巻第二十八
義詮朝臣御政務の事
貞和六年二月二十七日に改元あつて、観応にうつる。去年八月十四日に、武蔵守師直、越後守師泰等、将軍の御屋形を打ち囲みて、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔を攻め出だし、配所にて死罪に行ひたりし後、左兵衛督直義卿、出家して隠遁の体になり給ひしかば、将軍の嫡男宰相中将義詮、同じき十月二十三日、鎌倉より上洛あつて、天下の政道を執り行ひ給ふ。然りといへども、万事唯、師直、師泰が計らひにてありしかば、高家の人々の権勢、あたかも魯の哀公に季桓子が威を振ひ、唐の玄宗に楊国忠が驕りを極めしに異ならず。
太宰少弐直冬を聟とし奉る事
右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を落ちて、河尻肥後守幸俊がもとにおはしけるを、討ち奉るべき由、将軍より御教書をなされたりけれども、「これは唯、武蔵守師直が申し沙汰する処なり。誠に将軍の御意より事起こxつて成さるる御教書にあらず。」と、人皆、推量を廻らしければ、後の禍ひを顧みて、討ち奉らんとする人もなかりけり。
かかる処に、太宰少弐頼尚、如何思ひけん、この兵衛佐殿を聟に取つて、己が館に置き奉りければ、筑紫九国の外も、その催促に随ひ、彼の命を重んずる人、多かりけり。これに依つて、宮方、将軍方、兵衛佐殿方とて、国々三つに分かれしかば、世の中の怱劇、いよいよ止む時なく、唯、漢の代傾いて後、呉魏蜀の三国、鼎の如くにそばだちて、互に二つを亡ぼさんとせし戦国の始めに相似たり。
三角入道謀叛の事
ここに、「石見国の住人三角入道、兵衛佐直冬の下知に随ひ、国中をうち従へ、荘園を掠め領し、逆威を恣にす。」と聞こえければ、「事の大きになりぬ前に退治すべし。」とて、越後守師泰、六月二十日、都を立つて、路次の軍勢を率し、石見国へ発向す。七月二十七日の暮ほどに、江河へ打ち臨み、遥かに敵陣を見渡せば、これぞ聞こゆる佐和善四郎が楯篭りたる城よとおぼえて、青杉、丸屋、鼓崎とて、間四、五町を隔てたる城三つ、三壺の如くそばだつて、麓に大河流れたり。城より下り向ひたる敵三百余騎、河より向うに控へて、ここを渡せやとぞ招きたる。寄せ手二万余騎、皆河端に打ち臨んで、いづくか渡さましと見るに、深山の雲を分けて流で出でたる河なれば、松柏影を浸して、青山も動くが如く、石岩流れを徹して、白雪の翻るに相似たり。
「案内も知らぬ立河を、はやりのままに渡し懸けて、水に溺れて亡びなば、猛くとも何の益かあらん。日、已に暮に及びぬ。夜にいらば、水練の者どもをあまた入れて、瀬踏をよくよくせさせて後、明日渡すべし。」と評定あつて、馬を控へたる処に、森小太郎、高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進みたりけるが申しけるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、いづれか瀬踏をせさせて候ひし。思ふに、これが渡りにてあればこそ、渡さん所を防がんとて、敵は向うに控へたるらめ。この河の案内者、我にましたる人あるべからず。つづけや、殿原。」とて、唯二騎真先に進んで渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打ち入れて、弓の本弭末弭取り違へ、疋馬に流れをせき上げて、向うの岸へぞ駆け上がつたる。
善四郎が兵、暫く支へて戦ひけるが、散々に駆け立てられて、後ろなる城へ引き退く。寄せ手、いよいよ勝つに乗つて、続いて城へ懸け入らんとす。三つの城より城戸を開いて、同時に打ち出でて、前後左右より取り篭めて散々に射る。森、高橋、三吉が兵百余人、痛手を負ひ、石弓に打たれ、進みかねたるを見て、越後守、「三吉討たすな。あれ、つづけ。」と下知せられければ、山口七郎左衛門、赤旗小旗大旗の一揆、千余騎抜き連れてかかる。新手{*1}の大勢に攻め立てられて、敵皆、城中へ引き入れば、寄せ手皆、逆茂木の際まで攻め寄せて、垣楯かいてぞ居たりける。手合はせの合戦に打ち勝つて、敵を城へは追ひ篭めたれども、城の構へきびしく、岸高く切り立てたれば、討ち入るべき便りもなく、攻め落とすべき様もなし。唯、いたづらに塀を隔て、掻楯をさかうて{*2}、矢軍に日をぞ送りける。
ある時、寄せ手の三吉一揆の中に、日頃より手柄を顕はしたる兵ども三、四人寄り合ひて評定しけるは、「城の体を見るに、今の如く攻めば、御方は兵粮につまりてこらへずとも、敵の、軍に負けて落つる事はあるべからず。その上、備中備後、安芸周防の間に、兵衛佐殿に心を通ずる者多しと聞こゆれば、後ろに敵の出で来らんずる事、疑ひなし。前には数十箇所の城一つも落とさで、後ろには又、敵、道を塞ぎぬと聞きなば、如何なる樊噲、張良ともいへ、片時もこらふべからず。いざや、事の難儀にならぬ前に、この城を夜討に落として敵に気を失はせ、宰相殿に力をつけ参らせん。」と申しければ、「この議、尤も然るべし。さらば、手柄の者{*3}どもを集めよ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝れたる剛の者をえり出だすに、足立五郎左衛門、子息又五郎、杉田弾正左衛門尉、後藤左衛門蔵人種則、同兵庫允泰則、熊井五郎左衛門尉政成、山口新左衛門尉、城所藤五、村上新三郎、同弥二郎、神田八郎、奴可源五、小原平四郎、織田小次郎、井上源四郎、瓜生源左衛門、富田孫四郎、大庭孫三郎、山田又次郎、甕次郎左衛門、那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。これ等はみな、一騎当千の兵にて、心きき、夜討に馴れたる者どもなりとはいひながら、敵千余人篭つて用心厳しき城どもを、落とすべしとは見えざりけり。
八月二十五日の宵の間に、えいや声を出だして、先立つ人を待ちそろへさせ、筒の火を見せて、下がる勢を進ませて、城の後ろなる深山より、這う這う忍び寄つて、薄、苅萱、篠竹なんどを切つて、鎧のさね頭、兜の鉢附の板にひしと挿して、探竿影草に身を隠し、鼓崎の切り岸の下、巌の蔭にぞ伏したりける。かるも掻きたる臥猪{*4}、朽木のうつぼなる荒熊ども、人影に驚いて、城の前なる篠原を、二、三十つれてぞ落ちたりける。城中の兵ども、始めは、「夜討の入るよ。」と心得て、櫓々に兵ども、弦音して、投げ松明塀より外へ投げ出だし投げ出だし、静まり返つて見えけるが、「夜討にてはなくて、後ろの山より熊の落ちて通りけるぞ。止めよ、殿原。」と呼ばはりければ、我先に射て取らんと、弓押し張り靭掻き著け掻き著け、三百余騎の兵ども、おち行く熊の後を追ひて、遥かなる麓へ下りければ、城に残る兵、僅かに五十余人になりにけり。
夜は既に明けぬ、木戸は皆開きたり。なじかは少しも擬議すべき。二十七人の者ども、打物の鞘を外して討つて入る。城の本人佐和善四郎、並びに郎等三人、腹巻取つて肩に投げ懸け、城戸口に下り合ひて、一足も引かず戦ひけるが、善四郎、膝口切られて犬居に伏せば、郎等三人、前に立ち塞ぎ、暫し支へて討死す。その間に佐和善四郎は、己が役所に走り入り、火を懸けて腹掻き切つて死ににけり。その外、四十余人ありける者どもは、一防ぎも防がず、青杉城へ落ちて行く。熊狩しつる兵どもは、熊をも追はず、後へも帰らず、散り散りになつてぞ落ち行きける。憑み切つたる鼓崎城を落とさるるのみならず、佐和善四郎、忽ちに討たれにければ、外二つの城も、皆一日あつて落ちにけり。「兵、野に伏す時は、飛雁、行を乱るといふ兵書の詞を知らましかば、熊故に城をば落とされじ。」と、世の嘲りになりにけり。
その後、越後守、石見勢を相従へて国中へ打ち出でたるに、攻められては落ち得じとやおもひけん、石見国中に三十二箇所ありける城ども、皆聞き落ちして、今は唯、三角入道が篭つたる三隅一つぞ残りける。「この城、山嶮しく用心深ければ、たとひ力攻めに攻むる事こそ叶はずとも、助けの兵も近国になし、知行の所領もなければ、いつまでかこらへて城にもたまるべき。唯、四方の峯々に向ひ城を取つて、二年三年にも攻め落とせ。」とて、寄せ手の構へ厳しければ、城内の兵、気たゆみて、憑む方なくぞおぼえける。
校訂者注
1:底本は、「荒手(あらて)」。底本頭注に従い改めた。
2:底本は、「垣を隔て掻楯(かいだて)をさかうて、」底本頭注に、「〇さかうて 境ひにして。」とある。
3:底本頭注に、「剛の者。」とある。
4:底本は、「かるも掻きたる臥猪(ふすゐ)」。底本頭注に、「枯草を掻き集めて臥した猪。」とある。
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