右兵衛佐直冬鎮西没落の事

 かかりし後は、いよいよ師直、権威重くなつて、三條殿方の人々は、面を垂れ、眉を顰む。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆におはしけるを、師直、近国の地頭御家人に相触れて、「討ち奉れ。」と申し遣はしたりければ、同じき九月十三日、杉原又四郎、二百余騎にて押し寄せたり。俄の事なれば、防ぐべき兵も寡なくて、直冬朝臣、既に誅せられ給ひぬべかりしを、磯部左近将監が若党、散々に防ぎけるが、いづれも究竟の手だれにて、志す矢壺を違へず射ける矢に、十六騎に手負はせて、十三騎、馬よりさかさまに射て落としたりければ、杉原、少しひるんで懸かり得ざりければ、その間に右兵衛佐殿は、河尻肥後守幸俊が船に乗つて、肥後国へぞ落ちられける。志ある者は、小舟に乗つて追ひつき奉る。
 この佐殿{*1}は、武将の嫡家にて、中国の探題に下されて、人皆従ひ靡き奉り、富貴栄耀の門を開き、旨酒好会の席を延べ、楽しみ未だ半ばならざりしに、夢の間に引きかへて、心筑紫{*2}の落ち潮の、鳴戸にさして行く船は、片帆は雲に遡り、煙水眼に茫々たり。万里漂泊の愁へ、一葉扁舟の憂き思ひ、浪馴れ衣袖朽ちて、涙忘るるばかりなり。「一年、父尊氏卿{*3}、京都の軍に利なくして九州へ落ち給ひたりしが、幾程なく帰洛の喜びになり給ひしこと、遠からぬ佳例なり。」と、人々、上には勇めども、行方もいかがしらぬひ{*4}の、筑紫に赴く旅なれば、せん方なくぞ見えたりける。
 九月十三夜、名におふ月明らかにして、旅泊の思ひも切なりければ、直冬、
  梓弓われこそあらめひきつれて{*5}人にさへうき月を見せつる
と詠じ給へば、袖を濡らさぬ人はなし。

左馬頭義詮上洛の事

 さる程に、三條殿は、師直師泰が憤り猶深きに依つて、天下の政務の事、口入に及ばず。大樹{*6}は元来、政務を謙譲し給へば、自ら関東より左馬頭義詮を急ぎ上洛あらせて、直義に相替はらず政道を申し附け、師直、諸事を申し沙汰すべきに定まりにけり。
 この左馬頭と申すは、千寿王丸と申して、久しく関東に据ゑ置かれたりしが、「今は器にあたるべし{*7}とて、権柄のために上洛ある。」とぞ聞こえし。同じき十月四日{*8}、左馬頭、鎌倉を立つて、同じき二十二日に入洛し給ひけり。上洛の体、ゆゆしき見物なりとて、粟田口、四宮河原辺まで桟敷を打つて、車を立て、貴賤、巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉く勢多まで参向す。東国の大名も、川越、高坂を始めとして、大略、送りて上洛す。馬具足綺麗なりしかば、誠に耳目を驚かす。その美を尽くし、善を尽くすも理なるかな。将軍の長男にて、直義の政務に替はり、天下の権を執らんために上洛ある事なれば、一際珍らかなり。
 今夜、将軍の亭に著き給へば、仙洞より勧修寺大納言経顕卿を勅使にて、典厩{*9}上洛の事を賀し仰せらる。
 同じき二十六日、三條坊門高倉、直義朝臣の宿所へ移住せられ、やがて政務執行の沙汰始めあり。めでたかりし事どもなり。

直義朝臣隠遁の事 附 玄恵法印末期の事

 さる程に、直義は、世の交じはりを止め、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀河の宿所へ移られにけり。「猶も師直師泰は、かくて始終御憤りを止めらるまじければ、身のため悪しかるべしとて、ひそかに失ひ奉るべき由、内々議す。」と聞こえければ、その疑ひを散ぜんために、先づ世に望みなく、御身を捨て果てられたる心の中を知らせんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を落とし給ひける。未だ強仕の齢{*10}幾程も過ぎざるに、剃髪染衣の姿に帰したまひし事、盛者必衰の理といひながら、うたてかりける事どもなり{*11}。
 かかりしかば、「天下の事いろひし程こそあれ、今は、大廈高墻の内に身を置き軽羅褥茵の上に楽しむべきに非ず。」とて、錦小路堀河に幽閉閑疎の御住居、垣に苔むし軒に松古りぬるが、茅茨煙に篭つて、夜の月朦朧たり。荻花風にそよいで、暮の声蕭疎たり。時移り事去つて、人物、古にあらざることを感じ、蘿窓草屋の底に座来して、経巻をなげうつ隙もなかりけり。時しもあれ、秋暮れて時雨がちなる冬闌けぬ。寂しさまさる簾の外には、香炉峯の雪もうらやましく、身の古はあだし世の、夢かとぞ思ふ思ひきや、雪踏み分けし小野の山、今更思ひしられつつ、問ふ人もがなと思へども、世の聞き耳を憚つて、事問ふ人もなかりしに、独清軒玄恵法印、師直が許しを得て時々参りつつ、異国本朝の物語どもして慰め奉りけるが、「老病に犯されて参り得ず。」と申しければ、薬を一包み送り給ふとて、その包み紙に、
  ながらへて問へとぞおもふ君ならで今はともなふ人もなき世に
とありしかば、法印、これを見て、泣く泣く、
  {*k}君が一日の恩を感じて  我が百年の魂を招く
  病を扶けて床下に坐し  書を披いて涙痕を拭ふ{*k}
と、一首の小詩に九廻の思ひ{*12}を尽くして奉る。
 その後、程なく法印、身まかりにけり。恵源禅閤{*13}、哀れに思ひて、自らこの詩の奥に紙を継ぎて、六喩般若の真文を写して、かの追善にぞ擬せられける。

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校訂者注
 1:底本は、「佐殿(すけどの)」。底本頭注に、「右兵衛佐足利直冬。」とある。
 2:底本は、「心筑紫(こゝろつくし)」。底本頭注に、「心尽しと筑紫とを云ひ懸く。」とある。
 3:底本は、「父尊氏、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 4:底本は、「行方(ゆくへ)も如何(いかゞ)しらぬひの、」。底本頭注に、「〇しらぬひの 筑紫の枕詞で知らぬを含め云ふ。」とある。
 5:底本頭注に、「梓弓を引くを含め云ふ。」とある。
 6:底本は、「大樹(たいじゆ)」。底本頭注に、「将軍。」とある。
 7:底本頭注に、「重要の任に当るべし。」とある。
 8:底本は、「十月十四日」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「左右馬寮の唐名でこゝは義詮を指す。」とある。
 10:底本は、「強仕(きやうし)の齢(よはひ)」。底本頭注に、「四十歳。礼記に『四十曰強而仕。』」とある。
 11:底本は、「事もどなり。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「憂悶の心情。崔魯の詩に『玉楼春暖笙歌夜、肯信愁傷日九回。』」とある(底本は「王楼」)。
 13:底本は、「禅巷(ぜんかう)」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
 k:底本、この間は漢文。