光明寺合戦の事 附 師直怪異の事
さる程に、八幡より石堂右馬権頭を大将にて、愛曽伊勢守、矢野遠江守{*1}以下五千余騎にて、書写坂本へ寄せんとて下向しけるが、書写坂本へは、越後守が大勢にて著きたる由を聞いて、播磨の光明寺に陣を取つて、尚八幡へ勢をぞ乞はれける。
将軍、この由を聞き給ひて、「光明寺に勢を著けぬ前に、先づこれを打ち散らさん。」とて、同じき二月三日{*2}、将軍、書写坂本を打ち立つて、一万余騎の勢を率し、光明寺の四方を取り巻き給ふ。石堂、城を堅めて光明寺に篭りしかば、将軍は、引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性の理{*3}、寄せ手のためにいづれも忌々しくこそ聞こえけれ。
同じき四日より矢合はせして、寄せ手、高倉の尾より攻め上れば、愛曽は、二王堂の前に支へて相戦ふ。城中には死生知らずのあふれ者ども、ここを先途と命を捨てて戦ふ。寄せ手は、功高く禄重き大名どもが、唯、御方の大勢を憑むばかりにて、誠に吾一大事と思ひ入つたる事なければ、毎日の軍に、城の中、勝つに乗らずといふ事なし。
赤松律師則祐は、七百余騎にて泣尾へ向ひたりけるが、遥かに城の体を見て、「敵は無勢なりけるを、一攻め攻めて見よ。」と下知しければ、浦上七郎兵衛行景、同五郎左衛門景嗣、吉田弾正忠盛清、長田民部丞資真、菅野五郎左衛門景文、さしも嶮しき泣尾の坂を攻め上つて、垣楯の際まで著きたりける。この時に、自余の道々よりも、寄せ手、同時に攻め上る程ならば、城をば一息に攻め落とすべかりしを、「何となくとも今宵か明日か、心落ちに落ちんずる城を、骨折に攻めては何かすべき。」とて、数万の寄せ手、いたづらに見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始めとして、攻め入る寄せ手、一人も残らず垣楯の下に射伏せられて、元の陣へぞ引き返しける。
手合はせの合戦に敵を退けて、城中いささか気を得たりといへども、「寄せ手は大勢なり、城の構へ未だ拵へず。始終如何あるべからん。」と、石堂、上杉、安き心もなかりける処に、伊勢の愛曽が召し使ひける童一人、俄に物に狂ひて、十丈ばかり飛び上がりて跳りけるが、「吾に伊勢大神宮、乗り居させ給ひて、この城守護のために三本杉の上に御座あり。寄せ手、たとひ如何なる大勢なりとも、吾かくてあらん程は、城を落とさるる事あるべからず。悪行身を責め、師直、師泰等、今七日が中に滅びんずるをば知らずや。あら、あつや、堪へ難や。いで、三熱の焔さまさん。」とて、閼伽井の中へ飛び漬かりたれば、実にも閼伽井の水沸き返つて、わかせる湯の如し。城中の人々、これを聞きて、渇仰の頭を傾けずといふ事なし。
寄せ手の赤松律師も、この事を伝へ聞きて、「さてはこの軍、はかばかしからじ。」と、気に障りて思ひける処に、子息肥前権守朝範が、兜を枕にして少しまどろみたる夢に、「寄せ手一万余騎、同時に垣楯の際に寄せて火をかけしかば、八幡山、金峯山の方より山鳩数千飛び来つて、翅を水に浸して、櫓垣楯に燃えつく火を打ち消す。」とぞ見えたりける。朝範、やがてこの夢を則祐に語る。則祐、これを聞きて、「さればこそ。この城を攻め落とさん事、あり難しと思ひつるが、果たして神明の擁護ありけり。あはれ、事の難儀にならぬ前に、引きて帰らばや。」と思ひける処に、美作より敵起こつて赤松へ寄する由、聞こえければ、則祐、光明寺の陣を捨てて白旗城へ帰りにけり。
軍の習ひ、一騎も勢の加はる時には人の心勇み、一人もすく時は、兵の気たゆむ習ひなれば、寄せ手の勢、次第に減ずるを見て、武蔵守が兵ども、いよいよ軍怠つて、皆帷幕の中に休息して居たりける処に、巽の方より怪しげなる雲一群立ち出でて、風に随つて飛揚す。百千万の鳶烏、その下に飛び散つて、雲居る山の風早み、散り乱れたる木の葉の、空にのみして行くが如し。近づくに随つてこれを見れば、雲にも霞にもあらず、無文の白旗一流れ、天より飛び下がるにてぞありける。「これは、八幡大菩薩の擁護の手を加へ給ふ奇瑞なり。この旗の落ち留まらんずる方ぞ、軍には打ち勝たんずらん。」とて、寄せ手も城中も手をあざへ、礼をなして祈念を致さずといふ人なし。この旗、城の上に飛び上がり飛び下がりて、暫く翩翻しけるが、梢の風に吹かれて、又寄せ手の上に翻る。数万の軍勢、頭を地に著けて、「吾が陣に天降らせ給へ。」と信心を凝らす処に、飛鳥十方に飛び散つて、旗は忽ちに師直が幕の中にぞ落ちたりける。
諸人、同じく見て、「めでたし。」と感じける声、暫しは静まりも得ざりけり。師直、兜を脱いで左の袖に受け留め、三度礼して委しくこれを見れば、旗にはあらで、何ともなき反古を二、三十枚継ぎ集めて、裏に二首の歌をぞ書きたりける。
吉野山峯のあらしのはげしさに高きこずゑの花ぞちりゆく
限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら{*4}霜がれにけり
師直、かたへの人に、「この歌の吉凶、いづれぞ。」と問ひければ、聞く人ごとに、「あな、あさましや。『高き梢の花ぞ散り行く』とあるは、高家の人亡ぶべき事にやあるらん。然も、『吉野山峯の嵐のはげしさに』とあるも、先年蔵王堂を焼かれたりし罪、一人にや帰すらん。『武蔵野の草はみながら霜枯れにけり』とあるも、名字の国なれば、かたがた以て不吉なる歌。」と、忌々しくは思ひけれども、「めでたき歌どもにてこそ候へ。」とぞ会釈しける。
小清水合戦の事 附 瑞夢の事
さる程に、その日の暮程に、摂津国の守護赤松信濃守範資、使者を以て申しけるは、「八幡より石堂中務大輔、畠山阿波守国清、上杉蔵人大夫{*5}を大将にて、七千余騎を、光明寺の後詰めのためにとて差し下さるるなり。前には光明寺の城堅く守つて、後ろに新手の大敵かかりなば、ゆゆしき御大事にて候べし。ただ先づその城をばさしおかれ候て、討手の下向を相支へ、神尾、十林寺、小清水の辺にて御合戦候はば、敵の敗北、疑ふ処にあらず。御方、一戦に利を得ば、敵、所々に軍すといふとも、いつまでかこらへ候べき。これ、唯一挙に戦ひを決して、万方に勝つ事を計る処にて候べし。」と、追ひ追ひ早馬を打たせて、一日に三度までこそ申されけれ。
将軍を始め奉つて、師直、師泰に至るまで、「実にも。聞こゆる如くならば、敵は小勢なり。御方はこれに十倍せり。嶮しき山の城を攻むればこそ叶はね、平場に懸け合つて勝負を決せんに、御方勝たずといふ事あるべからず。さらば、この城を差し置きて、先づ向うなる敵に懸かれ。」とて、二月十三日、将軍も執事兄弟{*6}も、光明寺の麓を御立ちあつて、兵庫の湊川へ馳せ向かはる。
畠山阿波守国清は、三千余騎にて播磨の東條にありけるが、このことを聞いて、「さては、いづくにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向かはめ。」とて、湯山{*7}を南へ打ち越えて、打出の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭りける石堂右馬頭、上杉左馬助{*8}も、光明寺をば打ち捨てて、皆畠山が陣へ馳せ加はる。
同じき十七日の夜、将軍、執事の勢二万余騎、御影浜に押し寄せ、追手搦手、二手に分けらる。「軍は追手より始めて、戦ひ半ばならん時、搦手の浜の南より押し寄せて、敵を中に取り篭めよ。」と下知せられける。薬師寺次郎左衛門公義は、「今度の戦ひ、いかさま、大勢を憑みて、御方し損じぬ。」と思ひければ、いよいよ我が大事と気を励ましけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫ひ合はせて、両方に赤き手を著けたる旗をぞ差したりける。
一族の手勢二百余騎、雀松原の木蔭に控へて、「追手の軍、今や始まる。」と待つ処に、かねての相図なれば、河津左衛門氏明、高橋中務英光、大旗一揆の六千余騎、畠山が陣へ押し寄せて、鬨を作る。畠山が兵、静まり返つて、わざと鬨の声をも合はせず、ここの薮蔭、かしこの木蔭に立ち隠れて、差し詰め引き詰め散々に射けるに、面に立つ寄せ手数百人、馬より真さかさまに射落とされければ、後陣は引き足になつて進み得ず。
河津左衛門、これを見て、「矢軍ばかりにては叶ふまじきぞ。抜いて懸かれ。」と下知して、弓をば薮へからりと投げ棄てて、三尺七寸の太刀を抜いて、敵の群がりたる中へ会釈もなく駆け入らんと、一段高き岸の上へ駆け上りける処に、十方より鏃をそろへて射ける矢に、馬の平頚、草わき{*9}、弓手の小腕、右の膝口、四所まで箆深に射られて、馬は小膝を折つて、どうと伏す。乗り手は朱になつて下り立ちたり。これを見て、畠山が二百余騎、喚いて懸かりければ、後に控へたる寄せ手の大勢ども、新手を入れ替へて戦はんともせず、手負を助けんともせず、鞭に鐙を合はせて一度にばつとぞ引きたりける。
石堂右馬頭が陣は、これより十余町を隔てたれば、未だ御方の打ち勝つたるをも知らず。「打出浜に旗の三流れ見えたるは、敵か御方か。見て帰れ。」といはれければ、原三郎左衛門義実、只一騎、馳せ向つてこれを見るに、三幅の小旗に赤き手を両方に著けたり。「さては、敵なり。」と見おほせて馳せ帰りけるが、いたづらに馬の足を疲らかさじとや思ひけん、扇を挙げて御方の勢をさし招き、「浜の南に控へたる勢は、敵にて候ぞ。しかも追手の軍は、御方打ち勝ちたりと見え候。早、懸からせ給へ。」と、声を挙げてぞ呼ばはりける。元より気早なる石堂、上杉の兵ども、これを聞いて、何かは少しも思惟すべき。七百余騎の兵ども、馬の轡を並べて喚いて懸かりけるに、薬師寺が後に控へたる執事兄弟の大勢ども、未だ矢の一つをも射懸けられず、捨て鞭を打つてぞ逃げたりける。
梶原孫六、同弾正忠二人は、追手の勢の中にあつて、心ならず御方に引き立てられ、六、七町落ちたりけるが、後代の名をや恥ぢたりけん、唯二騎引き返して大勢の中へ駆け入る。暫しが程は二人一所にて戦ひけるが、後には別々になつて、唯、命を限りとぞ戦ひける。孫六は、敵三騎切つて落として、裏へつと駆け抜けたる。続く御方もなく、又、見とがむる敵もなかりければ、紛れて助からんと思ひて、笠印を取つて袖の下に収め、西宮へ打ち通つて、夜に入りければ、小船に乗つて将軍の陣へぞまゐりける。弾正忠は、ひとへに敵に紛れもせず、駆け入りては戦ひ駆け入りては戦ひ、七、八度まで馬煙を立てて戦ひけるが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門{*10}と、二騎に取り篭められて討たれにけり。後に、「あはれ、剛の者や。誰といふものならん。名字を知らばや。」とてこれを見るに、梅花を一枝折つて、箙の上に著けたり。「さては、元暦の古、一の谷の合戦に二度の駆けして名を揚げし、梶原平三景時がその末にてぞあるらん。」と、名のらで名をぞ知られける。
薬師寺二郎左衛門公義は、御方の追手搦手二万余騎、崩れ懸かつて引けども、少しも騒がず。二百五十騎の勢にて、石堂、上杉が七百余騎の勢を山際までまくりつけて、続く御方を待つ処に、一騎も控へたる兵なければ、又、浪打際に控へて居たるに、石堂、畠山が大勢ども、「手著けたる旗は、薬師寺と見ゆるぞ。一人も余すな。」とて追つ懸けたり。公義が二百五十騎、敵、後ろに近附けば、一度に馬を屹と引つ返して戦ひ、敵、先を遮れば、一同にわつと喚いて駆け破り、打出浜の東より御影浜の松原まで、十六度まで返して戦ひけるに、或いは討たれ、或いは敵に駆け散らされ、一所に控へたる勢とては、弾正左衛門義冬、勘解由左衛門義治、已上六騎{*11}になりにけり。
兵ども、暫く馬の息を継がせて、傍らを屹と見たるに、輪違{*12}の笠印著けたる武者一騎、馬を白砂に馳せ倒して、敵七騎に取り篭められたり。弾正左衛門義冬、これを見て、「これは、松田左近将監{*13}とおぼゆる。目の前にて討たるる御方を助けずといふ事やあるべき。」とて、六騎抜き連れて懸かれば、七騎の敵引き退きて、松田は命を助かつてけり。松田、薬師寺、七騎になつて暫し控へたる処に、彼等が手の者ども、ここかしこより馳せつきて、又百騎ばかりになりければ、石堂、畠山{*14}、先駆けして、兵を三町ばかり追ひ返したるに、敵も勇気や疲れけん、その後よりは追はざりければ、軍はこれにて止みにけり。薬師寺は、鎧に立つ処の矢、少し折りかけて湊川へ馳せ帰りたれば、敵の旗をだにも見ずして引き返しつる二万余騎の兵ども、勇気を失ひ、落つる方を求めて、唯、泥に酔ひたる魚の小水に息つくに異ならず。
「さても、今日の合戦をつらつら案ずるに、勢の多少、兵の勝劣、天地各別なり。何事にかこれ程に念なく打ち負くべき。これ、只事に非ず。」と思ふに合はせて、その前の夜、武蔵五郎、河津左衛門と、少しも替はらず二人見たりける夢こそ不思議なれ。
所はいづくとも知らず渺々たる平野に、西には師直、師泰以下、高家の一族、その郎従、数万騎打ち集まつて、轡を並べて控へたり。東には錦小路禅門、石堂、畠山、上杉民部大輔、千余騎にて相向ふ。両陣、鬨を合はせて、その戦ひ未だ半ばならざる時、石堂、畠山が勢、旗を巻いて引き退く。師直、師泰、勝つに乗つて追つ駆くる処に、雲の上より錦の旗一流れ差し揚げて、勢の程百騎ばかり駆け出でたり。左右に分かれたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王権現、頭に角生ひて八つの足ある馬に召されたり。小守、勝手明神{*15}、金の鎧に鉄の楯を引きそばめて、馬の前後に従ひ給ふ。右は天王寺の聖徳太子、甲斐の黒駒に白鞍置いて召されたり。蘇我馬子大臣、甲冑を帯し、妹子大臣、跡見赤梼、秦河勝{*16}、弓箭を取つて真先に進む。師直、師泰以下の一族ども、太子の御勢を小勢と見て、中に取り篭めて討たんとするに、金剛蔵王、御目をいららげて{*17}、「あれ、射て落とせ。」と下知し給へば、小守、勝手、赤梼、河勝、四方に颯と走り散り、同時に引きて放つ矢、師直、師泰、武蔵五郎、越後将監{*18}が眉間の真中を徹して、馬よりさかさまに地を響かして落つると見て、夢は則ち醒めにけり。
朝にこの夢を語つて、「今日の軍、如何あらんずらん。」と危ぶみけるが、果たして軍に打ち負けぬ。「この後とても、かくては憑もしくも思はず。」と、聞く人、心に思はぬはなし。この夢の記録、吉野の寺僧、所持して、その隠れなきことなり。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇石堂右馬権頭 頼房。」「〇愛曽伊勢守 遠充。」「〇矢野遠江守 行泰。」とある。
2:底本は、「三月三日」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
3:底本は、「名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことわり)」。底本頭注に、「唯識論の文で名は本来自性の体を顕はす理。引尾と泣尾の名の忌はしいことを言ふ。」とある。
4:底本頭注に、「皆ながら。残らずすべて。」とある。
5:底本頭注に、「義依。」とある。
6:底本頭注に、「師直と師泰。」とある。
7:底本は、「湯山(ゆのやま)」。底本頭注に、「摂津国有馬の温泉のある山。」とある。
8:底本頭注に、「朝房。」とある。
9:底本頭注に、「〇平頚 馬の前足から頚に至る迄の間。」「〇草わき 馬の胸のあたり。」とある。
10:底本頭注に、「〇藤田小次郎 頼定。」「〇猪股弾正左衛門 行法。」とある。
11:底本は、「已上(いじやう)十六騎」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
12:底本は、「輪違(わちがひ)」。底本頭注に、「高家の紋。」とある。
13:底本頭注に、「重明。」とある。
14:底本は、「なりにければ、石堂(いしだう)畠山(はたけやま)が先懸(さきがけ)して」。『太平記 四』(1985年)に従いそれぞれ削除した。
15:底本頭注に、「吉野の鎮守。」とある。
16:底本は、「跡見赤梼(あとみのいちひ)、秦河勝(はたのかはかつ)、」。底本頭注に、「〇跡見赤梼 馬子に属して守屋を殺した人。」「〇秦河勝 聖徳太子の臣。」とある。
17:底本頭注に、「怒らして。」とある。
18:底本は、「越後(の)守将監(しやうげん)」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
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