八幡合戦の事 附 官軍夜討の事

 都には、去月二十日の合戦に打ち負けて、足利宰相中将殿は、近江国へ落ちさせ給ひ、持明院の本院、新院、主上、春宮は、皆捕らはれさせ給ひて、賀名生に遷幸なりぬ。吉野の主上は、猶世を危ぶみて、八幡に御座あり。月卿雲客は、西山、東山、吉峯、鞍馬の奥などに逃げ隠れておはすれば、帝城の九禁、いつしか虎賁猛将の備へもなく、朝儀大礼の沙汰もなくて、野干{*1}の住みかとなりにけり。桓武の聖代、この四神相応の地を選んで、東山に将軍塚を築かれ、艮の方に天台山を立てて{*2}、百王万代の宝祚を修し置かれし勝地なれば、後五百歳、未来永永に至るまで、荒廃あらじとこそおぼえつるに、こはそも、如何になりぬる世の中ぞやと、歎かぬ人もなかりけり。
 宰相中将殿は、近江の四十九院にはるばるとおはしけれども、土岐、佐々木が外は、相従ふ勢もなかりしが、「東国の合戦に、将軍、勝ち給ひぬ。」と聞こえて後より、勢の附き奉る事、雲霞のごとし。「さらば、やがて京都へ寄せよ。」とて、三月十一日、四十九院を立つて三万余騎、先づ伊祇代三大寺にして手を分かつ。或いは漫々たる湖上に、山田、矢早瀬の渡し舟に棹さす人もあり。或いは渺々たる沙頭に、堅田、高島を経て、駒に鞭うつ勢もあり。旌旗水煙に翻つて、竜蛇忽ちに天にあがり、甲冑夕陽に輝いて、星斗則ち地に列なる。
 中院宰相中将具忠卿、千余騎にてこの勢を防がんために、大津辺に控へられたりけるが、敵の大勢なる体を見て、戦ふ事叶はじとや思はれけん、敵の未だ近づかざる前に、八幡へ引き返さる。
 おなじき十五日、宰相中将殿{*3}、京都に発向して東山に陣をめさるれば、宮方の大将北畠右衛門督顕能、都を去つて、淀、赤井に陣を取る。おなじき十七日に、宰相中将殿、下京に御移りあつて、東寺に御陣を召さるれば、顕能卿、淀川を引いて、八幡の山下に陣をとる。「いまだ戦はざる前に、宮方の大将、陣を去る事三箇度なれば、行く末とても、さぞあらんずらん。」と、憑み少なくぞ見えたりける。
 さはありながら、「八幡は究竟の要害なるに、赤井橋を引きて、畿内の官軍、七千余騎にて楯篭りたり。三方は大河隔たつて、橋もなく船もなし。宇治路を後ろへ廻らば、前後皆敵陣に挟まりて、進退心安かるまじ。如何すべき。」と評定あつて、東寺には猶、国々の勢を待たれける処に、細川陸奥守、四国の勢を率して、三千余騎にて上洛せらる。又、赤松律師則祐は、吉野殿より宮を一人{*4}申し下し参らせて、今までは宮方を仕る由にてありけるが、これも如何思案したりけん、宮方を背きて京都へ馳せ来りければ、宰相中将殿は、竜の水を得、虎の山によりかかるが如くになつて、勢ひ、京畿を覆へり。
 同じき三月二十四日、宰相中将殿、三万余騎の勢を率し、宇治路を廻つて木津河を打ち渡り、洞峠に陣を取らんとす。これは、河内、東條の通路を塞ぎて、敵を兵粮に詰めんためなり。八幡より北へは、和田五郎と楠次郎左衛門とを向けられけるが、「楠は今年二十三、和田は十六。いづれも皆若武者なれば、思慮なき合戦をも致さんずらん。」と、諸卿、悉く危ぶみ思はれけるに、和田五郎、参内して申しけるは、「親類兄弟、度々の合戦に、身を捨てて討死仕り候ひ畢んぬ。今日の合戦は又、公私の一大事と存ずる事にて候上は、命を際の合戦仕りて、敵の大将を一人討ち取り候はずば、生きて再び御前へ帰り参る事候まじ。」と、申し切つて罷り出でければ、列座の諸卿、国々の兵、「あはれ、代々の勇士なり。」と感ぜぬ人はなかりけり。
 さる程に、和田、楠、紀伊国の勢三千余騎、皆荒坂山へ打ち向つて、ここを支へんと控へたれば、細川相模守清氏、同陸奥守顕氏、土岐大膳大夫、舎弟悪五郎、六千余騎にて押し寄せたり。山路嶮しく、峯高くそばだちたれば、麓より皆、馬を踏み放し踏み放し、かづき連れてぞ上りたりける。かかる軍に元来馴れたる大和、河内の者どもなれば、岩の蔭、岸の上に走り渡つて散々に射る間、面に立つ土岐と細川が兵ども、射しらまされて進み得ず。
 土岐悪五郎{*5}は、その頃、天下に名を知られたる大力の早わざ、打物取つて達者なりければ、卯花縅の鎧に鍬形打つて、水色の笠印吹き流させ、五尺六寸の大太刀抜いて引きそばめ、射向の袖を振りかざいて、はるかに遠き山路をただ一息に上らんと、猪のかかる様に、につこと笑ひ上がりけるを、和田五郎、「あはれ、敵や。」と打ち見て、突いたる楯をがばと投げ棄てて、三尺五寸の小長刀、茎短かに取つて渡り合ふ。
 ここに、相模守が郎従に関左近将監といひける兵、土岐が脇より、つと走り抜けて、和田五郎に打つてかかる。和田が中間、これを見て、小松の蔭より走り出でて、近々と詰め寄せて、十二束三伏、暫し堅めて放つ矢、関将監がからどうを、くさめ通しに射抜かれて、小膝をついてぞ伏したりける。悪五郎、走り寄つて引き起こさんとしける処を、又、和田が中間、二の矢を番ひて、悪五郎が脇楯のつぼの板、沓巻せめてぞ射こうだる。関将監、これを見て、今は助くべき人なしと思ひけるにや、腰の刀を抜いて腹を切らんとしけるを、悪五郎、「暫し。自害なせそ。助けんずる。」とて、つぼ板に射立てられたる矢をば、脇楯ながら引き切つて投げ棄て、かかる敵を五、六人切りふせ、関将監を左の小脇にさし挟み、右手にて件の太刀を打ち振り打ち振り、近づく敵を打ち払ひて、三町ばかりぞ落ちたりける。後につづいて、いづくまでもと追つ懸けける和田五郎も、討ち遁しぬ。
 安からず思ひける処に、悪五郎が運や尽きにけん、夕立に掘れたる片岸のありけるを、ゆらりと越えけるに、岸の額のかた土、くわつと崩れて、薬研のやうなる処へ、悪五郎、落ちければ、走り寄つて長刀の柄を取り延べ、二人の敵をば討つてけり。入り乱れたる軍の最中なれば、首を取るまでもなし。悪五郎が引き切つて捨てたりつる、脇楯ばかりを取つて、討ちたる証拠に備へ、身に射立てられたる矢ども少々折り懸けて、主上の御前へ参り、合戦の体を奏し申せば、「初め申しつる詞に少しも違へず、大敵の一将を討ち取つて、数箇所の創を被りながら、恙なくして帰り参る條、前代未聞の高名なり。」と、叡感、更に浅からず。
 悪五郎討たれて、官軍、利を得たりといへども、寄せ手、目に余る程の大勢なれば、始終この陣にはこらへ難しとて、楠次郎左衛門、夜に入つて八幡へ引き返せば、翌日、朝敵、やがて入れ替はつて、荒坂山に陣を取る。然れども、官軍も懸からず、寄せ手も攻め上らず、八幡を遠攻めにして四、五日を経る処に、山名右衛門佐師氏、出雲、因幡、伯耆三箇国の勢を率して上洛す。路次の遠きに依つて、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直に八幡へ押し寄せて一軍せんとて、淀より向かはれけるが、法性寺左兵衛督{*6}、ここに陣を取つて、淀の橋三間引き落として、西の橋詰めに垣楯掻いて相待ちける間、橋を渡ることは、かなはず。
 「さらば、筏をつくり、渡せ。」とて、淀の在家をこぼちて筏を組みたれば、五月の長雨に水増さりて押し流されぬ。数日あつて後、淀の大明神の前に浅瀬ありと聞き出だして、二千余騎を一手になし、流れを切つて打ち渡すに、法性寺左兵衛督、唯一騎、馬のかけあがりに控へて、敵三騎切つて落とし、のりたる太刀を押し直して、しづしづと引いて返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、きたなくも敵に後ろをば見せられ候ものかな。」とて追つかけたり。「返すに難きことか。」とて、左兵衛督、取つて返しては、つと追つ散らし、返し合つては切つて落とし、淀の橋詰めより御山まで、十七度までこそ返されけれ。されども馬をも切られず、我が身も痛手を負はざれば、袖の菱縫、吹き返しに立つ処の矢、少々折りかけて、御山の陣へぞ帰られける。
 山名右衛門佐、財園院に陣をとれば、左兵衛督、猶、守堂口に支へて防がんとす。
 四月二十五日、四方の寄せ手、同時に牒じ合はせて攻め戦ふ。顕能卿の兵、伊賀、伊勢の勢三千余騎にて、園殿口に支へて戦ふ。和田、楠、湯浅、山本、和泉、河内の軍勢は、佐羅科に支へて戦ふ。軍、未だ半ばなるに、高橋の在家より神火燃え出でて、魔風、十方に吹き懸けける程に、官軍、煙に咽んで、防がんとするに叶はねば、皆、八幡の御山へ引き上る。四方の寄せ手二万余騎、則ち洞峠へ打ち上りて、土岐、佐々木、山名、赤松、松田、飽庭、宮入道、一勢一勢、数十箇所に陣を取り、鹿垣結ひて、八幡山を五重六重にぞ取り巻きける。細川陸奥守、同相模守は、真木、葛葉を打ち廻つて、八幡の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取つて、敵と堀一重を隔ててぞ攻めたりける。
 五月四日、官軍七千余騎が中より、夜討に馴れたる兵八百人をすぐりて、法性寺左兵衛督につけらる。左兵衛督、昼程よりこの勢を吾が陣へ集めて、笠印を一様に著けさせ、「誰ぞと問ば、進むと名のるべし。」と約束して、夜、已に二、三更の程なりければ、宿院の後を廻つて如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵ども、同音に鬨をどつと作る。細川が兵三千余人、暗さは暗し、分内はなし、馬放れ人騒いで、太刀をも抜き得ず、弓をも引き得ざりければ、手負、討たるる者、数を知らず。遥かなる谷底へ、人なだれをつかせて追ひ落とされければ、馬、物具を捨てたる事、幾千万とも知り難し。
 一陣破れぬれば、残党全からじと見る処に、土岐、佐々木、山名、赤松が陣は、少しも動かず。鹿垣きびしく結ひて、用心堅く見えたれば、夜討に打つべき様もなく、打ち散らすべき便りもなかりけり。「かくてはいつまでかこらふべき。和田、楠を河内国へ返して、後詰めをせさせよ。」とて、彼等両人を忍びて城より出だして、河内国へぞ遣はされける。
 八幡には、この後詰めを憑みて、今や今やと待ち給ひける処に、これを我が大事と思ひ入れて引き立ちける和田五郎、俄に病み出だして、幾程もなく死ににけり。楠は、父にも似ず兄にも替はりて、心少し延びたる者{*7}なりければ、今日よ明日よといふばかりにて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、いかがはせんとも心に懸けざりけるこそうたてけれ。「『尭の子、尭の如くならず。舜の弟、舜に似ず。』とはいひながら、この楠{*8}は、正成の子なり、正行が弟なり。いつの程にか親にも変はり、兄にもこれまで劣るらん。」と、謗らぬ人もなかりけり。

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校訂者注
 1:底本は、「野干(やかん)」。底本頭注に、「狐。」とある。
 2:底本頭注に、「〇将軍塚 八尺の像に甲冑を著せて埋めた所。」「〇天台山 比叡山。王城の鬼門にあたる。」とある。
 3:底本は、「宰相中将」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。底本頭注に、「義詮。」とある。
 4:底本頭注に、「護良親王の子陸良親王。」とある。
 5:底本頭注に、「康貞。」とある。
 6:底本頭注に、「親康の子。」とある。
 7:底本頭注に、「少しぐづぐづして果断のない者。」とある。
 8:底本頭注に、「〇尭の子云々 尭は聖帝であつたが其の子の丹朱は不肖であつた。舜は至孝だつたが其の弟の象は傲る人だつた。」「〇この楠 楠正儀。」とある。