巻第二十九

宮方京攻めの事

 暫時の智謀、事成りしかば、三條左兵衛督入道恵源と吉野殿と御合体あつて、恵源は、大和の越智がもとにおはしければ、和田、楠を始めとして、大和、河内、和泉、紀伊国の宮方ども、我も我もと三條殿に馳せ参る。これのみならず、洛中辺土の武士どもも、面々に参ると聞こえしかば、無弐の将軍方にて、楠退治のために石河河原に向ひ城を取つて居られたりける畠山阿波将監国清も、その勢千余騎にて馳せ参る。
 謳歌の説{*1}、巷に満ちて、「南方の勢、已に京へ寄する。」と聞こえければ、京都の警固にておはしける宰相中将義詮朝臣より早馬を立てて、備前の福岡に、将軍九州下向のためとておはしける所へ、急を告げらるる事、しきなみなり。これに依つて、将軍より飛脚を以て、越後守師泰が石見の三角城退治せんとて居たりけるを、その国はともかくもあれ、先づ京都一大事なれば、夜を日に継いで上洛すべき由をぞ告げられける。飛脚の行き帰る程、日数を経ければ、「師泰が参否の左右を待つまでもなし。」とて、将軍、急ぎ福岡を立つて、二千余騎にて上洛し給ふ。
 入道左兵衛督、この由を聞きて、「さらば、京都に勢のつかぬ前に、先づ義詮を攻め落とせ。」とて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を取る。桃井右馬権頭直常、その頃、越中の守護にて在国したりけるが、かねて相図を定めたりければ、同じき正月八日、越中を立つて、能登、加賀、越前の勢を相催し、七千余騎にて夜を日に継いで攻め上る。折節、雪おびただしく降つて、馬の足も立たざりければ、兵を皆馬より下し、橇{*2}を懸けさせ、二万余人を前に立てて、道を踏ませて過ぎたるに、山の雪氷つて鏡の如くなれば、中々馬の蹄を労せずして七里半の山中をば、馬人たやすく越えはてて、比叡山の東坂本にぞ著きにける。
 足利宰相中将義詮は、その頃京都におはしけるが、八幡山、比叡坂本に大敵をうけて、「油断すべきにあらず、著到をつけて勢を見よ。」とて、正月八日より、日々に著到をつけられけり。初日は三万騎と註したりけるが、翌日は一万騎に減ず。次の日は二千騎になる。「これは、いかさま、御方の軍勢、敵になるとおぼゆるぞ。道々に関を据ゑよ。」とて、淀、赤井、今道、関山に関を据ゑたれば、関守ともに打ち連れて、我も我もと敵に馳せつきける程に、同じき十二日の暮程には、御内、外様の御勢、五百騎に足らずとぞ註したる。
 さる程に、十三日の夜より、「桃井、山上に陣を取りぬ。」と見えて、大篝を焼けば、八幡山にも相図の篝を焼き続けたり。これを見て、仁木、細川以下、宗徒の人々評定あつて、「合戦は、始終の勝ちこそ肝要にて候へ。この小勢にて、かの大敵にあはんこと、千に一つも勝つことを得がたくおぼえ候。その上将軍、已に西国より御上り候なれば、今は摂津国辺にも著かせたまひて候らん。ただ京都を事ゆゑなく御開き候て{*3}、将軍の御勢と一つになり、則ち京都へ寄せられ候はば、などか思ふ図に合戦、一度せでは候べき。」と申されければ、義詮卿、「義は宜しきに従ふに如かじ。」とて、正月十五日の早旦に、西国を指して落ち給へば、同じき日の午の刻に、桃井、都へ入りかはる。
 「治承の古、平家、都を落ちたりしかども、木曽は猶、天台山に陣を取つて、十一日まで都へ入らず。これ全く入洛を急がざるにあらず。敵を欺かざる{*4}故なり。又は、軍勢の狼藉を静めんためなりき。武略に長ぜる人は、慎む処、かやうにこそ堅かるべけれ。今直常、敵の落ちぬといへばとて、人に兵粮をもつかはせず、馬に糠をもかはせず、楚忽に都へ入り替はる事、その要、何事ぞや。敵、もし偽つて引き退き、かへつて又{*5}寄せ来ることあらば、直常、一定打ち負けぬ。」といはぬ人こそなかりけれ。又、桃井を引く者は、「敵御方、勝負を決すべきならば、いかでか敵を欺かざるべき。未だ落ちぬ先にも入洛すべし。まして敵落ちなば、何しにすこしも擬議すべき。如何にも入洛を急ぎてこそ、日頃の所存も達しぬべけれ。もし敵、偽つて引き退き、又帰り寄する事あらば、京都にて骸を曝したらん事、何か苦しかるべき。又、軍勢の狼藉は、入洛の遅速に依るべからず。その上深き料簡もおはすらん。」と申す族も多かりけり。

将軍上洛の事 附 阿保、秋山河原軍の事

 義詮、心細く都を落ちて、桂河を打ち渡り、向明神を南へ打ち過ぎさせ給はんとするところに、物集女の前西岡の東西に当たりて、馬煙おびただしく立つて、勢の多少は未だ見えず。旗二、三十流れ翻して、小松原より駆け出でたり。義詮、馬を控へて、「これは、もし八幡より搦手に廻る敵にてやあるらん。」とて、先づ人を見せに遣はされたれば、八幡の敵にてはあらで、将軍と武蔵守師直、山陽道の勢を駆り具し、二万余騎を率して上洛し給ふにてぞありける。義詮を始め奉つて、諸軍勢に至るまで、唯、窮子の他国より帰つて父の長者に逢へるが如く、悦びあふこと限りなし。
 「さらば、やがて取つて返して洛中へ打ち寄せ、桃井を攻め落とせ。」と、将軍父子{*6}の御勢都合二万余騎を、桂川より三手に分けて、大手は武蔵守を大将として、仁木兵部大輔頼章、舎弟右馬権助義長、細川阿波将監清氏、今川駿河守五千余騎、四條を東へ押し寄する。佐々木佐渡判官入道は、手勢七百余騎を引き分けて、東寺の前を東へ打ち通りて、今比叡のほとりに控へ、大手の合戦半ばならん時、思ひも寄らぬ方より敵の後ろへ駆け出でんと、旗竿を引きそばめ、笠印を巻き隠し、東山へ打ち上がる。将軍と宰相中将殿は、一万余騎を一手に合はせ、大宮をのぼりに打ち通り、二條を東へ法勝寺の前に打ち出でんと、相図を定めて寄せ給ふ。
 これは、桃井、東山に陣を取りたりと聞きければ、「四條より寄する勢に向つて、合戦は定めて河原{*7}にてぞあらんずらん。御方、偽つて京中へ引き退かば、桃井、定めて勝つに乗つて進まんか。その時道誉、桃井が陣の後ろへ駆け出でて、不意に戦ひを致さば、前後の大敵に遮られて、進退度を失はん時、将軍の大勢、北白河へ駆け出でて、敵の後ろへ廻る程ならば、桃井猛しといふとも、引かではやはか戦ふ{*8}。」と、謀りごとを廻らす処なり。案の如く、中の手大宮にて旗を下して、直に四條河原へ駆け出でたれば、桃井は、東山を後ろにあて、賀茂河を前に境ひて、赤旗一揆、扇一揆、鈴附一揆、二千余騎を三所に控へて、射手をば面に進ませ、畳楯二、三百帖つき並べて、「敵かからば、共に懸かり合ひて、広みにて勝負を決せん。」と、静まり返つて待ちかけたり。
 両陣、旗を上げて、鬨の声をば揚げたれども、寄せ手は搦手の勢の相図を待つて、未だ懸からず。桃井は、八幡の勢の攻め寄せんずる程を待つて、わざと事を延ばさんとす。互に勇気を励ます程に、或いは五騎十騎、馬を駆け据ゑ駆け廻し、駆け引き自在に当たらんと、馬を乗り浮かぶるもあり。或いは母衣袋より母衣取り出だして、ここを先途の戦ひと思へる気色顕はれて、最後と出で立つ人もあり。
 かかる処に、桃井が扇一揆の中より、たけ七尺ばかりなる男の、ひげ黒に血眼なるが、緋縅の鎧に五枚兜の緒を締め、鍬形の間に紅の扇の月日出だしたるを残らず開いて、夕陽に輝かし、樫の木の棒の一丈余りに見えたるを、八角に削つて両方に石突{*9}入れ、右の小脇に引きそばめて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡かませて唯一騎、河原面に進み出でて、高声に申しけるは、「戦場に臨む人ごとに、討死を志さずといふ者なし。然れども、今日の合戦には、光政、殊更死を軽んじて、日頃の広言を実にもと人にいはれんと存ずるなり。その名、人に知らるべき身にても候はぬ間、余りにことごとしき様に候へども、名字を申すにて候なり。これは、清和源氏の後胤に秋山新蔵人光政と申すものにて候。王氏を出でて遠からずといへども、已に武略の家に生まれて、数代唯弓箭を取つて、名を高くせん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至るまで、兵法を弄び嗜む事、隙なし。但し黄石公、子房に授けし所は、天下のためにして匹夫の勇にあらざれば、吾、未だ学ばず。鞍馬の奥僧正谷にて、愛宕、高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授けし所の兵法に於いては、光政、これを残らず伝へ得たる処なり。仁木、細川、高家の御中に吾と思はん人々、名のつてこれへ御出で候へ。花やかなる打物して、見物の衆の眠り醒まさん。」と呼ばはつて、勢ひ、辺りを払つて西頭に馬をぞ控へたる。
 仁木、細川、武蔵守が内に、手柄を顕はし名を知られたる兵多しといへども、如何思ひけん、互に目を配つて、「我、これに懸け合つて勝負をせん。」といふ者もなかりける処に、丹の党に阿保肥前守忠実といひける兵、連銭葦毛なる馬に厚総懸けて、唐綾縅の鎧、竜頭の兜の緒を締め、四尺六寸の貝鎬の太刀を抜いて、鞘をば河中へ投げ入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘かけたる金作りの小太刀佩き副へて、唯一騎、大勢の中より駆け出でて、「事珍しく耳に立てても承る、秋山殿の御詞かな。これは、執事の御内に阿保肥前守忠実と申す者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮は山野{*10}の獣を追ひ、江河の鱗を漁つて業とせし間、張良が一巻の書をも、呉氏孫氏が伝へし所をも、かつて名をだに聞かず。されども、変化時に応じて、敵のために気を発する処は、勇士の己と心に得る道なれば、元弘建武以後、三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事、その数を知らず。素引きの精兵{*11}、畠水練の詞におづる人あらじ。忠実が手柄の程試みて後、左様の広言をば吐き給へ。」と、高らかに呼ばはりて、しづしづと馬をぞ歩ませたる。
 両陣の兵、「あれ、見よ。」とて、軍を止めて手を握る。数万の見物衆は、戦場ともいはず走り寄つて、かたづを呑みてこれを見る。誠に今日の軍の花は、唯これに如かじとぞ見えたりける。相近になれば、阿保と秋山とにつこと打ち笑ひて、弓手に駆け違へ馬手に開き合つて、秋山、はたと打てば、阿保、うけ太刀になつて請け流す。阿保、持つて開いてしとと切れば、秋山、棒にて打ちそむく。三度逢ひ三度別ると見えしかば、秋山は、棒を五尺ばかり切り折られて、手元僅かに残り、阿保は太刀を鐔本より打ち折られて、佩き添への小太刀ばかり憑みたり。
 武蔵守、これを見て、「忠実は、打物取つて手はききたれども、力量なき者なれば、力勝りに逢ひて、始終は叶はじとおぼゆるぞ。あれ、討たすな。秋山を射て落とせ。」とぞ下知せらる。究竟の精兵七、八人、河原面に立ち渡つて、雨の降るが如く散々に射る。秋山、くだんの棒を以て、只中を指して当たる矢二十三筋{*12}まで打ち落とす。忠実も情ある者なりければ、今は秋山を討たんともせず、あまつさへ御方より射る矢を制して、矢面にこそ塞がりけれ。かかる名人を無代に射殺さんずる事を惜しみて、制しけるこそやさしけれ。かくて両方打ち退きて、諸人の目をぞさましける。さればその頃、霊仏霊社の御手向、扇、団扇のばさら絵にも、阿保秋山が河原軍とて書かせぬ人はなし。
 その後、合戦始まつて、桃井が七千余騎、仁木、細川が一万余騎と、白河を西へまくり東へ追ひ靡け、七、八度が程駆け合ひたるに、討たるる者三百人、創を被る者、数を知らず。両陣、互に戦ひ屈して、控へて{*13}息を継ぐ処に、かねての相図を守つて、佐々木判官入道道誉、七百余騎にて思ひも寄らぬ中霊山の南より、鬨をどつと作つて桃井が陣の後ろへ駆け出でたり。桃井が兵、これに驚きあらけて{*14}、二手に分けて相戦ふ。桃井は、西南の敵に破り立てられて、兵、引き色{*15}に見えける間、兄弟二人、わざと馬より飛んで下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり。一足も引く事あるべからず。唯討死をせよ。」とぞ下知しける。
 さる程に、日、已に夕陽に及んで、戦ひ数刻になりぬれども、八幡の大勢は、かつて攻め合はせず。北国の兵、気疲れて、暫く東山に引き上げんとしける処に、将軍並びに羽林{*16}の両勢五千余騎、二條を東へ駆け出でて、桃井を山上へ又引き返させじと、後を隔ててぞ取り巻きける。桃井、終日の合戦に入り替はる勢もなくて、戦ひ疲れたる上、三方の大敵にかこまれて、叶はじとや思ひけん、粟田口を東へ山科越えに引いて行く。されども尚、東坂本までは引き返さで、その夜は関山に陣を取つて、大篝を焼きてぞ居たりける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「風聞。」とある。
 2:底本は、「橇(かんじき)」。底本頭注に、「雪の時はくはきもの。」とある。
 3:底本頭注に、「御退きあつて。」とある。
 4:底本頭注に、「侮らない。」とある。
 5:底本は、「却つて寄(よ)せ来(きた)る」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 6:底本頭注に、「尊氏と義詮。」とある。
 7:底本頭注に、「賀茂の河原。」とある。
 8:底本頭注に、「退かずしては、どうして戦ひ得ようか。」とある。
 9:底本は、「石突(いしづき)」。底本頭注に、「端の金具。」とある。
 10:底本は、「野山」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 11:底本は、「白引(すびき)の精兵(せいひやう)」。底本頭注に、「矢を番うて射ず唯口頭で強弓を誇る兵。」とある。
 12:底本は、「二十筋」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 13:底本は、「屈(くつ)して馬を控へて」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
 14:底本頭注に、「別れ別れになつて。」とある。
 15:底本頭注に、「負け色。」とある。
 16:底本頭注に、「唐の官名でわが左右近衛府に当る。こゝは左近衛中将義詮を指す。」とある。