巻第三十一
新田義兵を起こす事
吉野殿{*1}武家に御合体ありつる程こそ都鄙暫く静かなりつれ。御合体、忽ちに破れて、合戦に及びし後、畿内洛中は、僅かに王化に随ふといへども、四夷八蛮は、猶武威に属する者、多かりけり。これに依つて、諸国七道の兵、彼を討ちこれを従へんと、互に威を立つる間、合戦の止む時もなし。已に闘諍堅固になりぬれば、これならずとも静かなるまじき理なり。元弘建武の後より、天下久しく乱れて、一日も未だ治まらず。心あるも心なきも、「如何なる山の奥もがな。」と、身の隠れ家を求めぬ方もなけれど、いづくも同じうき世なれば、厳子陵が釣台も、脚を伸ぶるに水すさまじく、鄭太尉が幽栖も、薪を担ふに山嶮し。「如何なる一業所感にか、かかる乱世に生まれ逢ひて、或いは餓鬼道の苦しみを生きながら受け、或いは修羅道の奴と死せざる前になりぬらん。」と、歎かぬ人はなかりけり。
この時、故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、三男少将義宗、従父兄弟左衛門佐義治、三人、武蔵、上野、信濃、越後の間に在所を定めず身を隠して、「時を得ば、義兵を起こさん。」と企て居たりける処へ、吉野殿、未だ住吉に御座ありし時、由良新左衛入道信阿を勅使にて、「南方と義詮と御合体の事は、暫時の智謀なりと聞こゆる処なり。乃ち、節に迷ひ時を過ごすべからず。早く義兵を起こして将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。」とぞ仰せ下されける。信阿、急ぎ東国に下つて、三人の人々に逢ひて事の仔細を相触れける間、「さらば、やがて勢を相催せ。」とて、廻文を以て東八箇国を触れ廻るに、同心の一族八百人に及べり。
中にも石堂四郎入道は、近年高倉殿に属して、薩埵山の合戦に打ち負けて、甲斐なき命ばかりを助けられ、鎌倉にありけるが、大将に憑まれたる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を起こし得ず。「あはれ、謀叛を起こす人のあれかし。与力せん。」と思ひける処に、新田左兵衛佐、同少将のもとより、内状を通じて事のよしを知らせたりければ、流れに棹と悦びて、やがて同心してけり。又、三浦介、葦名判官、二階堂下野二郎、小俣宮内少輔も高倉殿方にて、薩埵山の合戦に打ち負けしかば、降人になつて命をば継ぎたれども、「人の見る処、世の聞く処、口惜しきものかな。あはれ、謀叛を起こさばや。」と思ひける処に、新田武蔵守、同左衛門佐の方より、憑み思ふ由を申したりければ、「願ふ処の幸ひかな。」と悦びて、則ち与力してけり。
この人々、ひそかに扇谷に寄り合ひて評定しけるは、「新田の人々、旗を挙げて上野国に起こり、武蔵国へ打ち越ゆると聞こえば、将軍は、定めて鎌倉にてはよも待ち給はじ。関戸、入間河の辺に出で合ひてぞ防ぎ給はんずらん。我等五、六人が勢、何となくとも三千騎はあらんずらん。将軍、戦場に打ち出で給はんずる時、わざと馬廻りに控へて、合戦、已に半ばならんずる最中、将軍を真中に取り篭め奉り、一人も残らず討ち取つて、後に御陣へは参り候べし。」と、新田の人々の方へ相図を堅く定めて、石堂入道、三浦介、小俣、葦名は、はたらかで鎌倉にこそ居たりけれ。
諸方の相図、事定まりければ、新田武蔵守義宗、左兵衛佐義興{*2}、閏二月八日、先づ手勢八百余騎にて西上野に打ち出でらる。これを聞きて、国々より馳せ参りける当家他門の人々。先づ一族には、江田、大館、堀口、篠塚、羽川、岩松、田中、青竜寺、小幡、大井田、一井、世良田、篭沢。外様には、宇都宮三河三郎、天野民部大輔政貞、三浦近江守、南木十郎、西木七郎、酒勾左衛門、小畑左衛門、中金、松田、河村、大森、葛山、勝代、蓮沼、小磯、大磯、酒間、山下、鎌倉、玉縄、梶原、四宮、三宮、南西、高田、中村。児玉党には浅羽、四方田、庄、桜井、若児玉。丹の党には安保信濃守、子息修理亮、舎弟六郎左衛門、加治豊後守、同丹内左衛門、勅使河原丹七郎、西党、東党、熊谷、太田、平山、私市、村山、横山、猪俣党。都合その勢十万余騎、所々に火をかけて、武蔵国へ打ち越ゆる。これに依つて、武蔵、上野より早馬を打つて鎌倉へ急を告ぐる事、櫛の歯を引くが如し{*3}。
「さて、敵の勢は、いか程あるぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎には劣り候はじ。」とぞ答へける。仁木、細川の人々、これを聞きて、「さては、ゆゆしき大事ござんなれ。鎌倉中の勢、千騎にまさらじとおぼゆるなり。国々の軍勢は、たとひ参るとも、今の用には立ち難し。千騎に足らぬ御勢を以て、敵の二十万騎を防がん事は、叶ふべしともおぼえ候はず。唯、先づ安房、上総へ開かせ給ひて{*4}、御勢をつけて御合戦こそ候はめ。」と申されけるを、将軍、つくづくと聞き給ひて、「軍の習ひ、落ちて後、利ある事、千に一つの事なり。勢を催さんために安房、上総へ落ちなば、武蔵、相模、上野、下野の者どもは、たとひ尊氏に志ありとも、敵に隔てられて、御方になる事あるべからず。又、尊氏、鎌倉を落ちたりと聞かば、諸国に敵になる者多かるべし。今度に於いては、たとひ小勢なりとも鎌倉を打ち出でて、敵を道に待ちて戦ひを決せんにはしかじ。」とて、十六日の早旦に、将軍、僅かに五百余騎の勢を率し、「敵の行き合はんずる所まで。」と、武蔵国へ下り給ふ。
鎌倉より追ひ著き奉る人々には、畠山上野介、子息伊豆守、畠山左京大夫、舎弟尾張守、舎弟大夫将監、その次式部大輔、仁木左京大夫、舎弟越後守、三男修理亮、岩松式部大輔、大島讃岐守、石堂左馬頭、今川五郎入道、同式部大輔、田中三郎、大高伊予守、同土佐修理亮、太平安芸守、同出羽守、宇津木平三、宍戸安芸守、山城判官、曽我兵庫助、梶原弾正忠、二階堂丹後守、同三郎左衛門、饗庭命鶴、和田筑前守、長井大膳大夫、同備前守、同治部少輔、子息右近将監等なり。元より隠謀ありしかば、石堂入道、三浦介、小俣宮内少輔、葦名判官、二階堂下野次郎、その勢三千余騎は、他の勢を交じへず、将軍の御馬の前後に透間もなくぞ打つたりける。
久米河に一日逗留し給へば、河越弾正少弼、同上野守、同唐戸十郎左衛門、江戸遠江守、同下野守、同修理亮、高坂兵部大輔、同下野守、同下総守、同掃部助、豊島弾正左衛門、同兵庫助、土屋備前守、同修理亮、同出雲守、同肥後守、土肥次郎兵衛入道、子息掃部助、舎弟甲斐守、同三郎左衛門、二宮但馬守、同伊豆守、同近江守、同河内守、曽我周防守、同三河守、同上野守、子息兵庫助、渋谷木工左衛門、同石見守、海老名四郎左衛門、子息信濃守、舎弟修理亮、小早川刑部大輔、同勘解由左衛門、豊田因幡守、狩野介、那須遠江守、本間四郎左衛門、鹿島越前守、島田備前守、浄法寺左近大夫、白塩下総守、高山越前守、小林右馬助、瓦葺出雲守、見田常陸守、古尾谷民部大輔、長峯石見守、都合その勢八万余騎、将軍の御陣へ馳せ参る。
「已に明日矢合はせ。」とさだめられたりける夜、石堂四郎入道、三浦介を呼びのけて{*5}宣ひけるは、「合戦、已に明日と定められたり。この間、相謀りつる事を、子息にて候右馬頭に、かつて知らせ候はぬ間、この者一定、一人残り止まつて、将軍に討たれ参らせんとおぼえ候。一家の中を引き分けて、義卒に与し、老年の頭に兜を戴くも、もし望み達せば後栄を子孫に残さんと存ずる故なり。されば、この事を告げ知らせて心得させばやと存ずるは、如何候べき。」と問ひ給ひければ、三浦、「実にも、これ程のことを告げ参らせられざらんは、後悔あるべくおぼえ候。急ぎ知らせ参らせ給へ。」と申しける間、石堂禅門、子息右馬頭を呼んで、「我、薩埵山の合戦に打ち負けて、今、降人の如くなれば、仁木、細川等に押しすゑられて、人数ならぬ有様、御辺も定めて遺恨にぞ思ふらん。明日の合戦に、三浦介、葦名判官、二階堂の人々と引き合つて、合戦の最中、将軍を討ち奉り、家運を一戦の間に開かんと思ふなり。相構へてその旨を心得て、我が旗の趣に従はるべし。」といはれければ、右馬頭、大きに気色を損じて、「弓矢の道、弐心あるを以て恥とす。人の事は知らず、某に於いては、将軍に深く憑まれ参らせたる身にて候へば、後ろ矢射て名を後代に失はんとは、えこそ申すまじけれ。兄弟父子の合戦、古より今に至るまで、なき事にて候はず。いかさま、三浦介、葦名判官、隠謀の事を将軍に告げ申さずば、大きなる不忠なるべし。父子の恩義、已に絶え候ひぬる上は、今生の見参は、これを限りと思し召し候へ。」と、顔を赤め腹を立てて、将軍の御陣へぞ参られける。
父の禅門、大きに興を醒まして、急ぎ三浦がもとに行きて、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬものにて候ひけり。この事、右馬頭に知らせず、敵のうちに残つて討たれもやせんずらんと思ふ悲しさに、告げ知らせて候へば、以ての外に気色を損じて、この事、将軍に告げ申さでは叶ふまじきとて帰り候ひつるは、如何に。この者が気色、よも告げ申さぬ事は候はじ。いかさま、やがて討手を向けられんとおぼえ候。いざ、させ給へ{*6}。今夜、我等が勢を引き分けて、関戸より武蔵野へ廻つて、新田の人々と一つになり、明日の合戦を致し候はん。」と宣ひければ、多日の謀りごと、忽ちに顕はれて、かへつて身の禍ひになりぬと恐怖して、三浦、葦名、二階堂、手勢三千余騎を引き分け、「寄せ手の勢に加はらん。」と、関戸を廻つて落ち行く。これぞ早、将軍の御運尽きざる所なる。
校訂者注
1:底本頭注に、「後村上帝。」とある。
2:底本は、「左兵衛(の)佐義治」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
3:底本頭注に、「後から後からと使者が続いて行く貌。」とある。
4:底本頭注に、「退却なされて。」とある。
5:底本頭注に、「人げの無い場所に呼びよせて。」とある。
6:底本頭注に、「さあ支度し給へ。」とある。
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