将軍親子御退失の事 附 井原岩屋の事

 将軍、都へ立ち帰り給ひて、桃井、合戦に打ち負けぬれば、「今は、八幡の御敵どもも、大略将軍へぞ馳せ参らん。」と、諸人、推量を廻らして、今はかうと思はれけるに、案に相違して、十五日の夜半ばかりに、京都の勢、大半落ちて、八幡の勢にぞ加はりける。「こは、そも何事ぞ。戦ひに利あれば、御方の兵、いよいよ敵になる事は。よく早、尊氏を背く者、多かりける。かくては洛中にて再び戦ひを致し難し。暫く西国の方へ引き退いて、中国の勢を催し、東国の者どもに牒じ合はせて、かへつて敵を攻めばや。」と、将軍、頻りに仰せあれば、諸人、「然るべくおぼえ候。」と同じて、正月十六日の早旦に、丹波路を西へ落ち給ふ。「昨日は将軍、都に立ち帰つて、桃井、戦ひに負けしかば、洛中にはこれを悦び、八幡には聞いて悲しむ。今日は又、将軍都を落ち給ひて、桃井やがて入り替はる。」と聞こえしかば、八幡にはこれを悦び、洛中にはひそかに悲しむ。吉凶は糺へる縄の如く、哀楽、時を易へたり。
 何を悦び何事を歎くべしとも定めずして、将軍は昨日、都を東嶺の暁の{*1}霞と共に立ち隔たり、今日は、旅を山陰の夕の雲に引き別れて、西国へと赴き給ひけるが、「名将、一処に集まらんことは、計略なきに似たり。」とて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章、舎弟右京大夫義長を相副へて二千余騎、丹波の井原石屋{*2}に止めらる。この寺の衆徒、元来、無弐の志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糠藁に至るまで、山の如く積み上げたり。この所は、岩高く峯聳えて、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安くおぼえたる上、荻野、波波伯部、久下、長沢、一人も残らず馳せ参つて、日夜の用心隙なかりければ、他日窮困の軍勢ども、唯、翰鳥の繳を出でて{*3}、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。
 相公{*4}登山し給ひし日より、岩屋寺の衆徒、座さまさずに勝軍毘沙門の法をぞ行ひける。七日に当たりたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参りたり。相公、則ち僧都に対面し給ひて、当寺開山の事の起こり、本尊霊験を顕はし給ひし様など、様々問ひ給ひけるついでに、「さても、いづれの薩埵を帰敬し、如何なる秘法を修してか、天下を鎮め大敵を亡ぼす要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都、畏まつて申しけるは、「およそ、諸仏薩埵の利生方便まちまちにして、彼を是しこれを非するおぼえ、応用無辺に候へば、いづれを優り、いづれを劣りたりとは申し難く候へども、須弥の四方を領して鬼門の方を守護し、摧伏{*5}の形を現じて専ら勝軍の利を施し給ふ事は、毘沙門の徳に如くは候べからず。これ、我が寺の本尊にて候へばとて、謂はれなく申すにて候はず。
 「古、玄宗皇帝の御宇天宝十二年に、安西と申す所に軍起こつて、数万の官軍、戦ふ度毎に打ち負けずといふ事なし。『今は、人力の及ぶ処にあらず。如何すべき。』と、玄宗、有司に問ひ給ふに、皆同じく答へて申さく、『これ、誠に天の擁護に係らずんば、鎮むる事を得難し。唯、不空三蔵を召されて大法を行はせらるべきか。』と申しける間、帝、則ち不空三蔵を召して毘沙門の法を行はせられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠百万、安西に出で来て、謀叛人の太刀刀、甲冑、矢の筈弓の弦に至るまで、一つも残らず食ひ破り食ひ切り、あまつさへ人をさへ噛み殺し候ひける程に、兇徒、これを防ぎかねて、首をのべて軍門に降りしかば、官軍、矢の一つをも射ずして若干の賊徒を平らげ候ひき。
 「又、吾が朝には朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山{*6}に安置し奉つて、将門を亡ぼされぬ。聖徳太子、毘沙門の像を刻んで、兜の真甲に戴きて、守屋の逆臣を誅せらる。これ等の奇特、世の知る処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきにあらず。然るに今、武将、幸ひに多門示現の霊地に御陣を召され候事、古の佳例に違ふまじきにて候へば、天下を一時に鎮められて、敵軍を千里の外に払はれ候はん事、何の疑ひか候べき。」と、誠に憑もしげに申されたりければ、相公、信心を起こされて、丹波国小川荘を寄附せられ、永代の寺領にぞなされける。

越後守石見より引き返す事

 越後守師泰は、この時まで三角城を退治せんとて、猶石見国に居たりけるを、師直がもとより飛脚を立てて、「摂津国播磨の間に合戦、事已に急なり。早くその国の合戦を差し置きて馳せ上らるべし。もし中国の者ども、かかる時の弊えに乗つて、道を塞がんずる事もやあらんずらんと存じ候間、武蔵五郎をかねて備前へ差し遣はす。中国の蜂起を鎮めて待ち申すべし。」とぞ告げたりける。越後守、この使に驚いて、石見を立つて上れば、武蔵五郎、その相図を違へじと、播磨を立つて備後の石崎にぞ著きにける。
 「将軍は、八幡、比叡山の敵に襲はれて、播磨の書写坂本{*7}へ落ち下り、越後守は、三角城を攻めかねて引き退く。」と聞こえしかば、上杉弾正少弼、八幡より船路を経て、備後の鞆へあがる。これを聞きて、備後、備中、安芸、周防の兵ども、我劣らじと馳せつきける程に、その勢、雲霞の如くにて、靡かぬ草木もなかりけり。
 さる程に、「武蔵五郎、越後守を待ち附けて、中国には暫しも逗留せず、やがて上洛す。」と聞こえければ、上杉、取る物もとりあへず、「後を追つて討ち留めよ。」とて、その勢二千余騎、正月十三日の早旦に、草井地より打つ立つて、後を追つてぞ寄せにける。越後守は、夢にもこれを知らず、片時も行く末を急ぐ道なれば、匹馬に鞭を進めて勢山を打ち越えぬ。小旗一揆、河津、高橋、陶山兄弟は、遥かの後陣に引き後れて、未だ竜山のこなたに支へたり。先陣後陣相隔たつて、勢の多少も見分かねば、上杉が先駆けの五百余騎、一の後陣に打ちける陶山が百余騎の勢を目に懸けて、楯の端を敲いて鬨を作る。
 陶山、元来、軍の陣に臨む時、仮にも人に後ろを見せぬ者どもなれば、鬨の声を合はせて、矢一筋射違ふるほどこそあれ、大勢の中へ駆け入つて攻めけれども、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須臾に変化して万方に相当たれば、野草、紅に染みて、汗馬の蹄、血を蹴たて、河水、みなまたせかれて、士卒の骸、忽ち流れを絶つ。かかりけれども、前陣は隔たつて知らず、後陣には続く御方もなし。唯今を限りと戦ひけるほどに、陶山又次郎高直、脇の下、内兜、吹返しの外れ、三所突かれて討たれにけり。
 弟の又五郎これを見て、「あはれ、よからんずる敵に組んで、刺し違へばや。」と思ふ処に、緋縅の鎧に紅の母衣懸けたる武者一騎、相近に寄り合ひたり。「誰ぞ。」と問へば、土屋平三と名のる。陶山、につこと笑ひて、「敵をば嫌ふまじ。よれ、組まん。」といふままに引き組んで、二匹が中へどうと落つる。落ちつく処にて、陶山、上になりければ、土屋を取つて押さへて頚をかかんとするを見て、道口七郎、落ち合つて陶山が上に乗り懸かる。陶山、下なる土屋をば左の手にて押さへ、上なる道口をかい掴んで、ねぢ頚{*8}にせんと振り返つて見ける処を、道口が郎等、落ち重なつて陶山がひつしきの板{*9}を畳み上げ、あげ様に三刀刺したりければ、道口、土屋は助かつて、陶山は命を止めたり。
 陶山が一族郎等、これを見て、「何のために命を惜しむべき。」とて、長谷与一、原八郎左衛門、小池新兵衛以下の一族若党ども、大勢の中へ破つては入り、破つては入り、一足も引かず、皆切り死ににこそ死ににけれ。上杉、若干の手の者を討たせながら、後陣の軍には勝ちにけり。
 宮下野守兼信は、初め七十騎にて中の手にありけるが、後陣の軍に御方打ち負けぬと聞いて、いつの間にか落ち失せけん、唯六騎になりにけり。兼信、四方を屹と見て、「よしよし、有るにかひなき大臆病の奴原は、足纏ひになるに、落ち失せたるこそ逸物なれ。敵、未だ人馬の息を休めぬ先に、いざや、かからん。」といふままに、六騎、馬の鼻を並べて駆け入る。これを見て、小旗一揆に河津、高橋五百余騎、喚いて懸かりける程に、上杉が大勢、後より引き立つて、一度も遂に返さず、ひた引きに引きける間、上杉、深手を負ふのみにあらず、討たるる兵三百余騎、創を蒙る者、数を知らず。その道三里が間には、鎧腹巻、小手臑当、弓矢、太刀刀を捨てたること、足の踏み所もなかりけり。
 備中の合戦には、越後守師泰、念なく打ち勝ちぬ。「これより播磨までは、道のほど異なる事あらじ。」と思ふ所に、美作国の住人垪和、角田の者ども、相集まつて七百余騎、杉坂の道を切り塞いで、越後守を討ち留めんとす。ただ今、備中の軍に打ち勝つて、勢ひ天地を凌ぐ河津、高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜きつれて懸かりける程に、敵、一たまりもたまらず谷底へまくり落とされて、大略皆討たれにけり。
 両国の軍に事ゆゑなく打ち勝つて、越後守師泰、武蔵五郎師夏、喜悦の眉を開き、観応二年二月一日に、将軍の陣を取つておはしける書写坂本へ馳せ参る。

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校訂者注
 1:底本は、「暁に霞」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 2:底本は、「井原石龕(ゐはらのいはや)」。底本頭注に、「丹波国井原郷にある。」とある。
 3:底本は、「翰鳥(かんてう)の繳(いぐるみ)を出でて」。底本頭注に、「高く飛ぶ鳥が誤つて糸にかかつたが幸に糸から逃れ出たといふ意。」とある。
 4:底本頭注に、「尊氏を指す。」とある。
 5:底本は、「摧伏(さいふく)」。底本頭注に、「勢を摧いて伏せしめること。」とある。
 6:底本頭注に、「比叡山。」とある。
 7:底本頭注に、「姫路の西北一里半、書写山なり。山中に円教寺あり。」とある。
 8:底本頭注に、「刀を用ゐず頚をねぢ切ること。」とある。
 9:底本頭注に、「鎧の後の革裾。」とある。