師冬自害の事 附 諏訪五郎が事

 高播磨守は、師直が猶子なりしを、将軍の三男左馬頭殿の執事になして、鎌倉へ下りしかば、上杉民部大輔と相共に東国の管領にて、勢ひ八箇国に振へり。「西国こそかやうに師直を背く者多くとも、東国はよも仔細あらじ。事の真に難儀ならば、兵庫より船に乗つて鎌倉へ下りて、師冬と一つにならん。」と執事兄弟{*1}、ひそかに評定せられける処に、二十五日の夜半ばかりに、甲斐国より時衆一人来つて、忍びやかに、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子に左衛門蔵人、父が代官にて上野の守護にて候ひしが、謀叛を起こして高倉殿方を仕るよし聞こえしかば、父民部大輔、これを誅伐せんために下向の由を称して、上野に下著して、則ち左衛門蔵人と同心して、武蔵国へ打ち越え、坂東の八平氏、武蔵の七党を附け従ふ。
 「播州師冬、これを聞かれ候て、八箇国の勢を催さるるに、更に一騎も馳せ寄らず。『かくては叶ふまじ。さらば、左馬頭殿を先立て参らせて、上杉を退治せん。』とて、僅かに五百騎を率して上野へ発向候ひし路次にて、さりとも弐心あらじと憑み切つたる兵ども心変りして、左馬頭殿を奪ひ奉る間、左馬頭殿の御後見三戸七郎{*2}は、その夜、同士討ちせられて半死半生に候ひしが、行方を知らずなり候ひぬ。これより、上杉にはいよいよ勢加はり、播州師冬には附き随ふ者候はざりし間、『一歩も落ちてこなたの様をも聞かばや。』とて、甲斐国へ落ちて、洲沢城に篭られ候ところに、諏訪下宮祝部、六千余騎にて打ち寄せ、三日三夜の合戦に、敵御方の手負討死、その数を知らず。
 「敵皆、大手へ向ふにより、城中の勢、大略大手におり下つて防ぎ戦ふ隙を得て、山の案内者、うしろへ廻つてかさより落とし懸かる間、八代某、一足も引かず討死仕り、城、已に落ちんとし候時、御烏帽子子に候ひし諏訪五郎{*3}、初めは祝部に属して城を攻め候ひしが、城の弱りたるを見て、『そもそも我、執事の烏帽子子にて、父子の契約を致しながら、世こぞつて背けばとて、不義の振舞をば如何か致すべき。曽参は車を勝母の郷に返し、孔子は渇を盜泉の水に忍ぶといへり。君子はそれ、せざる処に於いて、名をだにも恐る。況んや義の違ふところに於いてをや。』とて、祝部に最後の暇乞うて城中へ入り、かへつて寄せ手を防ぐ事、身命を惜しまず。
 「さる程に、城の後ろより破れて、敵、四方より込み入りしかば、諏訪五郎と播州とは、手に手を取り違へ、腹掻き切つて伏し給ふ。この外、義を重んじ名を惜しむ侍ども六十四人、同時に皆自害して、名を九原{*4}の上の苔に残し、骸を一戦の場の土に曝さる。その後は東国北国、残りなく高倉殿の御方へなつて候。世は、今はさてとこそ見えて候へ。」と、泣く泣く執事にぞ語られける。
 「筑紫九国は、兵衛佐殿に従ひ附きぬと聞こゆ。四国は細川陸奥守に属して、既に須磨の大蔵谷のほとりまで寄せたりと告げたり。今は東国をこそ、さりともと憑みたれば、師冬さへ討たれにけり。さては、いづくへか落ち、誰をか憑むべき。」とて、さしも勇みし人々の気色、皆心細くぞ見えたりける。命はよく棄て難きものなりけり。執事兄弟、かくても、「もし命や助かる。」と、心も起こらぬ出家して、師直入道道常、師泰入道道勝とて、裳なし衣に提鞘{*5}さげて、降人になつて出でければ、見る人ごとに爪弾きして、「出家の功徳莫大なれば、後生の罪は免るとも、今生の命は助かり難し。」と、欺かぬ{*6}人はなかりけり。

師直以下誅せらるる事 附 仁義血気勇者の事

 同じき二十六日に、将軍、已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、おなじく遁世者に打ち紛れて、無常のちまたに鞭をうつ。折節、春雨しめやかに降りて、数万の敵ここかしこに控へたる中を打ち通れば、それよと人に見知られじと、蓮の葉笠{*7}を打ちかたぶけ、袖にて顔を引き隠せども、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀れなれ。
 将軍に離れ奉りては、道にても如何なる事かあらんずらんと危ぶみて、少しもさがらず、馬を早めて打ちけるを、上杉、畠山の兵ども、かねて議したる事なれば、路の両方に百騎二百騎五十騎三十騎、処々に控へて待ちける者ども、「すはや、執事よ。」と見てければ、将軍と執事とのあはひを次第に隔てんと、鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、馬を中へ打ちこみ打ちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、武庫川のほとりを過ぎける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔て山を隔てて、五十町ばかりになりにけり。
 哀れなるかな、盛衰、刹那の間に替はれること。修羅、帝釈の軍に負けて、藕花{*8}の穴に身を隠し、天人の、五衰の日に逢ひて歓喜苑にさまよふらんも、かくやと思ひ知られたり。この人、天下の執事にてありつる程は、如何なる大名高家も、その笑める顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが{*9}如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負ひて焼原を過ぎ、雷を戴いて大江を渡るが如く恐れき。いかに況んや、将軍と打ち並べて馬を進め給はんずるその中へ、誰か隔て先立つ人あるべきに、名も知らぬ田舎武士、云ふばかりなき人の若党どもに押し隔てられ押し隔てられ、馬さくりの水{*10}を蹴懸けられて、衣、深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止むときなく、涙や袖をぬらすらん。
 執事兄弟、武庫川を打ち渡つて、小堤の上を過ぎける時、三浦八郎左衛門{*11}が中間二人、走り寄つて、「これなる遁世者の顔を蔵すは、何者ぞ。その笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引き切つて捨つるに、頬冠りはづれて片顔の少し見えたるを、三浦八郎左衛門、「あはれ、敵や。願ふ所の幸ひかな。」と悦びて、長刀の柄をとり延べて、胴中を切つて落とさんと、右の肩先より左の小脇まで、鋒さがりに切り附けられて、「あつ。」といふ処を、重ねて二打ちうつ。打たれて馬よりどうと落ちければ、三浦、馬より飛んで下り、首を掻き落として、長刀の鋒に貫いて差し上げたり。
 越後入道は、半町ばかり隔たりて打ちけるが、これを見て、馬を駆け退けんとしけるを、後に打ちける吉江小四郎{*12}、槍を以て背骨より左の乳の下へ突き徹す。突かれて槍に取り附き、懐に差したる打ち刀{*13}を抜かんとしける処に、吉江が中間走り寄り、鐙の鼻を返して引き落とす。落つれば首を掻き切つて、あぎとを喉へ貫き、とつ附けに著けて馳せて行く。高豊前五郎をば、小柴新左衛門、これを討つ。高備前守をば、井野弥四郎{*14}、組んで落ちて首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎、先づ馬の諸膝切つて、落つる所を二太刀うつ。打たれて少し弱る時、押さへてやがて首を斬る。
 遠江次郎をば、小田左衛門五郎{*15}、斬つて落とす。山口入道をば、小林又次郎{*16}、引き組んで刺し殺す。彦部七郎をば、小林掃部助、後ろより太刀にて切りけるに、太刀影に馬驚いて、深田の中へ落ちにけり。彦部、引き返して、「御方はなきか。一所に馳せ寄つて、思ひ思ひに討死せよ。」と呼ばはりけるを、小林が中間三人、走り寄りて、馬よりさかさまに引き落とし、踏まへて首を斬つて、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば、佐々宇六郎左衛門{*17}、これを討つ。山口新左衛門をば、高山又次郎{*18}、斬つて落とす。梶原孫七は、十余町前に打ちけるが、「後に軍あつて、執事の討たれぬるや。」と人のいひけるを聞きて、取つて返して打ち刀を抜いて戦ひけるが、自害を半ばにしかけて、路の傍らに伏したりけるを、阿佐美三郎左衛門{*19}、年頃の知音なりけるが、人手にかけんよりはとて、泣く泣く首を取りてけり。
 鹿目平次左衛門{*20}は、山口が討たるるを見て、身の上とや思ひけん、後なる長尾三郎左衛門に抜いてかかりけるを、長尾、少しも騒がず、「御事の身の上にては候はぬものを、僻事し出だして、命失はせ給ふな。」といはれて、をめをめと太刀を差して、物語して行きけるを、長尾、中間にきつと目くばせしたれば、中間二人、鹿目が馬にひつそうて、「御馬の沓、切つて捨て候はん。」とて、抜いたる刀を取り直し、肘のかかりを二刀刺して、馬より取つて引き落とし、主に首をばかかせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負ひたりける間、馬には乗り得ずして、塵取{*21}にかかれて遥かの後に来けるが、「執事こそ已に討たれさせ給ひつれ。」と人のいふを聞きて、とある辻堂のありけるに輿舁き据ゑさせ、腹掻き切つて死ににけり。
 執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎{*22}、これを生け捕つて、高手小手にいましめて、その日の暮るるをぞ相待ちける。この人は、二條前関白太政大臣の御妹、やんごとなき御腹に生まれたりしかば、みめかたち人に勝れ、心様、優にやさしかりき。されば、将軍も御おぼえ他に異に、世の人ときめき合へる事、限りなし。才あるも才なきもその子を悲しむは、人の父たる習ひなり。況んや最愛の子なりしかば、「塵をも足に踏せまじ。荒き風にもあてじ。」とて、あつかひいつきかしづきしに、いつの間に尽き果てたる果報ぞや。年未だ十五に満たず、荒き武士に生け捕られて、暮るるを待つ間の露の命、消えん事こそ哀れなれ。
 夜に入りければ、いましめたる縄をときゆるして、已に斬らんとしけるが、この人の心の程を見んとて、「命惜しく候はば、今夜、速やかに髻を切つて、僧か念仏衆かにならせ給ひて、一期心安く暮らさせ給へ。」と申しければ、先づその返事をばせで、「執事は何とならせ給ひて候とか聞こえ候。」と問ひければ、西左衛門四郎、「執事は早、討たれさせ給ひて候なり。」と答ふ。「さては、誰がために暫しの命をも惜しみ候べき。死出の山、三途の大河とかやをも、共に渡らばやと存じ候へば、ただ急ぎ首を召され候へ。」と、死を請うて敷皮の上に居直れば、斬り手、涙を流して、暫しは目をももたげず、後ろに立ちて泣き居たり。かくて、さてあるべきにあらねば、西に向ひ念仏十遍ばかり唱へて、遂に首を打ち落とす。
 小清水の合戦の後、執事方の兵ども十方に分散して、残る人なしといひながら、今朝松岡城を打ち出づるまでは、まさしく六、七百騎もありと見えしに、この人々の討たるるを見て、いづちへか逃げ隠れけん、今討たるる処十四人の外は、その中間下部に至るまで、一人もなくなりにけり。十四人と申すも、日頃皆、度々の合戦に名を揚げ力を逞しくしたる者どもなり。たとひ運命尽きなば、始終こそ叶はずとも、心を同じうして戦はば、などか分々の敵に合つて死せざるべきに、一人も敵に太刀を打ち著けたる者なくして、斬つては落とされ押さへては首を掻かれ、無代に皆討たれつる事、天の責めとは知りながら、うたてかりける不覚かな。
 それ兵は、仁義の勇者{*23}、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申すは、合戦に臨むごとに勇み進んで臂を張り、強きを破り堅きを砕く事、鬼の如く忿神の如く速やかなり。然れどもこの人、もし敵のために利を以て含め、御方の勢を失ふ日は、遁るるに便りあれば、或いは降人になつて恥を忘れ、或いは心も起こらぬ世を背く。かくの如くなるは、則ちこれ、血気の勇者なり。仁義の勇者と申すは、必ずしも人と先を争ひ、敵を見て勇むに高声多言にして、勢ひを振ひ臂を張らざれども、一度約をなして憑まれぬる後は、弐心を存せず心を変ぜずして、大節に臨み志を奪はれず、傾く所に命を軽んず。かくの如くなるは、則ち仁義の勇者なり。
 今の世、聖人去つて久しく、梟悪に染まる事多ければ、仁義の勇者は少なし、血気の勇者はこれ多し。されば、異朝には漢楚七十度の戦ひ、日本には源平三箇年の軍に、勝負互にかはりしかども、誰か二度と降人に出でたる人ありし。今、元弘以後、君と臣との争ひに、世の変ずる事、僅かに両度に過ぎざるに、天下の人、五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に、天下の争ひ止む時なくして、合戦、雌雄未だ決せず。これを以て今、師直、師泰が兵どもの有様を見るに、日頃の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずば、などかこの時に千騎二千騎も討死して、後代の名を揚げざらん。「仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも{*24}仁あらず。」と文宣王{*25}の聖言、「実にも。」と思ひ知られたり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「師直と師泰。」とある。
 2:底本頭注に、「氏鎮。」とある。
 3:底本頭注に、「真親。」とある。
 4:底本は、「九原(きうげん)」。底本頭注に、「墓場。」とある。
 5:底本は、「提鞘(さげざや)」。底本頭注に、「剃髪者の帯するもので形は守刀の如く柄も鞘も木で作る。下鞘とも書く。」とある。
 6:底本頭注に、「あざけらぬ。」とある。
 7:底本頭注に、「蓮の葉の如く二つに折れた笠。」とある。
 8:底本は、「藕花(ぐうけ)の穴」。底本頭注に、「蓮の茎の穴。」とある。
 9:底本は、「得たる如く」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 10:底本頭注に、「馬蹄の跳ねとばす水。」とある。
 11:底本頭注に、「澄知。」とある。
 12:底本頭注に、「時宣。」とある。
 13:底本頭注に、「後世の武士が用ゐた大小の大なる方の刀を云ふ。」とある。
 14:底本頭注に、「幸成。」とある。
 15:底本頭注に、「惟則。」とある。
 16:底本頭注に、「〇山口入道 俗名は師茂。師直の弟。」「〇小林又次郎 教房。」とある。
 17:底本頭注に、「久元。」とある。
 18:底本頭注に、「子経。」とある。
 19:底本頭注に、「助久。」とある。
 20:底本頭注に、「直方。」とある。
 21:底本は、「塵取(ちりとり)」。底本頭注に、「軽便な一種の乗物の名。」とある。
 22:底本頭注に、「則基。」とある。
 23:底本頭注に、「孟子巻三に見ゆ。」とある。
 24:底本は、「必ず仁あらずと、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 25:底本頭注に、「孔子。」とある。