殿より師直が一類滅ぼさんとの御結構にて候間、その身の誤らざる処を申し開き、讒者の張本を賜ひて、後人の悪習を懲らさんために候。」とて、旗の手を一同に颯と下させ、楯を一面に進めて両殿を囲み奉り、御左右{*11}遅しとぞせめたりける。
将軍、いよいよ腹を据ゑかねて、「累代の家人に囲まれて、下手人乞はれ、出だす例やある。よしよし、天下の嘲りに身を替へて討死せん。」とて、御小袖といふ鎧取つて召されければ、堂上堂下に集まりたる兵、兜の緒をしめ、色めき渡つて、「あはや、天下の安否よ。」と肝を冷やしける処に、左兵衛督、宥め申されけるは、「彼等、奢侈の梟悪、法に過ぐるに依つて、一旦誡め沙汰すべき由、相計らふを伝へ聞き、結句かへつて狼藉を企つる事、当家の瑕瑾、武略の衰微、これに過ぎたる事や候べき。しかしながら、この禍ひは、直義を恨みたる処なり。然るを、軽々しく家僕に対して防戦の御手を下さるる事、口惜しく候べし。彼今、讒者を指し申す上は、師直が申し請くるに任せ、彼等を召し出ださるる事、何の痛みか候べき。もし猶予の御返答あらんに、師直、逆威を振ひ、忠義を忘れば、一家の武運、この時軽くして、天下の大変、まのあたりあるべし。」と堅く制し申されしかば、将軍も、「諌言、違ふ処なし。」と思ひ給ひければ、「師直が申し請くる旨に任せ、今より後は、左兵衛督殿に政道いろはせ奉る事、あるべからず。上杉、畠山をば遠流せらるべし。」と許されければ、師直、喜悦の眉を開き、囲みを解きて打ち帰る。
次の朝やがて、「妙吉侍者を召し捕らん。」と人を遣はしけるに、早、先立つて逐電しければ、行き方も知れず。財産は方々へ運び取り、浮雲の富貴、忽ちに夢の如くなりにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「直義。」とある。
2:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
3:底本は、「ものなれば、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇心早きもの 敏捷の者。」とある。
4:底本は、「保昌(はうじやう)」。底本頭注に、「姓は藤原。致忠の子。」とある。
5:底本は、「播磨(の)国へ馳せ下(くだ)り、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「源義家七代の孫貞義の子。」とある。
7:底本頭注に、「足利次郎家定の子。」とある。
8:底本頭注に、「事が常規に外れてゐる。当時の通語。」とある。
9:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
10:底本は、「事なく、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
11:底本は、「御左右(おんさう)」。底本頭注に、「とかくの御返事。」とある。
コメント