直義追罰の宣旨御使の事 附 鴨社鳴動の事

 同じき八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿、高倉入道左兵衛督{*1}追討の宣旨を賜はりて、近江国に下著して鏡宿に陣を取る。都を立たるる時までは、その勢僅かに三百騎にも足らざりけるが、佐々木佐渡判官入道道誉、子息近江守秀綱は、当国勢三千余騎を率して馳せ参る。仁木右馬権頭義長は、伊賀伊勢の兵四千余騎を率して馳せ参る。土岐刑部少輔頼康は、美濃国の勢二千余騎を率して馳せ参りける間、その勢、程なく一万余騎に及ぶ。今は如何なる大敵に戦ふとも、勢の不足とは見えざりけり。
 さる程に、高倉入道左兵衛督、石堂、畠山、桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差し副へ、同じき九月七日、近江国へ打ち出で、八相山に陣を取る。両陣、堅く守つてその戦ひを決せず。その日の未の刻に、「都には、鴨の糺の神殿、鳴動する事やや久しうして、流鏑矢二筋、天を鳴り響かし、艮の方をさして去りぬ。」とぞ奏聞しける。「これは、いかさま、将軍兄弟の合戦に吉凶を示さるる怪異にてぞあるらん。」と諸人、推量しけるが、果たして翌日の午の刻に、佐々木佐渡判官入道が手の者どもに多賀将監と、秋山新蔵人と楚忽の合戦し出だして、秋山討たれにければ、桃井、大きに怒つて、重ねて戦ふべきよしを申しけれども、自余の大将に異議あつて、結句、越前国へ引き返す。その後、畠山阿波将監国清、頻りに、「御兄弟、唯御中なほり候て、天下の政務を宰相殿{*2}に持たせ参らせられ候へかし。」と申しけるを、禅門、許容したまはざりければ、国清、大きに怒つて、己が勢七百余騎を引き分けて、将軍へぞ参りける。
 この外、縁を尋ねて降人になり、五騎十騎打ち連れ打ち連れ将軍方へと参りける間、「かくては越前におはしまし候はん事は叶はじ。」と、桃井、頻りに勧め申されければ、十月八日、高倉禅門、又越前を立ちて、北陸道を打ち通り、鎌倉へぞ下り給ひける。

薩埵山合戦の事

 将軍は、八相山の合戦に打ち勝つて、やがて上洛し給ひけるを、十月十三日、又直義入道誅罰すべきのよし、重ねて宣旨をなされければ、翌日、やがて都を立ちて鎌倉へ下り給ふ。「ひたすらに洛中に勢を残さざらんも、南方の敵に隙を窺はれつべし。」とて、宰相中将義詮朝臣をば、都の守護にぞ留められける。
 将軍、已に駿河国に著き給ひけれども、遠江より東、東国北国の勢ども早、悉く高倉殿へ馳せ附いてければ、将軍へは、はかばかしき勢も参らず。「かくて左右なく鎌倉へ寄せん事、叶ひ難し。先づ暫く要害に陣を取つてこそ勢をも催さめ。」とて、十一月晦日、駿河薩埵山に{*3}打ち上り、東北に陣を張りたまふ。相従ふ兵には、仁木左京大夫頼章、舎弟越後守{*4}義長、畠山阿波守国清兄弟四人、今川五郎入道心省、子息伊予守{*5}、武田陸奥守、千葉介、長井兄弟、二階堂信濃入道、同山城判官、その勢僅かに三千余騎には過ぎざりけり。
 さる程に将軍、已に薩埵山に陣を取つて、宇都宮が馳せ参るを待ち給ふ由、聞こえければ、高倉殿、「先づ宇都宮へ討手を下さでは難儀なるべし。」とて、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、並びに北陸道七箇国の勢をつけて一万余騎、上野国へ差し向けらる。高倉禅門も、同じき日に鎌倉を立ちて、薩埵山へ向ひたまふ。一方には上杉民部大輔憲顕を大手の大将として二十万余騎、由井、蒲原へ向かはせらる。一方には石堂入道、子息右馬頭頼房を搦手の大将として十万余騎、宇都部佐へ廻つて押し寄する。高倉禅門は、寄せ手の総大将なれば、宗徒の勢十万余騎を従へて、未だ伊豆府にぞ控へられける。
 かの薩埵山と申すは、三方は嶮岨にて谷深く切れ、一方は海にて岸高くそばだてり。敵、たとひ何万騎ありとも、近附きがたしとは見えながら、取り巻く寄せ手は五十万騎、防ぐ兵三千余騎、しかも馬疲れ粮乏しければ、「いつまでかその山にこらへ給ふべき。」と、哀れなる様におぼえて、掌に入れたる心地しければ、あながち急に攻め落とさんともせず、ただ千重万重に取り巻きたるばかりにて、未だ矢軍をだにもせざりけり。
 宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧めに依つて、かねてより将軍に志を存しければ、武蔵守師直が一族に三戸七郎といふ者、その辺に忍びて居たりけるを大将に取り立てて、薩埵山の後詰めをせんと企てけるところに、上野国の住人、大胡、山上の一族ども、人に先をせられじとや思ひけん、新田の大島を大将に取り立てて五百余騎、薩埵山の後詰めのためとて、笠懸原へ打ち出でたり。長尾孫六、同平三、三百余騎にて、上野国警固のためにかねてより世良田に居たりけるが、これを聞くと、等しく笠懸原へ打ち寄せ、敵に一矢をも射させず、抜き連れて駆け立てける程に、大島が五百余騎、十方に駆け散らされ、行方も知れずなりにけり。
 宇都宮、これを聞きて、「この人々、なまじひなる事し出だして、敵に気をつけつる事よ。」と、興醒めて思ひけれども、「それに依るべからず。」と機{*6}を取り直して、十二月十五日、宇都宮を立ちて薩埵山へぞ急ぎける。相伴ふ勢には、氏家太宰小弐周綱、同下総守、同三河守、同備中守、同遠江守、芳賀伊賀守貞経、同肥後守。紀党には増子出雲守、薬師寺次郎左衛門入道元可、舎弟修理進義夏、同勘解由左衛門義春、同掃部助助義。武蔵国の住人猪俣兵庫入道、安保信濃守、岡部新左衛門入道、子息出羽守。都合その勢、千五百騎、十六日午の刻に、下野国天命宿に打ち出でたり。
 この日、佐野、佐貫の一族等、五百余騎にて馳せ加はりける間、兵皆勇み進んで、「夜明くれば、桃井が勢には目もかけず、打ち連れて薩埵山へ懸からん。」と評定しける処に、大将に取り立てたる三戸七郎、俄に狂気になつて、自害をして死ににけり。これを見て、門出悪しとや思ひけん、道にて馳せ著きつる勢ども、一騎も残らず落ち失せて、始め宇都宮にて一味同心せし勢ばかりになりければ、僅かに七百騎にも足らざりけり。「かくては如何あらん。」と、諸人、色を失ひけるを、薬師寺入道、暫く思案して、「吉凶は糺へる縄の如しといへり。これは、いかさま、宇都宮の大明神、大将を氏子に授け給はんために、かかる事はいで来るものなり。暫くも御逗留あるべからず。」と申しければ、諸人、「げにも。」と気を直して、路も少しの滞りもなく、引き懸け引き懸け打つ程に、同十九日の午の刻に、利根河を打ち渡つて那和荘に著きにけり。
 ここにて後に立ちたる馬煙を、「馳せ著く御方か。」と見れば、さはあらで、桃井播磨守、長尾左衛門尉、一万余騎にて後について押し寄せたり。宇都宮、「さらば、陣を張つて戦へ。」とて、小溝の流れたるを前にあて、平々としたる野中に、紀清{*7}両党七百余騎は、大手に向つて北の端に控へたり。氏家太宰小弐は二百余騎、中の手にひかへ、薬師寺入道元可兄弟が勢五百余騎は、搦手に対して南の端にひかへ、両陣互に相待つて、半時ばかり時を移す処に、桃井が勢七千余騎、鬨の声を揚げて宇都宮に打つてかかる。長尾左衛門が勢三千余騎、魚鱗に連なりて、薬師寺に打つてかかる。
 長尾孫六、同平三、二人が勢五百余騎は、皆馬より飛び下り、かち立ちになつて射向の袖を差しかざし、太刀長刀の鋒をそろへて、しづしづと小跳りして氏家が陣へ打つてかかる。飽くまで広き平野の、馬の足に懸かる草木の一本もなき所にて、敵御方一万二千余騎、東に開け西に靡けて、追つつ返しつ半時ばかり戦ひたるに、長尾孫六が下り立つたる一揆の勢五百余人、縦横に駆け悩まされて、一人も残らず討たれければ、桃井も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分かれて落ち行きけり。軍終はつて四、五箇月の後までも、戦場二、三里が間は、草生臭くして、血、野原に注ぎ、地うづたかくして、骸、路径に横たはれり。
 これのみならず、吉江中務が武蔵国の守護代にて勢を集めて居たりけるも、那和の合戦と同じき日に、津山弾正左衛門、並びに野与の一党に寄せられ、忽ちに討たれければ、今は、武蔵上野両国の間に、敵といふ者一人もなくなつて、宇都宮につく勢、三万余騎になりにけり。宇都宮、已に所々の合戦に打ち勝ち、後詰めに廻るよし、薩埵山の寄せ手の方へ聞こえければ、諸軍勢、皆一同に、「あはれ、後詰めの近づかぬ前に、薩埵山を攻め落とされ候へかし。」といひけれども、傾く運にや引かれけん、石堂、上杉、かつて許容せざりければ、余りに身を揉みて、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩埵山へぞ寄せたりける。
 この坂をば今川上総守、南部の一族、羽切遠江守、三百余騎にて固めたりけるが、坂中に一段高き所のありけるを切り払ひて、石弓{*8}を多く張りたりける間、一度にばつと切つて落とす。大石どもに先陣の寄せ手数百人、楯の板ながら打ちひしがれて、矢庭に死する者、数を知らず。後陣の兵、これに色めいて、少し引き色に見えける処へ、南部、羽切、抜きつれて懸かりける間、大類弾正、富田以下を宗として、児玉党十七人、一所にして討たれけり。この陣の合戦はかやうなりとも、五十万騎に余りたる陣々の寄せ手ども、同時に皆攻め上らば、薩埵山をば一時に攻め落とすべかりしを、「何となくとも今に落つべき城を、高名顔に合戦して討たれたるはかなさよ。」と、面々に笑ひ嘲りける心の程こそ浅ましけれ。
 さる程に、同じき二十七日、後詰めの勢三万余騎、足柄山の敵を追つ散らして、竹下に陣を取る。小山判官も、宇都宮に力を合はせて七百余騎、同じき日に古宇津に著きければ、焼け続けたる篝火の数、おびただしく見えける間、大手搦手五十万騎の寄せ手ども、暫くもこらへず十方へ落ちて行く。仁木越後守義長、勝つに乗つて、三百余騎にて逃ぐる勢を追つ立てて、伊豆府へ押し寄せける間、高倉禅門、一支へも支へずして、北條へぞ落ち行き給ひける。上杉民部大輔、長尾左衛門{*9}が勢二万余騎は、信濃を志して落ちけるを、千葉介が一族ども、五百騎ばかりにて追つかけ、早河尻にて打ち留めんとしけるが、落ち行く大勢に取り篭められ、一人も残らず討たれけり。さてこそその道開けて、心安く上杉、長尾左衛門は、無為に信濃国へは落ちたりけれ。
 高倉禅門は、余りに気を失ひて、北條にも猶たまり得ず、伊豆の御山へ引いて、大息ついておはしけるが、「忍びていづ地へも一まど落ちてや見る。自害をやする。」と案じ煩ひ給ひける処に、又、和睦の議あつて、将軍より様々に御文を遣はされ、畠山阿波守国清、仁木左京大夫頼章、舎弟越後守義長を御迎へに参らせられたりければ、今の命の捨てがたさに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門、降人になつて、将軍に打ち連れ奉りて、正月六日の夜に入りて、鎌倉へぞ帰り給ひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「直義。」とある。
 2:底本頭注に、「足利義詮。」とある。
 3:底本は、「薩埵山(さつたやま)へ打上り、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 4:底本は、「越前守(の)義長、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「〇心省 俗名範国。基氏の子。」「〇伊予守 貞世。」とある。
 6:底本頭注に、「元気。」とある。
 7:底本頭注に、「紀氏と清原氏。」とある。
 8:底本頭注に、「機械仕掛で石を敵に投げる兵器。」とある。
 9:底本は、「長尾新左衛門」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。