恵源禅閤{*1}南方合体の事 附 漢楚合戦の事
左兵衛督入道、都をば、仁木、細川、高家の一族どもに背かれて浮かれ出でぬ。大和、河内、和泉、紀伊国は皆、吉野の王命に従つて、今更、武家に附き従ふべしとも見えざりければ、沖にもつかず、磯にも離れたる心地して、進退、歩みを失へり。越智伊賀守、「かくては、いかさま、難儀なるべしとおぼえ候。唯、吉野殿の御方へ御まゐり候て、先非を改め、後栄を期する御謀りごとを廻らさるべしとこそ存じ候へ。」と申しければ、「尤もこの議、然るべし。」とて、やがて専使を以て吉野殿へ奏達せられけるは、
{*k}元弘の始め、先朝{*2}、逆臣のために皇居を西海に遷され、宸襟を悩まされ候時、勅命に応じて義兵を起こす輩有りと雖も、或いは敵の為に囲まれ、或いは戦ひ負けて機を屈し、志を空しうする処に、恵源、苟くも尊氏卿を勧めて上洛を企て、勅に応じて戦ひを決し、天下を一統の皇化に帰し候事、乾臨{*3}、定めて叡感を残され候はんか。その後、義貞等が讒に依りて、罪無くして勅勘の身と罷り成る。君臣、空しく胡越の地を隔て、一類悉く朝敵の名を残すの條、歎いて余り有る処なり。臣が罪、誠に重しと雖も、天恩、往を咎めず、負荊{*4}の下にその咎を免されば、則ち勅免の綸言を蒙り、四海の逆乱を静め、聖朝の安泰を戴くべく候。この旨、内々御意を得、奏聞せしめ給ふべく候。恐惶謹言。
十二月九日 沙弥恵源
進上 四條大納言殿{*k}
と委細の書状を捧げて、降参のよしをぞ{*5}申されける。
則ち、諸卿参内して、「この事、如何あるべき。」と僉議ありけるに、先づ洞院左大将実世公、申されけるは、「直義入道が申す処、甚だ以て偽れり。相伝譜代の家人、師直師泰がために都を追ひ出だされ、身の置き処なき間、いささか天威を借りて、己が宿意を達せんために、天聴を掠め奉る{*6}ものなり。二十余年の間、一人を始め参らせて、百司千官悉く鳳闕の雲を望み、空しく飛鳥の翅をそがるる事、しかしながら直義入道が悪逆に依らずや。然るに今、幸ひに軍門に降らん事を請ふ。これ、天の与ふる{*7}処なり。時に乗じてこれを誅せずんば、後の禍ひ、臍を噛むとも益なからん。唯、速やかに討手を差し遣はして、首を禁門の前に曝さるべしとこそ存じ候へ。」と申されける。
次に、二條関白左大臣殿、暫く思案して仰せられけるは、「張良が三略の詞に、『恵みを推し恩を施せば、士力日々に新たにして、戦ふことは{*8}風の発するが如し。』といへり。これ、己が罪を謝する者は、忠貞怠らず、誠を以て事を尽くす。かへつて弐心なき故なり。されば章邯、楚に降つて秦忽ちに破れ、管仲、罪を許して斉治まる事、尤も今の世に指南たるべし。直義入道、御方に参る程ならば、君、天下を保たせ給はん事、万歳これより始まるべし。唯、元弘の旧功を捨てられず、官職に復して召し仕はるるより外の議はあらじとこそおぼえ候へ。」と、異議まちまちにこそ申されけれ。諌臣両人の異議、得失互に備ふ。是非分かち難し。
君も叡慮を傾けられ、末座の諸卿も詞を出ださで、やや久しくある処に、北畠准后禅閤{*9}、喩へを引いて申されけるは、「昔、秦の代、已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起こり、項羽は楚より起こる。六国の諸候の秦を背く者、かの両将に附き従ひしかば、共にその威、漸く振つて、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻めて雍丘の西に至る。沛公、項羽、相共に古の楚王の末孫心{*10}といひし人、民間に下つて羊を飼ひしを取り立てて、義帝と号し、その御前にて、『先づ咸陽に入つて秦を亡ぼしたらん者、必ず天下に王たるべし。』と約諾して、東西にわかれて攻め上る。
「かくて項羽、已に鉅鹿に至る時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ちける間、項羽自ら二十万騎にて河を渡つて後、船を沈め釜甑を破つて盧舎を焼く。これは、敵大勢にて御方小勢なり。一人も生きては返らじと、心を一つにして戦はずば、千に一つも勝つ事あらじと思ふ故に、思ひ切つたる心中を士卒に知らしめんためなり。ここに於いて、秦の将軍と九たび遇ひて百たび戦ひ、忽ちに秦の副将軍蘇角を討つて、王離を生け捕りしかば、討たるる秦の兵四十余万人。章邯、重ねて戦ふ事を得ず、終に項羽に降つて、かへつて秦をぞ攻めたりける。項羽又、新安城の戦ひに打ち勝つて、首を切る事二十万。すべて項羽が向ふ処、破れずといふ事なく、攻むる城は落ちずといふ事なかりしかども、至る所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠りしかば、路次に数月の滞りありて、末だ都へは攻め入らず。
「漢の元年十一月に、函谷関にぞ著きにける。沛公は無勢にして、しかも道難処を経しかども、民を憐れみ人を撫する心深うして、財をも貪らず人をも殺さざりしかば、支へて防ぐ城もなく、降らずといふ敵もなく、道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立つて咸陽宮へ入りにけり。然れども沛公、志、天下にありしかば、秦の宮室をも焼かず、驪山の宝玉をも散らさず、あまつさへ降れる秦の子嬰を守護し奉りて、天下の約を定めんために、かへつて函谷へ兵を差し遣はし、項羽を咸陽へ入れ立てじと、関の戸を堅く閉ぢたりける。
「数月あつて、項羽、咸陽へ入らんとするに、沛公の兵、函谷の関を閉ぢて項羽を入れず。項羽大きに怒つて、当陽君に二十万騎の兵を差し副へ、函谷関を打ち破つて咸陽宮に入りにけり。則ち、降れる子嬰皇帝を殺し奉りて、咸陽宮に火をかけたれば、方三百七十里に作り並べたる宮殿楼閣、一宇も残らず、三月まで火消えず、驪山の神陵忽ちに灰塵となるこそ悲しけれ。
「この神陵と申すは、秦の始皇帝崩御なりし時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に従へんと思して、楼殿を作り磨き、山川を飾りなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取りて銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御油注ぎに入れて、長時に灯を挑げたれば、石壁暗しといへども、青天白日の如くなり。この中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生きながら神陵の土に埋づもれて、苔の下にぞ朽ちにける。『始めて俑を作る人は、後無からんか。』と文宣王の誡めしも{*11}、今こそ思ひ知られたれ。始皇帝、かくの如く執しおぼして、様々の詔を残さるる神陵なれば、さこそはその妄執も留まり給ふらんに、項羽、情なくこれを掘り崩して、殿閣悉く焼き払ひしかば、九泉の宝玉、二度人間に返るこそ哀れなれ。
「この時、項羽が兵は四十万騎、新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎、咸陽の覇上にあり。その間、相去る事三十里。沛公、項羽に未だ相まみえず。ここに於いて、范増といへる項羽が老臣{*12}、項羽に口説いていひけるは、『沛公、沛郡にありし時、その振舞を見しかば、財を貪り美女を愛する心、尋常に越えたりき。今、咸陽に入りて後、財をも貪らず、美女をも愛せず。これ、その志天下にある者なり。我、人を遣はして、ひそかに彼の陣中の体を見するに、旗の文に竜虎を書けり。これ、天子の気に非ずや。速やかに沛公を討たずんば、必ず天下、沛公のために傾けらるべし。』と申しければ、項羽、実にもと聞きながら、我が勢の強大なるを憑みて、何程の事かあるべきと思ひ、侮つてぞ居たりける。
「かかる処に、沛公が臣下に曹無傷といひける者、ひそかに項羽の方へ人を遣はして、沛公、天下に王たらんとする由をぞ告げたりける。項羽、これを聞きて、この上は疑ひなしとて、四十万騎の兵どもに命じて、夜明けば、則ち沛公の陣へ寄せ、一人も余さず討つべしとぞ下知しける。
「ここに、項羽が叔父に項伯といひける人、昔より張良と知音なりければ、この事を告げ知らせて落とさばやと思ひける間、急ぎ沛公の陣へ行き向かひ、張良を呼び出だして、『事の体、已に急なり。今夜、急ぎ逃げ去つて、命ばかりを助かれ。』とぞ教訓したりける。張良、元来、義を重んじて、節に臨む時命を思ふ事、塵芥よりも軽んぜし者なりければ、何故か事の急なるに当たつて、高祖を捨てて逃げ去るべきとて、項伯がいふ処を沛公に告ぐ。沛公、大きに驚きて、『そもそも我が兵を以て項羽と戦はん事、勝負は運に依るべきや。』と問ひ給へば、張良、暫く案じて、『漢の兵は十万騎、楚は、これ{*13}四十万騎なり。平野にて戦はんに、漢、勝つ事を得難し。』とぞ答へける。
「沛公、『さらば我、項伯を呼びて、兄弟の交じはりをなし、婚姻の義を約して、先づ事の無為ならんずるやうを謀らん。』とて、項伯を帷幕の内へ呼び給ひて、先づ旨酒を奉じ、自ら寿をなして宣ひけるは、『初め、我と項王と約をなして、先づ咸陽に入らん者を王とせんといひき。我、項王に先立つて咸陽に入る事、七十余日。然れども、約を以て、我、天下に王たらん事を思はず。関に入りて秋毫も敢へて近づくる処あらず。吏民を籍し府庫を封じて、項王の来り給はん日を待つ。これ、世の知る処なり。兵を遣はして函谷関を守らせし事は、全く項王を防ぐに非ず。他の盜人の出入と非常に備へんためなりき。願はくは公、速やかに帰つて、我が徳に背かざる処を項王に語つて、明日の戦ひを止め給へ。我、則ち旦日、項王の陣に行いて、自ら罪なき故を謝すべし。』と宣へば、項伯、則ち許諾して、馬に鞭打つてぞ帰りにける。
「項伯、則ち項王の陣に行いて、つぶさに沛公の謝する処を申しけるは、『そもそも沛公、先づ関中を破らざらましかば、項王今、咸陽に入りて枕を高うし食を安んずる事を得ましや。今、天下の大功は、しかしながら沛公にあり。然るに、小人の讒を信じて、功ある人を討たん事、大きなる不義なり。如かじ、沛公と交じはりを深うし、功を重んじて天下を鎮めんには。』と、理を尽くして申しければ、項羽、実にもと心服して、顔色、快くなりにけり。
「暫しあれば、沛公、百余騎を随へて来て、項王にまみゆ。乃ち礼謝して曰く、『臣、項王と力を合はせて秦を攻めし時、項王は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。思はざりき、万死を秦の虎口に遁れて、再会を楚の鴻門に遂げんとは。然るに今、佞人の讒に依つて、臣、項王と胡越の隔てあらん事、豈悲しまざるべけんや。』と、首を地に著け{*14}宣へば、項羽、誠に心解けたる気色にて、『これ、沛公の左司馬曹無傷が告げ知らせしに依つて、頻りに沛公を疑ひき。然らずんば、何を以てか知る事あらん。』と、忽ちに証人を顕はして、誠に所存なげなる体、心浅くぞ見えたりける。
「項羽、頻りに沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王と項伯とは東に向うて坐し、范増は南に向ひたり。沛公は北に向うて坐し、張良は西に向ひて侍り。范増はかねてより、沛公を討たん事、今日にあらずんばいつをか期すべきと思ひければ、項羽を内へ入れて、沛公と刺し違へんために、佩いたる所の太刀を握つて、三度まで目くばせしけれども、項羽、その心を悟らず、唯黙然としてぞ居たりける。范増、則ち座を立つて、項荘を呼びて申しけるは、『我、項王のために沛公を討たんとすれども、項王、愚かにしてこれを悟らず。汝、早く席に帰つて沛公を寿せよ{*15}。沛公、杯を傾けん時、我と汝と剣を抜いて舞ふ真似をして、沛公を座中にして殺さん。然らずば、汝が輩、遂に沛公がために亡ぼされて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を出づべからず。』と、涙を流して申しければ、項荘、一議に及ばず。則ち、席に帰つて、自ら酌を取つて沛公を寿す。
「沛公、杯を傾くる時、項荘、『君王、今沛公と飲酒す。軍中、楽をせざる事久し。請ふ、臣等、剣を抜いて太平の曲を舞はん。』とて、項荘、剣を抜いて立つ。范増も、もろともに剣を指しかざして、沛公の前に立ち合ひたり。項伯、彼等が気色を見て、沛公を討たせじと思ひければ、『我も共に舞ふべし。』とて、同じく又、剣を抜いて立つ。項荘、南に向へば、項伯、北に向かうて{*16}立つ。范増、沛公に近づけば、項伯、身を以て立ち隠す。これに依つて、楽、已に終はらんとするまで、沛公を討つ事能はず。
「少し隙ある時に、張良、門前に走り出でて、誰かあると見るに、樊噲、つと走り寄つて、『座中の体、如何。』と問ひければ、張良、『事、甚だ急なり。今項荘、剣を抜いて舞ふ。その意、常に沛公に在り。』と答へければ、樊噲、『これ、已に喉に迫るなり。速やかに入りて、沛公と同じく命を失はんにはしかじ。』とて、兜の緒を締め、鉄の楯を挟みて、軍門の内へ入らんとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜いて、これを入れじとす。樊噲、大きに怒つて、その楯を身に横たへ、門の閂七、八本押し折つて、内へつと走り入れば、倒るる扉に打ち倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人、地に伏して皆起き上がらず。
「樊噲、遂に軍門に入りて、その帷幕を掲げて目を怒らかし、項王をはたと睨んで立ちけるに、頭の髪、上に上がりて兜の鉢をおひ貫き、獅子の怒り毛の如く巻いて、百千万の星となる。まなじりさかさまに裂けて、光、百錬の鏡に血をそそぎたるが如く、そのたけ九尺七寸ありて怒れる鬼鬚、左右に分かれたるが、鎧突きして立つたる体、如何なる悪鬼羅刹もこれには過ぎじとぞ見えたりける。項王、これを見給ひて、自ら剣を抜き懸けて跪いて、『汝、何者ぞ。』と問ひ給へば、張良、『沛公の兵に樊噲と申す者にて候なり。』とぞ答へける。
「項羽、その時に居直つて、『これ、天下の勇士なり。彼に酒を賜はん。』とて、一斗を盛る杯を召し出だして樊噲が前におき、七つ尾ばかりなる彘{*17}の肩を肴にとつて出だされたり。樊噲、楯を地に伏せ、剣を抜いて彘の肩を切つて、少しも残さず噛み食ひて、杯に酒をたぶたぶと受けて三度傾け、杯を差し置いて申しけるは、『それ秦王、虎狼の心ありて、人を殺し民を害する事、止む時なし。天下これに依つて、秦を背かずといふ者なし。ここに沛公と項王と、同じく義兵を挙げ、無道の秦を亡ぼして天下を救はんために、義帝の御前にして血をすすりて約せし時、先づ秦を破つて咸陽に入らん者を王とせんといひき。然るに今沛公、項王に先立つて咸陽に入る事数月、然れども秋毫も敢へて近づくる所あらず。宮室を封閉して以て項王の来り給はん事を待つ。これ、豈沛公の仁義にあらずや。兵を遣はして函谷関を守らしめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へんためなりき。その功の高き事、かくの如し。未だ封侯の賞あらずして、あまつさへ有功の人を誅せんとす。これ、亡秦の悪を継いで、自ら天の罰を招くものなり。』と、少しも憚らず項王を睨んで申せば、項王、答ふるに詞なくして、唯、頭を垂れて赤面す。
「樊噲は、かやうに思ふ程云ひ散らして、張良が末座に著く。暫くありて、沛公、厠に行く真似して、樊噲を招いて出で給ふ。ひそかに樊噲に向つて、『先に項荘が剣を抜いて舞ひつる志、ひとへに吾を討たんと計るものなり。座久しうして帰らずば、事危ふきに近し。これより急ぎ我が陣へ帰らんと思ふが、辞せずして出でん事、礼にあらず。如何すべき。』と宣へば、樊噲、『大行は細謹を顧みず、大礼は辞譲を必せず。今の如き、人は将に刀俎なり、我は魚肉なり。何ぞ辞する事をせんや。』とて、白璧一双と玉の杯一双とを張良に与へて留め置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄{*18}に鞭を進め給へば、靳強、紀信、樊噲、夏侯嬰四人、自ら楯を挟み戈を取つて、馬の前後に相随ふ。その道二十余里、嶮しきを凌ぎ、絶えたるを渡つて、半時を過ぎず覇上の陣に行き到りぬ。
「初め沛公に随ひし百余騎の兵どもは、猶項王の陣の前に並み居て、張良、未だ鴻門にあれば、人みな沛公の帰り給へるを知らず。暫くありて張良、座に返つて謝して曰く、『沛公、酔ひて杯を酌むに堪へず。退出し給ひ候ひつるが、臣良をして、謹しんで足下にこれを献ぜよと申し置かる。』とて、先づ白璧一双を奉りて、再拝して王の前にぞ置きたりける。項王、白璧を受けて、『誠に天下の重宝なり。』と感悦して、座上に置きて自愛し給ふ事、類なし。その後、張良又、玉斗一双を捧げて范増が前にぞ置きたりける。范増、大きに怒つて、玉斗を地に投げ、剣を抜いて突き砕き、項王をはたと睨みて、『ああ、豎子{*19}、共に謀るに足らず。項王の天下を奪はん者は、必ず沛公なるべし。奈何せん、吾が輩、今これがために虜とならん事。白璧は重宝なりといへども、豈天下に替へんや。』とて、怒る眼に涙を流し、半時ばかりぞ立ちたりける。項王、猶も范増が心を悟らず、いたく酔ひて帳中に入り給へば、張良、百余騎を随へて覇上に帰りぬ。
「沛公の軍門に到つて、項王の方へ返り忠しつる曹無傷を斬つて、首を軍門に懸けらる。かかりし後は、沛公項王、互に相まみゆる事なし。天下は唯、項羽が成敗に随つて、賞罰共に明らかならざりしかば、諸侯万民もろともに、沛公が功の隠れて天下の主たらざることをぞ悲しみける。その後、項羽と沛公と天下を争ふ気、已に顕はれて、国々の兵、両方に属せしかば、漢楚二つに分かれて、四海の乱、止む時なし。
「沛公をば漢の高祖と称す。その手に属する兵には、韓信、彭越、蕭何、曹参、陳平、張良、樊噲、周勃、黥布、盧綰、張耳、王陵、劉賈、酈商、灌嬰、夏侯嬰、傅寛、劉敬、靳強、呉芮、酈食其、董公、紀信、轅生、周苛、侯公、随何、陸賈、魏無知、叔孫通、呂項、呂巨、呂青、呂安、呂禄以下の呂氏三百余人、都合その勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。楚の項羽は元来、代々将軍の家なりければ、相随ふ兵八千人あり。その外、いま馳せ著きける{*20}兵には、櫟陽長史欣、都尉董翳、塞王司馬欣、魏王豹、瑕丘申陽、韓王成、殷王司馬卭、趙王歇、常山王張耳、義帝柱国共敖、遼東韓広、燕将臧荼、田市、田都、田安、田栄、成安君陳余、番君将梅鋗{*21}、雍王章邯、これは、河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降つて属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合その勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加はりける。
「漢の二年に、項王、城陽に至つて、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出でければ、その老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入れて、埋づめてこれを殺す。漢王又、五十六万人を率して彭城に入る。項羽自ら精兵三万人を率ゐて、胡陵にして戦ふ。高祖又打ち負けければ、楚則ち漢の兵十余万人を生け捕つて、彭水の淵にぞ沈めける。彭水、これがために流れず。高祖、二度戦ひ負けて霊壁の東に至る時、その勢僅かに三百余騎なり。項王の兵三百万騎、漢王を囲みぬる事、三匝{*22}。漢、遁るべき方もなかりける処に、俄に風吹き雨荒くして、白日、忽ちに夜よりも尚暗かりければ、高祖、数十騎と共に敵の囲みを出でて、豊沛へ落ち給ふ。
「項王、これを追うて沛郡へ押し寄せければ、高祖の兵ども、ここに支へ、かしこに防いで、討死する者二十余人。沛郡の戦ひにも又、漢王打ち負け給ひければ、高祖の父太公、楚の兵に捕らはれて、項王の前に引き出ださる。漢王又、周呂侯と蕭何が兵を合はせて二十万余騎、滎陽に到る。項王、勝つに乗つて八十万騎、彭城より押し寄せて相戦ふ。この時、漢の戦ひ、僅かに利ありといへども、項王、更に物ともせず。漢楚、互に勢ひを振つて、未だ重ねて戦はず。共に広武に陣を張り、河を隔ててぞ居たりける。
「或る時、項王の陣に高き俎を作つて、その上に漢王の父太公を置きて、高祖に告げて曰くく、『これ、沛公が父に非ずや。沛公今、首を延べて楚に降らば、太公と汝が命を助けん。沛公、もし楚に降らずば、急に太公を煮殺すべし。』とぞ申しける。漢王、これを聞きて、大きにあざわらうて曰く、『吾、項羽と北面にして{*23}命を懐王に受けし時、兄弟たらん事を誓ひき。然れば、吾が父は即ち汝が父なり。今汝、父を煮殺さば、幸ひに我に一杯の羹をわかて。』と欺かれければ{*24}、項王、大きに怒つて、即ち太公を殺さんとしけるを、項伯、堅く諌めければ、『よし、さらば、暫し。』とて、太公を殺す事をば止めてけり。
「漢楚久しく相支へて、未だ勝負を決せず。丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕{*25}に疲る。或る時、項羽自ら甲冑を著し戈を取り、一日に千里を走る騅といふ馬に打ち乗つて、ただ一騎、川の向うの岸に控へて宣ひけるは、『天下の士卒、戦ひに苦しむ事、已に八箇年。これ、我と沛公と、唯両人を以ての故なり。そぞろに四海の人民を悩まさんよりは、我と沛公とひとり身にして雌雄を決すべし。』と招いて、敵陣を睨んでぞ立つたりける。ここに漢皇、帷幕の中より出でて、項王をせめて宣ひけるは、『それ項王、自ら義なくして天罰を招く事、その罪一つにあらず。始め項羽と共に命を懐王に受けし時、先づ入りて関中{*26}を鎮めたらん者を王とせんといひき。然るを項羽、忽ちに約を背いて、我を蜀漢に主たらしむ。その罪一つ。
「『宋義、懐王の命を受けて卿子冠軍となる処に、項羽、みだりにその帷幕に入りて、自ら卿子冠軍の首を斬つて、懐王、我をしてこれを誅せしめたりと偽つて、令を軍中に出だす。その罪二つ。項羽、趙を救ひて戦ひ利ありし時、かへつて懐王に報ぜず、境内の兵を払ひて自ら関に入る。その罪三つ。懐王、堅く令すらく、秦に入らば、民を害し財を貪る事なかれと。項羽、数月後れて秦に入りし後、秦の宮室を焼き驪山の塚を掘りて、その宝玉を私にせり。その罪四つ。又、降れる秦王子嬰を殺して天下にはびこる。その罪五つ。偽りて秦の子弟を新安城の坑に埋づみて殺せる事、二十万。その罪六つ。項羽、諸将を善き地に王として、故主を追ひ討ちたり。叛逆これより起こる。その罪七つ。懐王を彭城に移して韓王の地を奪ひ、合はせて梁楚に王として自ら天下を預かり聞く。その罪八つ。項羽、人をしてひそかに{*27}懐王を江南に殺せり。その罪九つ。この九つの罪は、天下の指さす所、道路目を以て憎むものなり。大逆無道の甚だしき事、天、豈公を誡め刑せざらんや。何ぞいたづがはしく{*28}、項羽とひとり身にして戦ふ事を致さん。公が力、山を抜くといへども、我が義の天にかなへるには如かじ。然らば、刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚{*29}を製して項羽を撃ち殺すべし。』と欺いて、百万の士卒、同音に箙を敲いてどつと笑ふ。
「項羽大きに怒つて、自ら強弩を引いて漢王を射る。その矢、河の面四町余を射越して、漢王の前に控へたる兵の、鎧の草摺より引敷の板の裏表、四重をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまきせめてぞ立つたりける。漢の兵に楼煩といひけるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中のものをば下げ針をも射る程のものなりけるが、漢王の当の矢を射んとて、矢頃過ぎてかけ出でたりけるを、項羽自ら戟を持つて立ち向かひ、目を怒らかし大音声を揚げて、『汝、何者なれば我に向つて弓を引かんとはするぞ。』と、怒つてちやうとにらむ。その勢ひに辟易して、さしもの楼煩、目敢へて物を見ず、弓をも引き得ず、人馬共に震ひわななきて、漢王の陣へぞ逃げ入りける。漢王、創を蒙つて癒ゆるを待つ程に、その兵皆、気を失ひしかば、戦ふごとに、楚勝つに乗らずと云ふ事なし。
「これ唯、范増が謀りごとより出でて、漢王、常に囲まれしかば、陳平、張良等、如何にもしてこの范増を討たんとぞ謀りける。或る時項王の使者、漢王の方に来れり。陳平、これに対面して、先づ酒を勧めんとしけるに、大牢の供へ{*30}をなして山海の珍を尽くし、旨酒、泉の如く湛へて、沙金四万斤、珠玉綾羅錦繍以下の重宝を山の如く積み上げて、引出物にぞ置きたりける。陳平が語る詞ごとに、使者、敢へて心得ず、黙然として答ふる事なかりける時に、陳平、偽り驚いて、『吾、公を以て范増が使なり{*31}と思ひて、密事を語りつ。今、項王の使なることを知つて、悔ゆるに益なし。これ、命を伝ふる者の誤りなり。』といひて、様々に積み置きける引出物を皆取り返し、大牢の供へを取り入れて、かへつて飢口にだにもあきぬべき{*32}悪食をぞ供へける。使者、帰つてこの由を項王に語る。項王これより、范増が漢王と密議を謀つて返り忠をしけるよと疑ひて、これが権を奪ひて誅せん事を謀る。
「范増、これを聞き、一言も遂に陳謝せず。『天下の事、大きに定まりぬ。君王、自らこれを治め給へ。我、已に年八十余、命の中に君が亡びんを見ん事も悲しかるべし。唯願はくは、我が首を刎ねて市朝に曝さるるか、然らずんば鴆毒を賜うて死を早くせん。』と請ひければ、項王、いよいよ怒つて鴆毒を呑ませらる。范増、鴆を呑みて後、未だ三日を過ぎざるに、血を吐いてこそ死ににけれ。
「楚漢、相戦つて已に{*33}八箇年、自ら相当たる事七十余度に及ぶまで、天下、楚を背くといへども、項羽、度毎に勝つに乗りし事は、唯、楚の兵の猛く勇めるのみにあらず。范増、謀りごとを出だして民をはぐくみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け、化をあまねく施して、人の心を{*34}和せし故なり。されば、范増死を賜ひし後、諸侯悉く楚を背きて、漢に属する者甚だ多し。漢楚共に滎陽の東に至つて、久しく相支へたる時に、漢は兵盛んに食多くして、楚は兵疲れ食絶えぬ。この時、漢の陸賈を楚に遣はして曰く、『今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし、東をば楚とせん。』と和を請ひ給ふに、項王、悦びてその約を堅くし給ふ。依つて、前に生け捕つて、戦ひの弱き時にはこれを煮殺さんとせし漢王の父太公を許して、漢へぞ送られける。軍勢、皆万歳を呼ばふ。
「かくて、楚は東に帰り、漢は西に帰らんとしける時、陳平、張良、共に漢王に申しけるは、『漢、今天下の大半を保ち、諸侯皆附き随ふ。楚は、兵疲れて食尽きたり。これ、天の楚を亡ぼす時なり。この時討たずんば、唯、虎を養つて自らうれへを遺し侯ものなるべし。』漢王、この諌めにつきて、即ち諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追ひ懸け給ふ。項羽、僅か十万騎の勢を以て、固陵に返し合はせて漢と相戦ふ。漢の兵、四十余万人討たれて引き退く。これを聞きて、韓信、齊国の兵三十万騎を率して、寿春より廻つて楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を率して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行く先を遮りて陣を張る。大司馬周殷、九江の兵十万騎を率して楚の陣へ押し寄せ、水を隔つて取り篭むる。東南西北悉く、百重千重に取り巻きたれば、項羽、落つべき方なくて、垓下の城にぞ篭られける。
「漢の兵、これを囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞きて、項羽、今宵を限りと思はれければ、美人虞氏に向つて、涙を流し詩を作つて悲歌慷慨し給ふ。虞氏、悲しみに堪へず、剣を賜ひて自らその刃に貫かれて伏しければ、項羽、今は浮世に思ふ事なしと悦びて、夜明けければ、討ち残されたる兵二十八騎を伴ひて、先づ四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を駆け破り、烏江といふ川の辺に打ち出で給ひ、自ら涙を抑へてその兵に語つて曰く、『吾、兵を起こしてより以来、八箇年の戦ひに、自ら逢ふ事七十余戦、当たる所は必ず破る。撃つ所は皆服す。未だはじめより一度も敗北せず、遂に覇として天下を保てり。然れども今、勢ひ尽き力衰へて、漢のために亡ぼされぬる事、全く戦ひの罪にあらず。唯、天、我を亡ぼすものなり。故に、今日の戦ひに、我必ず快く三度打ち勝つて、しかも漢の大将の首を取り、その旗を靡かして、誠に我が言ふ処誤らざる事を汝等にしらすべし。』とて、二十八騎を四手に分け、漢の兵百万騎を四方に受けてひかへたる処に、先づ一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押し寄せたり。
「項羽、二十八騎を後に立てて、真先に駆け入つて、自ら敵三百余騎切つて落とし、漢の大将の首を取つて鋒に貫いて、元の陣へ馳せ返り、山東にして見たまへば、二十八騎の兵、八騎討たれて二十騎になりにけり。その勢を又三所に控へさせて、近づく敵を待ち懸けたるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押し寄せたり。項王、又大きに喚いて山東より馳せ下り、両陣の敵を四角八方へ駆け散らし、逃ぐる敵五百余人を斬つて落とし、又、大将都尉が頭を取り、左の手にひつ提げて、元の陣へ馳せ返り、その兵を見給ふに、僅か七騎になりにけり。項羽自ら漢の大将軍三人の首を鋒に貫きて差しあげ、七騎の兵に向つて、『如何に、汝等、我が言ふ所に非ずや。』と問ひ給へば、兵皆、舌を翻して、『誠に大王の御詞の如し。』と感じける。項羽、已に五十余箇所創を被りてければ、『今は、これまでぞ。さらば自害をせん。』とて、烏江のほとりに打ち臨み給ふ。
「ここに烏江の亭の長といふ者、舟を一艘漕ぎ寄せて、『この川の向うは、項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵どもの故郷にて候。地狭しといへども、その人、数十万人あり。この舟より外は、渡すべき浅瀬もなく、又、橋もなし。漢の兵到るとも、何を以てか渡る事を得ん。願はくは大王、急ぎ渡りて命をつぎ、重ねて大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。』と申しければ、項王、大きにあざわらつて、『天、我を亡ぼせり。我、如何か渡る事をせん。我、昔、江東の子弟八千人とこの河を渡りて秦を傾け、遂に天下に覇として、賞未だ士卒に及ばざる処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今その子弟、一人も還る者なくして、我ひとり江東に帰らば、たとひ江東の父兄、憐れみて我を王とすとも、我、何の面目あつてかこれにまみゆることを得ん。彼、たとひもの言はずとも、我ひとり心に恥ぢざらんや。』とて、遂に河を渡し給はざれども、亭の長が志を感じて、騅といひける馬の一日に千里を翔るを、唯今まで乗り給ひたるを下して、亭の長にぞたびたりける。
「その後、かち立ちになつて、唯三人、猶怒つて立ち給へる所へ、赤泉侯、騎将として二万余騎が真先に進み、項王を生け捕らんと馳せ近づく。項王、目を怒らかし声を発して、『汝、何者なれば我を討たんとは近づくぞ。』と怒つて立ち向ひ給ふに、さしもの赤泉侯、その人こそあらめ、心なき馬さへ震ひわなないて、小膝を折つてぞ伏したりける。ここに、漢の司馬呂馬童が遥かに控へたりけるを、項王、手を挙げて招き、『汝は、吾が年頃の知音なり。我聞く、漢、我が首を以て千金の報、万戸の邑にあがなふ{*35}と。我今、汝がために首を与へて、朋友の恩を謝すべし。』といふ。呂馬童、涙を流して、敢へて項羽を討たんとせず。項王、『よしや、さらば、我と吾が頚を掻き切つて、汝に与へん。』とて、自ら剣を抜いて己が首を掻き落とし、左の手に差し挙げて、立ちすくみにこそ死に給ひけれ。
「項王、遂に亡びて、漢、七百の祚を保ちしことは、陣平、張良が謀りごとにて偽つて和睦せし故なり。その智謀、今又当たれり。然れば、唯、直義入道が申す旨に任せて、先づ御合体あらば、定めて君を御位に即け参らせて、万機の政を四海に施されんか。聖徳あまねくして、士卒悉く帰服し奉らば、その威、忽ちに振ひて逆臣等を亡ぼされんに、何の仔細か候べき。」と、ついでの才学とおぼえて、詞巧みに申されければ、諸卿、「実にも。」と同心して、即ち勅免の宣旨をぞ下されける。
{*k}綸言を被つて曰く、故きを温ねて新しきを知るは、明哲の好くする所なり。乱を治めて正に復するは、良将の先んずる所なり。而るに元弘の旧功を忘れず、皇天の景命{*36}に帰し奉る、叡感の至り、尤も褒賞するに足れり。早く義兵を揚げ、天下静謐の策を巡らすべし。てへれば綸旨かくの如し。依つて執達、件の如し。
正平五年十二月十三日 左京権大夫正雄奉ず
謹上 足利左兵衛督入道殿{*k}
とぞなされける。これぞ誠に、君臣永く不快の基、兄弟忽ち向背の初めとおぼえて、あさましかりし世間なり。
校訂者注
1:底本は、「禅巷(ぜんかう)」。巻27「直義朝臣隠遁の事」の『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
2:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
3:底本頭注に、「天子の臨鑑。」とある。
4:底本頭注に、「〇往 既往即ち過去。」「〇負荊 荊は笞。荊を負ひて罪を受けること。」とある。
5:底本は、「よしを申されける。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
6:底本頭注に、「天皇を欺き奉る。」とある。
7:底本は、「与(あた)ふ処」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
8:底本は、「戦ふ時は」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「親房。」とある。
10:底本頭注に、「史記本紀に『孫心民間為人牧羊、立以為楚懐王。』」とある。
11:底本頭注に、「〇始めて俑を云々 孟子に『仲尼曰、始作俑者其無後乎。』俑は殉葬に用ゐる木偶。後とは後胤。不仁なことをすれば後裔が絶えるであらうかの意。」「〇文宣王 孔子(仲尼)の諡号。」とある。
12:底本は、「いへるは、項羽が老臣、」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
13:底本は、「楚(そ)は四十万騎(ぎ)なり。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
14:底本は、「著(つ)けて宣へば、」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
15:底本は、「寿(ことぶき)せよ、」。底本頭注に、「祝杯をさせよ。」とある。
16:底本は、「北に立つ。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
17:底本は、「七尾(なゝつを)ばかりなる彘(ゐのこ)」。底本頭注に、「〇七尾 七頭。」「〇彘 豕。」とある。
18:底本は、「竜蹄(りようてい)」。底本頭注に、「駿馬。」とある。
19:底本は、「豎子(じゆし)」。底本頭注に、「小僧。罵つて云ふ語。」とある。
20:底本は、「馳せ著きたる」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
21:底本は、「万君将梅鋗(ばんくん)しやうばいけん」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
22:底本は、「三匝(さふ)」。底本頭注に、「三重。」とある。
23:底本頭注に、「臣として北に面して。」とある。
24:底本頭注に、「あざけつたので。」とある。
25:底本頭注に、「水陸の運送。」とある。
26:底本は、「関中(くわんちう)」。底本頭注に、「函谷関の中。帝都咸陽の所在地一帯を云ふ。」とある。
27:底本は、「人をして懐王を」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
28:底本頭注に、「わづらはしく。」とある。
29:底本は、「挺楚(ていそ)」。底本頭注に、「杖笞。」とある。
30:底本は、「大牢(たいらう)の具(そな)へ」。底本頭注に、「牛羊豕をそなへた饗応。」とある。
31:底本は、「使なりしと思ひて」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
32:底本は、「あきぬべぎ、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
33:底本は、「己に」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
34:底本は、「心の和せし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
35:底本は、「購(つぐの)ふ」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
36:底本頭注に、「大命。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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