恵源禅門逝去の事
かかりし後は、高倉殿に附き従ひ奉る侍の一人もなし。牢の如くなる屋形の荒れて久しきに、警固の武士を据ゑられ、事に触れたる悲しみ耳に満ちて、心を傷ましめければ、「今は、憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせん。」と思ふに、我が身さへ用なきものに歎き給ひけるが、幾程もなくその年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽ちに死去し給ひけり。「俄に黄疸といふ病ひに侵され、はかなくならせ給ひけり。」と、外には披露ありけれども、「実には、鴆毒の故に逝去し給ひけり。」とぞささやきける。
去々年の秋は師直、上杉を亡ぼし、去年の春は禅門、師直を誅せられ、今年の春は禅門、また怨敵のために毒を呑みて失せ給ひけるこそ哀れなれ。「三過門間老病死、一弾指頃去来今。」とも、かやうのことをや申すべき。因果歴然の理は、今に始まらざる事なれども、三年の中に日を替へず報ひけるこそ不思議なれ。
さてもこの禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存じ給ひしが、「かやうに自滅し給ふ事、如何なる罪の報いぞ。」と案ずれば、この禅門申さるるに依つて、将軍、鎌倉にて偽りて一紙の告文を残されし故に、その御罰にて御兄弟の中も悪くなり給ひて、終に失せ給ふか。又、大塔宮を殺し奉り、将軍宮{*1}を毒害し給ふ事、この人の御わざなれば、その御憤り深くして、かくの如く亡び給ふか。「災患、元、種なし。悪事を以て種とす。」といへり。実なるかな、武勇の家に生まれ弓箭を専らにすとも、慈悲を先とし業報を恐るべし。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも憚らず、人の辛苦をも痛まず、思ふ様に振舞ひぬれば、楽しみ尽きて悲しみ来り、我と身を責むる事、哀れにおろかなる事どもなり。
吉野殿相公羽林と御和睦の事 附 住吉の松折るる事
足利宰相中将義詮朝臣は、将軍、鎌倉へ下り給ひし時、京都守護のために残されおはしけるが、「関東の合戦の左右は未だ聞かず。京都は以ての外に無勢なり。かくてはいかさま、和田、楠に寄せられて、いふかひなく京を落とされぬ。」と思しければ、一旦事を謀つて、暫く洛中を無為ならしめんために、吉野殿へ使者を立てて、「今より以後は、御治世の御事と国衙の郷保{*2}、並びに本家領家、年頃進止の地に於いては、武家、ひたすらそのいろひ{*3}を止むべきにて候。唯、承久以後新補の率法、並びに国々の守護職、地頭御家人の所帯を武家の成敗に許されて、君臣和睦の恩恵を施され候はば、武臣七徳{*4}の干戈を収めて、聖主万歳の宝祚を仰ぎ奉るべし。」と、頻りに奏聞をぞ経られける。
これに依つて諸卿僉議あつて、「先に直義入道、和睦の由を申して、詞の下に変じぬ。これも又、偽つて申す條、仔細なくおぼゆれども、謀りごとの一途たれば、先づ義詮が申す旨に任せられ、帝都還幸の儀を催し、而して後に、義詮をば畿内近国の勢を以て退治し、尊氏をば義貞が子供に仰せつけて、即ち御追罰せられんに、何の仔細かあるべき。」とて、御問答再往にも及ばず、「御合体の事、仔細あらじ。」とぞ仰せ出だされける。両方、互に偽り給へる趣、誰かは知るべきなれば、この間、持明院殿方に拝趨せられける{*5}諸卿皆、賀名生殿へ参らる。
先づ当職の公卿には、二條関白太政大臣良基公、近衛右大臣道嗣公、久我内大臣右大将通相公、葉室大納言長光、鷹司大納言左大将冬通、洞院大納言実夏、三條大納言公忠、三條大納言実継、松殿大納言忠嗣、今小路大納言良冬、西園寺大納言実俊、裏築地大納言忠季、大炊御門中納言家信、四條中納言隆持、菊亭中納言公直、二條中納言師良、華山院中納言兼定、葉室中納言長顕、万里小路中納言仲房、徳大寺中納言実時、二條宰相為明、勘解由小路左大弁宰相兼綱、堀河宰相中将家賢、三條宰相公豊、坊城右大弁宰相経方、日野宰相教光、中御門宰相宣明。殿上人には日野左中弁時光、四條左中将隆家、日野右中弁保光、権右中弁親顕、日野左少弁忠光、右少弁平信兼、勘解由次官行知、右兵衛佐嗣房等なり。この外、先官の公卿、非参議、七弁八座、五位六位。乃至、山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、並びに禅律の長老、寺社の別当神主に至るまで、我先にと馳せ参りける間、さしも浅ましく賤しげなりし賀名生の山中、花の如く隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所もなかりけり。
「今参候する所の諸卿の叙位転任は、悉く持明院殿よりなされたる官途なれば。」とて、各一級一階を落とされけるに、三條坊門大納言通冬卿と、御子左大納言為定卿とばかりは、元の官位に復せられけり。これは、内々吉野殿へ申し通ぜられける故なり。京都より参り仕へられたる月卿雲客をば、降参人とて官職を落とされ、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次{*6}の賞を行はれける間、窮達、忽ちに地を替へたり。
故三位殿御局と申ししは、今天子の母后にておはしませば、院号蒙らせ給ひて、新待賢門院とぞ申しける。
北畠入道{*7}源大納言は、准后の宣旨を蒙つて、華つけたる大童子を召し具し、輦に駕して宮中へ出入す。その粧ひ、天下の耳目を驚かせり。この人は、故奥州の国司顕家卿の父、今皇后の厳君にておはすれば、武功といひ華族{*8}といひ、申すに及ばぬ所なれども、竹園摂家の外に、未だ准后の宣旨を下されたる例なし。平相国清盛入道、出家の後、准后の宣旨をかうむりたりしは、皇后の父たるのみにあらず、安徳天皇の外祖たり。また、忠盛が子とは名づけながら、正しく白河院の御子なりしかば、華族も栄達も、今の例{*9}には引きがたし。
日野護持院僧正頼意は、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、仁和寺諸院家をかねたり。大塔僧正忠雲は、梨本、大塔の両門跡を兼ねて、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に補せらる。この外、山中伺候の人々、名家は清花を超え、庶子は嫡家を越えて、官職、我意に任せたり。もし今の如くにて天下定まらば、歎く人は多くして、悦ぶ者は少なかるべし。元弘一統の政道、かくの如くにて乱れしを、取つて誡めとせざりける、心の程こそ愚かなれ。
憂かりし正平六年の歳暮れて、あらたま{*10}の春立ちぬれども、皇居は猶も山中なれば、白馬踏歌の節会なんどは行はれず。寅の時の四方拝、三日の月奏ばかりあつて、後七日の御修法は、文観僧正承つて、帝都の真言院にて行はる。十五日過ぎければ、武家より貢馬十匹、沙金三千両、これを奏進す。その外、別進の貢馬三十匹、巻絹三百匹、沙金五百両、女院皇后三公九卿、漏るる方なく引き参らす。
二月二十六日、主上、已に山中を御出であつて、瑶輿を先づ東條へ促さる。剣璽の役人ばかり、衣冠正しくして供奉せらる。その外の月卿雲客、衛府諸司の尉は、皆甲冑を帯して、前騎後乗に相随ふ。東條に一夜御逗留あつて、翌日やがて住吉へ行幸なれば、和田、楠以下、真木野、三輪、湯浅入道、山本判官、熊野の八荘司、吉野十八郷の兵七千余騎、路次を警固仕る。皇居は、当社の神主津守国夏が宿所を俄に造り替へて、臨幸なし奉りけり。国夏、上階して従三位になさる。先例、未だなき殿上の交じはり、時に取つての面目なり。
住吉に臨幸成つて三日に当たりける日、社頭に一つの不思議あり。勅使、神馬を奉つて奉幣を捧げたりける時、風も吹かざるに、瑞籬の前なる大きなる松一本、中より折れて、南に向つて倒れにけり。勅使、驚いて仔細を奏聞しければ、伝奏吉田中納言宗房卿、「妖は徳に勝たず。」と宣ひて、さまでも驚き給はず。伊達三位有雅が武者所に在りけるが、この事を聞きて、「あな、浅ましや。この度の臨幸、成らせ給はん事はあり難し。その故は、昔、殷の帝大戊の時、世の傾かんずるしるしを顕はして、庭に桑の木、一夜に生ひて二十余丈にはびこれり。帝大戊、恐れて伊陟に問ひ給ふ。伊陟が申さく、『臣聞く、妖は徳に勝たず。君の政の欠くる事あるに依つて、天、このしるしを降すものなり。君、早く徳を修め給へ。』と申しければ、帝、則ち諌めに従ひて、政を正し民を撫で、賢を招き佞を退け給ひしかば、この桑の木、又一夜の中に枯れて、霜露の如くに消え失せたりき。かやうの聖徳を行はれてこそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於いて、その徳、何事なれば、『妖は徳に勝たず。』とは伝奏の申さるるやらん。返す返すも心得難き才学かな。」と、眉を顰めてぞ申しける。
その夜、如何なる嗚呼の者かしたりけん、この松を押し削りて、一首の古歌{*11}を翻案してぞ書きたりける。
君が代のみじかかるべきためしにはかねてぞ折れし住吉の松
と、落書にぞしたりける。
住吉に十八日御逗留あつて、閏二月十五日、天王寺へ行幸なる。この時、伊勢の国司中院右衛門督顕能{*12}、伊賀伊勢の勢三千余騎を率して馳せ参られけり。同じき十九日、八幡へ行幸成つて、田中法印が坊を皇居になされ、赤井、大渡に関を据ゑて、兵、山上山下に充ち満ちたるは、「ひたすら合戦の御用意なり。」と、洛中の聞こえ、穏やかならず。
これに依つて義詮朝臣、法勝寺の恵鎮上人を使にて、「臣、不臣の罪を謝して勅免を蒙るべき由、申し入るる処に、照臨、已に下情をめぐまれ、上下和睦の議、事定まり候ひぬる上は、何事の用心か候べきに、和田、楠以下の官軍等、ひたすら合戦の企てある由、承り及び候。如何様の仔細にて候やらん。」と申されたり。主上、直に上人に御対面あつて、「天下未だ恐懼を抱く間、唯、非常をいましめんために、官軍を召し具せらるといへども、君臣、已に和睦の上は、更に異変の議あるべからず。たとひ讒者の説ありとも、胡越の心を存せずば、太平の基たるべし。」と勅答あつてぞ返されける。
「綸言、已にかくの如し。士女の説、何ぞ用ゐる{*13}に足らん。」とて、義詮朝臣を始めとして、京都の軍勢、かつて今出し抜かるるとは夢にも知らず、油断して居たる処に、同じき二十七日の辰の刻に、中院右衛門督顕能、三千余騎にて鳥羽より押し寄せて、東寺の南、羅城門の東西にして旗の手を解き、千種少将顕経、五百余騎にて丹波路唐櫃越より押し寄せて、西の七條に火を揚ぐる。和田、楠、三輪、越知、真木、神宮寺、その勢都合五千余騎、宵より桂川を打ちわたつて、まだ東雲の明けぬ間に、七條大宮の南北七、八町に群立つて、鬨の声をぞ揚げたりける。
東寺、大宮の鬨の声、七條口の煙を見て、「すはや、楠、寄せたり。」と、京中の貴賤上下、慌て騒ぐ事、ななめならず。細川陸奥守顕氏は、千本に宿して居たりけるが、遥かに西七條の煙を見て、先づ東寺へ馳せ寄らんと、僅かに百四、五十騎にて、西朱雀を下りに打ちけるが、七條大宮に控へたる楠が勢に取り篭められ、陸奥守の甥細川八郎、矢庭に討たれければ、顕氏、主従八騎になつて、若狭を指してぞ落ち行きける。
細川讃岐守頼春は、時の侍所なりければ、東寺辺へ打ち出でて勢を集めんとて、手勢三百騎{*14}ばかりにて、これも大宮を下りに打ちけるが、六條辺にて敵の旗を見て、「著到も勢ぞろへも、今はいらぬ所なり。いかさま、まづこれなる敵を一散らしちらさでは、いづくへか行くべき。」とて、三千余騎控へたる和田、楠が勢に相向ふ。
楠が兵、かねての巧みあつて、一枚楯の裏に算を繁く打つて、梯子の如くに拵へたりければ、在家の垣に打ち懸け打ち懸け、究竟の射手三百余人、家の上に登りて、目の下なる敵を見下して射ける間、面を向くべき様もなくて、進みかねたる処を見て、和田、楠五百余騎、轡を並べてぞ駆けたりける。讃岐守が三百余騎、左右へ颯と駆け隔てられ、又取つて返さんとする処に、讃岐守が乗つたる馬、敵の打つ太刀に驚きて、弓杖三杖ばかりぞ飛んだりける。飛ぶ時、鞍にあまされ、真さかさまにどうと落つ。落つると等しく敵三騎落ち合つて、起こしも立てず斬りけるを、讃岐守、寝ながら二人の敵の諸膝薙ぎて切り据ゑ、起き揚がらんとする処を、和田が中間走り懸つて、槍の柄をとり延べて、喉笛を突きて突き倒す。倒るる処に落ち合つて、首をば和田に取られにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
2:底本は、「国衙の郷保(ごうはう)」。底本頭注に、「国司の庁の取り扱ふ郷と保。古は郷と村との間に保といふ区画があつた。」とある。
3:底本頭注に、「干渉。」とある。
4:底本頭注に、「禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和衆、豊財の七。」とある(底本は「豊賊」)。
5:底本は、「拝趨(はいすう)せられたる諸卿、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「〇超涯 過分。」「〇不次 順序によらぬこと。」とある。
7:底本頭注に、「親房。」とある。
8:底本頭注に、「〇厳君 父君。」「〇華族 清華の族。朝臣に摂家、清華、名家といふ階級がある。」とある。
9:底本は、「今の列には」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
10:底本は、「新王(あらたま)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
11:底本頭注に、「古今集に、『君が代の久しかかるべきためしには兼ねてぞ植ゑし住吉の松。』」とある。
12:底本頭注に、「北畠親房の子。」とある。
13:底本は、「用ふる」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
14:底本は、「三百余騎」。『太平記 四』(1985年)に従い削除した。
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