巻第三十
将軍御兄弟和睦の事 附 天狗勢ぞろへの事
志、合するときは、胡越も地を隔てず。況んや同じく父母の懐抱を出でて浮沈を共にし、一日も咫尺を離れざるは、連枝兄弟の御中なり。一旦、師直、師泰等が不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉を離るる心あるべきとて、将軍と高倉殿と御合体ありければ、将軍は播磨より上洛し、宰相中将義詮は丹波の岩屋より上洛し、錦小路殿{*1}は八幡より入洛し給ふ。三人、やがて会合し給ひて、一献の礼ありけれども、この間の確執、さすが傍らいたき心地して、互の詞少なく無興気にてぞ帰られける。
高倉殿は、元来、仁者の行ひを仮つて、世の譏りを憚る人なりければ、いつしかやがて天下の政を執つて威を振ふべきその機を出だされねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日頃に勝れて、その被官の族、事に触れて気色は増さらず{*2}といふ事なし。車馬門前に立ち列なつて、出入、身をそばめ、賓客堂上に群集して、揖譲、礼を慎しめり。
かくの如くめでたき事のみある中に、高倉殿最愛の一子、今年四つになり給ひけるが、今月二十六日、俄に失せ給ひければ、母儀を始め奉り、上下万人、泣き悲しむ事限りなし。
さても西国東国の合戦、割り符を合はせたるが如く同時に起こつて、師直、師泰兄弟父子の首、皆京都に上りければ、等持寺の長老旨別源、葬礼を取り営みて、下火{*3}の仏事をし給ひけるに、
{*k}昨夜春園風雨荒し 枝に和して吹き落とす棠棣の花{*4}{*k}
といふ句のありけるを聞きて、皆人、感涙をぞ流しける。この二十余年、執事の被官に身を寄せて、恩顧に誇る人、幾千万ぞ。昨日まで烏帽子の折り様、衣紋のため様をまねて、「これこそ執事の内の人よ。」とて、世に重んぜられん事を求めしに、今日はいつしか引き替へて、かたちを窶し面をそばめて、「すはや、御敵方のものよ。」とて、人に知られん事を恐懼す。「用ゐる時は則ち鼠も虎となり、用ゐざるときは{*5}則ち虎も鼠となる。」といひ置きし東方朔が虎鼠の論、誠に当たれる一言なり。
将軍兄弟こそ、誠に繊芥の隔てもなく、和睦にて所存もなくおはしけれ、その門葉にあつて附鳳の勢ひを貪つて、攀竜の望みを期する族は、人の時を得たるを見ては猜み、己が威を失へるを顧みては憤りを含まずといふ事なし。されば、石堂、上杉、桃井は、様々の讒を構へて、「将軍に附き従ひ奉る人々を失はばや。」と思ひ、仁木、細川、土岐、佐々木は、種々の謀りごとを巡らして、「錦小路殿に、又人もなげに振舞ふ者どもを滅ぼさばや。」とぞ巧みける。
天魔波旬は、かかる所を伺ふものなれば、如何なる天狗どものわざにてかありけん、夜にだに入りければ、いづくより馳せ寄るとも知らぬ兵ども、五百騎三百騎、鹿谷、北白川、阿弥陀峯、紫野の辺に集まつて、勢ぞろへをする事、度々に及ぶ。これを聞きて、将軍方の人は、「あはや、高倉殿より寄せらるるは。」とて肝をひやし、高倉殿方の人は、「いかさま、将軍より討手を向けらるるは。」とて用心を致す。禍ひ、利欲より起こつて止むことを得ざれば、終に己が分国へ下つて本意を達せんとや思ひけん、仁木左京大夫頼章は、病ひと称して有馬の湯へ下る。舎弟の右馬権助義長は、伊勢へ下る。細川刑部大輔頼春は、讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道道誉は、近江へ下る。赤松筑前守貞範、甥の弥次郎師範、舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃げ下る。土岐刑部少輔頼康は、憚る気色もなく白昼に都を立つて、三百余騎、ひたすら合戦の用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、初めより上洛せで赤松に居たりけるが、「吉野殿より、故兵部卿親王の若宮を大将に申し下し参らせて、西国の成敗を司つて、近国の勢を集めて、吉野、戸津川、和田、楠と牒じ合はせ、已に都へ攻め上らばや。」なんど聞こえければ、「又、天下三つに分かれて、合戦止む時あらじ。」と、世の人、安き心もなかりけり。
高倉殿京都退去の事 附 殷の紂王の事
同じき七月晦日、石堂入道{*6}、桃井右馬権頭直常二人、高倉殿へまゐつて申しけるは、「仁木、細川、土岐、佐々木、皆己が国々へ逃げ下つて、謀叛を起こし候なる。これも、いかさま、将軍の御意を請け候か、宰相中将殿{*7}の御教書を以て、勢を催すかにてぞ候らん。又、赤松律師が大塔若宮を申し下して宮方を仕ると聞こえ候も、実は事を宮方に寄せ、勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存じ候らん。御勢も少なく、御用心も無沙汰にて都におはしまし候はん事、如何とこそ存じ候へ。ただ今夜、夜の紛れに、篠峯越えに北国の方へ御下り候て、木目、荒血の中山を差し塞がれ候はば、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介{*8}、能登に吉見、信濃に諏訪下宮祝部、みな無弐の御方にて候へば、この国々へは如何なる敵か足をも踏み入れ候べき。甲斐国と越中とは、我等が已に分国として、相交じはる敵候はねば、かたがた以て心安かるべきにて候。先づ北国へ御下り候て、東国西国へ御教書を成し下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、また余儀もなく申しければ、禅門{*9}、少しの思案もなく、「さらば、やがて下るべし。」とて、取る物もとりあへず、御前にあり合うたる人々ばかりを召し具して、七月晦日の夜半ばかりに、篠峯越えに落ち給ふ。騒がしかりし有様なり。
これを聞きて、御内の者は申すに及ばず、外様の大名、国々の守護、四十八箇所の篝{*10}三百余人、在京人、畿内近国、四国九州よりこの間上り集まりたる軍勢ども、我も我もと後を追つて落ち行きけるほどに、今は公家被官の者より外、京中に人ありとも更に見えざりけり。
夜明けければ、宰相中将殿、将軍の御屋形へ参られて、「今夜、京中のひしめき、只事に非ずとおぼえて候。落ち行きける{*11}兵ども、大勢にて候なれば、もし立ち帰つて寄する事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍、ちつとも騒ぎ給はず。「運は天にあり。何の用心かすべき。」とて、褒貶の短冊取り出だし、心閑かに詠吟し、打ち嘯いてぞおはしける。
高倉殿、已に越前の敦賀津にましまして、著到をつけられけるに、初めは一万三千余騎ありけるが、勢、日々に加はつて、六万余騎と註せり。この時、もしこの大勢を率して京都へ寄せたらましかば、将軍も宰相中将殿も、戦ふまでもおはしまさじを、そぞろなる長僉議、道も立たぬなま才学に時移りて、数日をいたづらに過ぎにけり。
そもそもこれは、誰が意見に依つて、高倉殿はかやうに兄弟叔父甥の間、合戦をしながら、さすが無道を誅して世を鎮めなんとする所を計らひたまふと尋ぬれば、禅律の奉行にて召し仕はれける南家{*12}の儒者、藤原少納言有範が、よりより申しける議を用ゐ{*13}給ひける故とぞ承る。「さる程に、昔、殷の帝武乙と申しし王の、位に即きて悪を好むこと頻りなり。『我、天子として一天四海を掌に握るといへども、猶日月の明暗を心に任せず、雨風の荒く激しき事を止め得ぬこそ安からね。』とて、如何にもして天を亡ぼさばやとぞ巧まれける。先づ木を以て人を作つて、これを天神と名づけて、帝自らこれと博奕をなす。神、真の神ならず、人代はつて賽を打ち石を使ふ博奕なれば、帝、などか勝ち給はざらん。勝ち給へば、天負けたりとて、木にて作れる神の形を、手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪して獄門にこれを曝しけり。又、革を以て人を作つて血を入れて、これを高き木の梢に懸け、天を射ると号して射るに、血出でて地に注ぐ事、おびただし。かやうの悪行、身に余りければ、帝武乙、河渭に猟せし時、俄に雷落ち懸かりて、御身をずたずたに引き裂きてぞ捨てたりける。
「その後、御孫の小子、帝位に即き給ふ。これを殷の紂王とぞ申しける。紂王、人となり給ひて後、智は諌めを拒み、是非の端を飾るに足れり。勇は人に過ぎて、手づから猛獣をとり拉ぐに難しとせず。人臣に矜るに能を以てし、天下に高ぶるに声を以てせしかば、人皆、己が下より出でたりとて、諌諍の臣をも置かれず、先王の法にも従はず。妲妃といふ美人を愛して、万事唯、これが申すままに附き給ひしかば、罪なくして死を賜ふ者多く、唯、積悪のみあり。
「鉅鹿といふ郷に周り三十里の倉を作りて米穀を積み余し、朝歌といふ所に高さ二十丈の台を立てて銭貨を積み満てり。又、沙丘に廻り一千里の苑台を造りて、酒を湛へて池とし、肉を懸けて林とす。その中に若く清らかなる男三百人、みめかたち勝れたる女三百人を裸になして、相追つて婚姻をなさしむ。酒の池には竜頭鷁首の舟を浮かべて、長時に酔ひをなし、肉の林には北里の舞、新婬の楽を奏して、不退の楽しみを尽くす。天上の婬楽快楽も、これには及ばじとぞ見えたりける。
「或る時、后妲妃、南庭の花の夕ばえを眺めて、寂寞として立ち給ふ。紂王、見るに耐へずして、『何事か御心に叶はぬ事の侍る。』と問ひ給へば、妲妃、『あはれ、炮烙の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。』と宣ひければ、紂王、『易き程の事なり。』とて、やがて南庭に炮烙を建てて、后の見物にぞなされける。それ炮烙の法と申すは、五丈の銅の柱を二本東西に立てて、上に鉄の縄を張りて、下に炭火をおき、鑊湯炉壇の如くにおこして、罪人の背に石を負はせ、官人戈を取つて罪人を柱の上に責め上せ、鉄の縄を渡る時、罪人、気力疲れて炉壇の中に落ち入り、灰燼となつて焦がれ死ぬ。焦熱大焦熱の苦患を移せる形なれば、炮烙の法とは名づけたり。后、これを見給ひて、類なき事に興じ給ひければ、野人村老、日毎に子を殺され親を失ひて、泣き悲しむ声、止む時なし。
「この時、周の文王、未だ西伯にておはしけるが、ひそかにこれを見て、『人の悲しみ世の謗り、天下の乱れとなりぬ。』と歎き給ひけるを、崇侯虎といひける者聞きて、殷の紂王にぞ告げたりける。紂王、大きに怒つて、即ち西伯を捕らへて羑里の獄舎に押し篭め奉る。西伯が臣に閎夭といひける人、沙金三千両、大宛の馬百匹、嬋娟幽艶なる女百人をそろへて紂王に奉りて、西伯の捕らはれを乞ひ受けければ、元来、色に婬し宝を好む事、後の禍ひをも顧みず、この一つを以ても西伯を許すに足んぬべし、況んやその多きをやと、心飽くまで悦びて、則ち西伯をぞ許しける。
「西伯、故郷に帰つて、我が命の生きたる事をばさしも悦び給はず。唯、炮烙の罪に逢つて、咎なき人民どもが毎日毎夜に十人二十人焼き殺さるる事を、我が身に当たれる苦しみの如く、哀れに悲しく思しければ、洛西の地三百里を紂王の后に献じて、炮烙の刑を止められん事をぞ請はれける。后も同じく欲に染む心深くおはしければ、則ち洛西の地に替へて、炮烙の刑を止めらる。あまつさへ、感悦猶これにも足らざりけるにや、西伯に弓矢斧鉞を賜はつて、天下の権を執り、武を治めける官を授け給ひければ、唯、竜の水を得て雲上に上がるに異ならず。
「その後西伯、渭浜の北に狩せんとし給ひけるに、史編といひける人、占ひて申しけるは、『今日の獲物は、熊にあらず、羆にあらず。天、君に師を与ふべし。』とぞ占ひける。西伯、大きに悦んで、潔斎し給ふ事七日、渭水の北に出でて見給ふに、太公望が半簔の煙雨、水すさまじくして、釣を垂るること、人に替はれるあり。「これ則ち、史編が占ふ所なり。」とて、車の右に乗せて帰り給ふ。則ち、武宣王と仰ぎて、文王、これを師とし仕ふる事、おろそかならず。遂に太公望が謀りごとに依つて、西伯、徳を行ひしかば、その子武王の世に当たつて、天下の人みな、殷を背いて周に帰せしかば、武王、遂に天下を執つて、子孫永く八百余年を保ちにき。
「古の事を{*14}引いて今の世を見候に、唯、羽林相公の淫乱、すこぶる殷の紂王の無道に相似たり。君、仁を行はせ給ひてこれを亡ぼされんに、何の仔細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比し、我が身をば太公望になぞらへて、折節につけて申しけるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて、禅門の行跡、泰伯が有徳の甥文王に譲りし仁にも非ず。又、周公の無道の兄管叔を討ぜし義にもあらず。権道、覇業、二つながら欠けたる人とぞ見えたりける。
校訂者注
1:底本頭注に、「高倉殿とも三條殿とも云ひ、何れも足利直義の事。」とある。
2:底本は、「増さず」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
3:底本は、「下火(あご)」。底本頭注に、「火葬の際に火をかけること。」とある。
4:底本頭注に、「詩経に『棠棣之華不韡々。』此の花は両々相背いて咲き後には合するので兄弟各別のやうだが遂には一体となるのに比して云ふ。」とある。
5:底本は、「用ふる時は鼠も虎と為り、用ひざるときは」。
6:底本頭注に、「俗名は義房。頼茂の子。」とある。
7:底本頭注に、「義詮。」とある。
8:底本頭注に、「名は高家。」とある。
9:底本頭注に、「仏門に入つた男子の称。こゝは直義を指す。」とある。
10:底本頭注に、「篝は辻々の警衛に設備された兵。」とある。
11:底本は、「落ち行(ゆ)きたる兵共」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
12:底本は、「南家(なんけ)」。底本頭注に、「藤原武智丸の後裔を云ふ。」とある。
13:底本は、「用(もち)ひ給ひける」。
14:底本は、「事引いて」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
k:底本、この間は漢文。
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