武蔵野の合戦の事
三浦が相図相違したるをば、新田武蔵守、夢にも知らず。「時刻よくなりぬ。」と急ぎ、明くれば閏二月二十日の辰の刻に、武蔵野の小手差原へ打ち臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守義宗五万余騎、白旗、中黒、頭黒、団扇の旗は児玉党、坂東八平氏赤印一揆{*1}を、五手に引き分けて、五所に陣をぞ取りたりける。一方には新田左兵衛佐義興を大将にて、その勢都合二万余騎、かたばみ、鷹の羽、一文字、十五夜の月、弓一揆、引きては一人も帰らじと、これも五手に一揆して、四方六里に控へたり。一方には、脇屋左衛門佐 義治を大将にて二万余騎、大旗、小旗、下濃の旗、鍬形一揆、母衣一揆、これも五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて、駆け手は後ろに控へたり。
「敵、小手差原にあり。」と聞こえければ、将軍、十万余騎を五手に分けて、中道よりぞ寄せられける。先陣は平一揆三万余騎、小手の袋、四幅袴、笠印に至るまで、一色に皆赤かりければ、殊更輝いてぞ見えたりける。二陣には白旗一揆二万余騎、白葦毛、白瓦毛、白佐目、鴇毛なる馬に乗つて、練貫の笠印に白旗を差したりけるが、敵にも白旗ありと聞きて、俄に短くぞ切つたりける。三陣には花一揆、命鶴丸を大将として六千余騎、萌黄、緋縅、紫糸、卯の花のつまとりたる鎧に薄紅の笠印をつけ、梅の花一枝折つて、兜の真向に差したれば、四方の嵐の吹く度に、鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆とて三万余騎、二引両の旗の下に将軍を守護し奉りて、御内の長者、国大名、閑かに馬を控へたり。五陣に仁木左京大夫頼章、舎弟越後守義長、三男修理亮義氏、その勢三千余騎、笠印をもつけず{*2}、旗をも差さず、遥かの外に引きのけて、馬より下りてぞ居たりける。これは、両方大勢の合戦なれば、十度二十度懸け合ひ懸け合ひ戦はんに、敵も御方も気を屈し、力疲れぬ事あるべからず。その時、新手に代はりて、敵の大将の控へたらんずる所を見澄まして、夜討にせんがためなりけり。
さる程に、新田、足利両家の軍勢二十万騎、小手差原に打ち臨んで、敵三声鬨を作れば、御方も三度鬨の声を合はす。上は三十三天までも響き、下は金輪際までも聞こゆらんとおびただし。先づ一番に新田左兵衛佐が二万余騎と、平一揆が三万余騎と懸け合ひて、追つつ返しつ合ひつ分かれつ、半時ばかり相戦つて、左右へ颯と引き退きたれば、両方に討たるる兵八百余人、創を被る者は、未だ数ふるに暇あらず。
二番に脇屋左衛門佐が二万余騎と、白旗一揆が二万七千余騎と、東西より相懸かりにかかつて、一所に颯と入り乱れ、火を散らして戦ふに、汗馬の馳せ違ふ音、太刀の鐔音、天に光り地に響く。或いは引つ組んで首を取るもあり、取らるるもあり。或いは弓手妻手に相附けて、切つて落とすもあり、落とさるるもあり。血は馬蹄に蹴懸けられ、紅葉に注ぐ雨の如く、屍は野径に横たはつて、尺寸の地も余さず。追ひ靡け懸け立てられ、七、八度が程戦つて東西へ颯と別れたれば、敵御方に討たるる者、又五百人に及べり。
三番に饗庭命鶴生年十八歳、容貌当代無双の児なるが、今日、花一揆の大将なれば、殊更花を折つて出で立ち、花一揆六千余騎が真先に駆け出でたり。新田武蔵守、これを見て、「花一揆を散らさんために、児玉党を向くべし。団扇の旗は風を含めるものなり。」とて、児玉党七千余騎を差し向けらる。花一揆、皆若武者なれば、思慮もなく敵にかかりて、一戦ひ戦ふとぞ見えし。児玉党七千余騎に揉み立てられ、一返しも返さずぱつと引く。自余の一揆は、かかる時は一手になつて懸かり、引く時は左右へ颯と別れて、新手を入れ替へさすればこそ、後陣は騒がで駆け違ひたれ。これはその軍立ち、かひなくして、将軍の後に控へておはする陣の中へ、こぼれ落ちて引く間、新手はこれに蹴立てられ進み得ず、敵は気に乗つて勝鬨を作り懸け作り懸け、攻め附けて追ひかくる。「かくては叶ふまじ。少し引き退きて、一度に返せ。」といふ程こそありけれ、将軍の十万余騎、ひた引きにひき立つて、かつて後ろを顧みず。
新田武蔵守義宗、旗より先に進んで、「天下のためには朝敵なり。我がためには親の敵なり。唯今、尊氏が首を取つて軍門に曝さずんば、いつの時をか期すべき。」とて、自余の敵どもの南北へ分かれて引くをば少しも目にかけず、唯、二引両の大旗の引くにつきて、いづくまでもと追ひ駆け給ふ。引くも鞭を挙げ、追ふも逸足を出だせば、小手差原より石浜まで坂東道、已に四十六里を片時が間にぞ追ひつきたる。将軍、石浜を打ち渡り給ひける時は、已に腹を切らんとて、鎧の上帯切つて投げすてて、高紐を放さんとし給ひけるを、近習の侍ども二十余騎返し合はせて、追ひ駆くる敵の河中まで渡りかけたると、引つ組み引つ組み討死しけるその間に、将軍、急を遁れて向うの岸にかけ上り給ふ。落ち行く敵は三万余騎、追つ駆くる敵は五百余騎、河の向ひの岸高うして、屏風を立てたる如くなるに、数万騎の敵返し合はせて、ここを先途と支へたり。日、已に酉の下がりになつて、河の淵瀬も見分かざれば、新田武蔵守義宗、続いて渡すに及ばず{*3}。後より続く御方はなし。「安からぬものかな。」と、牙を噛みて本陣へと引き返さる。又、将軍の御運の強きところなり。
新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一所になつて、白旗一揆が二、三万騎北に分かれて引きけるを、「これぞ将軍にておはすらん。いづくまでも追つ詰めて討たん。」とて、五十余町まで追つ懸けて行く処に、降参の者どもが馬より下り、各対面して色代{*4}しける程に、これに会釈せんと、所々にて馬を控へ会釈し給ひける間、軍勢は皆、逃ぐるを追つて東西へ隔たりぬ。義興と義治と、僅かに三百余騎になつてぞおはしける。仁木左京大夫頼章、舎弟越後守義長は、元来、かやうの所を伺つて、未だ一戦もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、これを見て、「末々の源氏、国々の附き勢をば、何千騎討つても何かせん。あはれ、幸ひや。天の与へたる所かな。」と悦んで、その勢三千余騎、ただ一手になつて押し寄せたり。敵、小勢なれば、定めて鶴翼に開いて取り篭めんずらんと推量して、義興、義治、魚鱗に連なつて、轡を並べて敵の中を破らんと見繕ふ処に、仁木越後守義長、これを屹と見て、「敵の馬の立て様、軍立て、尋常の葉武者にあらず。小勢なればとて、侮つて中を破らるな。一所に馬を打ち寄せて、敵懸かるとも懸け合はすな。前後に常に目を配つて、大将とおぼしき敵あらば、組んで落ちて首をとれ。葉武者懸からば射落とせ。敵に力を尽くさせて、御方少しも漂はずんば、無勢に多勢、勝たざらんや。」と、委細に手立てを成敗して、一所に勢をぞ囲みたる。
案に違はず義興、義治、目の前に控へて欺く{*5}敵にこらへかねて、三百余騎を一手になし、敵の真中を駆け破つて、蜘手十文字に駆け立てんと喚いて懸かりけれども、仁木越後守、少しも轟かず{*6}。「真中を破らるな。敵に気を尽くさせよ。」と下知して、いよいよ馬を立て寄せ、透間もなく控へたれば、面にある兵ばかり互に討たれて、颯と引きけれども、追つても更に懸からず。裏へ通りて戦へども、面は少しも騒がず。東へ廻れども、西は閑かなり。北へ廻れども、南はかつて轟かず。駆け寄すれば打ち違へ、組んで落つれば落ち重なる。千度百度懸くれども、強陣、勢堅くして、大将退く事なければ、義興、義治、気疲れて、東をさして落ちて行く。
二十余町落ち延びて、誰々討たれたると数ふるに、三百余騎ありつる兵ども、百余騎討たれて二百余騎ぞ残りける。義興、兜の錏、袖の三の板切り落とされて、小手のあまり、臑当のはづれに薄手三所負はれたり。義治は、太刀かけ、草摺の横縫、皆突き切られて、縅毛ばかり続きたるに、鍬形両方切り折られ、星も少々削られたり。太刀は鐔元より{*7}打ち折れぬ。中間に持たせたる長刀を持たれたりけるが、峯はささらの子の如く切られて、刃は鋸の様にぞ折れたりける。馬は三所まで切られたりけるが、下りて乗替に乗りたまへば、倒れてやがて死ににけり。両大将、かくの如く、自ら戦つて創を被る上は、その已下の兵ども、痛手を負ひ、切創の二、三箇所負はぬ者は希なり。
新田武蔵守、将軍をば討ち漏らしぬ。今日は、日、已に暮れぬれば、「勢を集めて明日、石浜へ寄せん。」とて、小手差原へ打ち帰る。「兵衛佐殿、いづくにか控へ給ひぬる。」と、行き合ふ兵どもに問ひ給へば、「兵衛佐殿と脇屋殿とは、一所に控へて御渡り候ひつるが、仁木殿に打ち負けて、東の方へ落ちさせ給ひ候ひ{*8}つるなり。」とぞ答へける。さて、「ここに見えたる篝は、敵か、御方か。」と問ひ給へば、「この辺に御方は一騎も候まじ。これは、仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆の者どもが焼いたる篝にてぞ候らん。小勢にてこの辺に御座候はん事は如何とおぼえ候へば、夜に紛れて急ぎ笛吹峠の方へ打ち越えさせ給ひ候て、越後、信濃の勢を待ちそろへられ候て、重ねて御合戦候へかし。」と申しければ、武蔵守、暫く思案して、「実にも、この議、然るべし。」とて、「笛吹峠は、いづくぞ。」と、問ひ問ひ夜中に落ち給ふ。
校訂者注
1:底本頭注に、「軍人の一団。」とある。
2:底本は、「つげず」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「渡すことも出来ず。」とある。
4:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「会釈。」とある。
5:底本頭注に、「嘲る。」とある。
6:底本頭注に、「少しも動揺せず。」とある。
7:底本は、「鐔本(つばもと)打折れぬ。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
8:底本は、「落ちさせ給ひつるなり。」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
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