松岡城あわての事
小清水の軍に打ち負けて、引き退く兵二万余騎、四方四町に足らぬ松岡城へ、我も我もとこみ入りけるほどに、沓の子{*1}を打つたるが如くにて、少しも働くべき様もなかりけり。「かくては叶ふまじ。宗徒の人々より外は、内へ入るべからず。」とて、人の郎従若党たる者は、皆そとへ追ひ出だして、四方の城戸を下したれば、元来、落ち心地のつきたる者ども、これに事名づけて、「憑み甲斐なき執事の有様かな。さては、誰がためにか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて、打ち連れ打ち連れ落ち行く。「今は定めて、路々に敵あつて落ち得じ。」と思ふ人は、或いは釣する海人に紛れて、破れたる簔を身に纏ひ、福良渡、淡路の迫門を船にて落つる人もあり。或いは草刈男に窶れつつ、竹の簣を肩にかけ、須磨の上野、生田の奥へ、はだしにて逃ぐる人もあり。運の傾く癖なれども、臆病神のつきたる人程、見苦しきものはなし。
夜、已に更けければ、さしもせき合ひつる城中、さび返つて{*2}、更に人ありとも見えざりけり。将軍、執事兄弟を召し近づけて宣ひけるは、「いふかひなき者どもが、唯、一軍に負けたればとて、落ち行く事こそ不思議なれ。さりとも饗庭命鶴{*3}、高橋、海老名六郎は、よも落ち去らじな。」と問ひ給へば、「それも早、落ちて候。」「長井治部少輔、佐竹加賀{*4}は、早落ちつるか。」「いや、それも皆、落ちて候。」「さては残る勢、幾程かある。」「今は御内の御勢、師直が郎従、赤松信濃守が勢、かれこれ五百騎に過ぎ候はじ。」と申せば、将軍、「さては世の中、今夜を限りござんなれ。面々にその用意あるべし。」とて、鎧をば脱いで押し除け、小具足ばかりになり給ふ。
これを見て、高武蔵守師直、越後守師泰、武蔵五郎師夏、越後将監師世、高豊前五郎{*5}、高備前守、遠江次郎、彦部、鹿目、河津以下高家の一族七人、宗徒の侍二十三人、十二間の客殿に二行に座を列ねて、各、諸天に焼香し、鎧直垂の上をば取つて投げ除け、袴ばかりに掛羅{*6}懸けて、「将軍御自害あらば、御供申さん。」と、腰の刀に手をかけて、静まり返つてぞ居たりける。
厩侍{*7}には、赤松信濃守範資、上座して、一族若党三十二人、膝を屈して並み居たりけるが、「いざや、最後の酒盛して、自害の思ひざし{*8}せん。」とて、大きなる酒樽に酒を湛へ、銚子に杯取り副へて、家城源十郎師政、酌をとる。信濃守次男信濃五郎直頼が、この年十三にてこの内にありけるを、父、呼び出だし、「鳥の将に死なんとする時、その鳴く事哀し。人の将に死なんとする時、その言ふ事善しといへり。吾が一言、汝が耳に留まらば、庭訓を忘れず身を慎しみて、先祖を恥ぢしむる事なかるべし。将軍、已に御自害あらんずる間、範資も御供申さんずるなり。日頃のよしみを思はば、家の子若党どもも皆、吾とともに力なく死に赴かんとぞ思ひ定めたるらん。但し、汝は未だ幼少なり。今、共に腹を切らずとも、人、あながちに指をさす事あるまじ。則祐、已に汝を猶子にすべき由、かねて約束ありしかば、赤松へ帰つて則祐を真の父と憑みて、生涯をその安否に任するか。然らずば又、僧法師にもなりて、吾が後生をも弔ひ、汝が身をも助かるべし。」と、泣く泣く庭訓を残して涙を押し拭へば、座中の人々、「実にも。」と、同じく涙を流しけり。
直頼、つくづくと父の遺訓を聞いて、扇取り直して申しけるは、「人の幼少のほどと申すは、五つや六つや乃至十歳に足らぬときにてこそ候へ。我、已に善悪を悟る程になつて、たまたまこの座に在り合はせながら、御自害を見捨てて一人故郷へ帰つては、誰をか父と憑み、誰にか面を向くべき。又、禅僧になつたらば、沙弥喝食に指をさされ、聖道になりたらば{*9}、児どもに笑はれずといふことあるべからず。たとひ又、如何なる果報あつて、後の栄花を開き候とも、おくれ参らせては、ながらふべき心地もせず。色代{*10}は時に依る事にて候。腹切の最期の杯にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先づ飲みて、思ひざし申さん。」とて、前なる杯を少し取り傾くる体にて、糟谷新左衛門尉保連にさし給へば、三度飲みて、糟谷新左衛門尉伊朝、奥次郎左衛門尉、岡本次郎左衛門{*11}、中山助五郎、次第に飲み下す。無明の酒の酔ひの中に、近づく命ぞ哀れなる。
師直師泰出家の事 附 薬師寺遁世の事
かかる処に、東の城戸を荒らかに敲く人あり。諸人、驚いて、「誰ぞ。」と問へば、夜部落ちたりと沙汰せし饗庭命鶴丸が声にて、「御合体になつて、合戦はあるまじきにて候ぞ。楚忽に御自害候な。」とぞ呼ばはりける。
「こは、そも何とある事ぞや。」とて、急ぎ城戸を開きたれば、命鶴、将軍の御前に参つて、「夜部、事のよしをも申さで罷り出で候ひしが{*12}、早、落ちたりとぞ思し召し候ひつらん。御方の軍勢の、気を失ひ色を損じたる体を見候ひしに、かくては戦ふとも勝ちがたし、落つとも延びさせたまはじとおぼえ候ひつる間、畠山阿波将監が陣へ罷り向ひ候て、御合体のよしを申して候へば、『錦小路殿も、ただくれぐれその事をのみこそ仰せ候へ。執事兄弟の不義も、ただ一往思ひ知らするまでにて候へば、執心深く誅伐せらるるまでの儀も候まじ。親にも超えてむつまじきは、同気兄弟の愛なり。子にも劣らずなつかしきは、多年主従のよしみなり。禽獣もみな、その心あり。況んや人倫に於いてをや。たとひ合戦に及ぶとも、情なき沙汰を致すなと、八幡より賜はりて候御文、数通候。』とて、取り出だして見せられ候ひつる。」と、命鶴、委細に申しければ、将軍も執事兄弟も、「さては、仔細あらじ。」とて、その夜の自害は留まりてけり。
「さても三條殿は、御兄弟の御事なれば、将軍をこそ憎しと思し召さずとも、師直、去年の振舞をば、尚も憎しと思し召さぬ事、あるべからず。実にも、頭を延べて参るくらゐならば、出家をして参るか、然らずんば将軍を赤松の城へ遣り参らせて、師直は四国へや落つる。」と評定ありけるを、薬師寺次郎左衛門公義、「など、かやうに力なき事をば仰せ候ぞ。六條判官為義が、己が咎を謝せんために入道になつて出で候ひしをば、義朝、子の身としてだにも首を刎ね候ひしぞかし。たとひ御出家候て、如何なる持戒持律の僧とならせ給ひて候とも、三條殿の御心もやすまり、上杉、畠山の一族達も憤りを散じ候べしとはおぼえ候はず。剃髪の骸、墨染の衣の袖に血を注ぎて、憂き名を後代に残し候はんこと、唯口惜しかるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城へ入れ参らせて、師直を四国へ落とさばやと承り候事も、すべて然るべしともおぼえ候はず。細川陸奥守も、三條殿の召しに依つて、大勢、早、三石に著きて候と聞こえ候へば、将軍こそ摂州の軍に負けて、赤松へ引かせ給ふと聞いて、討ち止め奉らんと思はぬことや候べき。又、四国へ落ちさせ給はん事も叶ふべからず。用意の船も候はで、ここかしこの浦々にて渡海の順風を待つて御渡り候はんに、敵、追つ懸けて寄せ候はば、誰か矢の一つをもはかばかしく射出だす人候べき。
「御方の兵どもの有様は、昨日の軍に曇りなく見透かされ候ものを、人に剛臆なく、気に進退ありと申す事候間、人の心の習ひ、敵に打ち懸からんとする時は心武くなり、一足も引くとなれば、心臆病になるものにて候。ただ御方の勢の未だすかぬ前に、ひたすら討死と思し召し定めて、一度敵に懸かりて御覧候より外は、余議あるべしともおぼえ候はず。」と、詞を残さで申しけれども、執事兄弟、只朦々としたるばかりにて、降参出家の議に落居しければ、公義、涙をはらはらと{*13}流して、「『ああ、豎子、共に謀るに堪へず。』と范増がいひけるも、ことわりかな。運尽きぬる人の有様程、あさましきものはなかりけり。我、この人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ、憂世を捨てて、この人々の後生を弔はんには。」と俄に思ひ定めて、
とればうし取らねば人の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり
と、かやうに詠じつつ、自ら髻おしきりて、墨染に身を替へて、高野山へぞ上りける。
「三間の茅屋、千株の松風、殊に人間の外の天地なりけり。」と心もすみ、身も安くおぼえければ、
高野山うき世の夢もさめぬべしそのあかつきをまつのあらしに
と詠みて、暫しは閑居幽隠の人とぞなりたりける。
仏種は縁より起こる事なれば、かやうについでを以て浮世を思ひ捨てたるは、やさしく優なる様なれども、越後中太が義仲を諌めかねて自害をしたりしには、無下に劣りてぞおぼえたる。
校訂者注
1:底本は、「沓(くつ)の子」。底本頭注に、「沓底にうつた鋲。」とある。
2:底本頭注に、「静まりかへつて。」とある。
3:底本は、「饗庭命鶴(あへばみやうづる)」。底本頭注に、「氏直。」とある。
4:底本頭注に、「利氏。」とある。
5:底本頭注に、「師友。師直の子。」とある。
6:底本は、「掛羅(くわら)」。底本頭注に、「禅家の袈裟。」とある。
7:底本は、「厩侍(うまやさぶらひ)」。底本頭注に、「遠侍の如く諸子の控へ居る室。」とある。
8:底本頭注に、「心に願ふ所があつて、特別にある人を名ざして杯を差すこと。」とある。
9:底本頭注に、「天台真言などの僧になるならば。」とある。
10:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
11:底本頭注に、「〇次郎左衛門尉 重次。」「〇岡本次郎左衛門 重久。」とある。
12:底本は、「罷(まか)り出(い)で候ひしかば、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
13:底本は、「はら(二字以上の繰り返し記号)流して、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
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