南帝八幡御退失の事

 三月十五日より軍始まつて、已に五十余日に及べば、城中には早、兵粮を尽くし、助けの兵を待つ方もなし。「かくては如何あるべき。」といひささやく程こそあれ、やがて人々の気色替はつて、唯、落ち支度の外は、するわざもなし。
 さる程に、これぞ宗徒の御用にも立ちぬべき伊勢の矢野下野守、熊野の湯川荘司、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎、降人になつて出でにけり。「城の案内、敵に知られなば、落つるとも落ち得じ。さらば、今夜主上を落とし参らせよ。」とて、五月十一日の夜半ばかりに、主上をば寮の御馬に乗せ参らせて、前後に兵ども打ち囲み、大和路へ向かつて落ちさせ給へば、数万の御敵、前を横切り後について、討ち留め参らせんとす。
 義に依つて命を軽んずる官軍ども、返し合はせては防ぎ、打ち破つては落とし参らするに、創を被つて腹を切り、踏み留まつて討死する者、三百人に及べり。その中に、宮一人、討たれさせ給ひぬ。四條大納言隆資、円明院大納言、三條中納言雅賢卿も討たれ給ひぬ。
 主上は、軍勢に紛れさせ給はんために、山本判官が参らせたりける黄糸の鎧をめして、栗毛なる馬にめされたるを、一宮弾正左衛門有種、追ひ懸け参らせて、「然るべき大将とこそ見参らせ候。きたなくも敵に追つたてられ、一度も返させ給はぬものかな。」と呼ばはりかけて、弓杖三杖ばかり近づきたりけるを、法性寺左兵衛督、屹と顧みて、「憎い奴原がいひ様かな。いで、己に手柄の程を見せん。」とて、馬より飛んで下り、四尺八寸の太刀を以て、兜の鉢を破れよ砕けよとぞ打たれたる。さしもしたたかなる一宮、尻居にどうと打ち据ゑられて、目くれ胆消えにければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上、遥かに落ち延びさせたまひにけり。
 古津川の端を西に添ひて、御馬を早めらるる処に、備前の松田、備後の宮入道が兵ども、二、三百騎にて取り篭め奉る。十方より雨の降る如く射る矢なれば、遁れ給ふべしとも見えざりけるが、天地神明の御加護もありけるにや、御鎧の袖、草摺に二筋当たりける矢も、かつて裏をぞかかざりける。法性寺左兵衛督、これまでも尚離れ参らせず、唯一騎供奉したりけるが、後より敵懸かれば、引き返して追ひ散らし、敵、前を遮れば、駆け破つて主上を落とし参らせける処に、いづくより来るとも知らず、御方の兵百騎ばかり、皆中黒の笠印つけて御馬の前後に候ひけるが、近づく敵を右往左往に追ひ散らして、かき消す様に失せにければ、主上は玉体恙なくして、東條へ落ちさせ給ひにけり。
 内侍所{*1}の櫃をば、初め賜ひて持ちたりける人が、田の中に捨てたりけるを、伯耆太郎左衛門長生{*2}、著けたる鎧を脱ぎ捨てて、自ら荷担したりける。後より追ふ敵ども、蒔き捨つる様に射ける矢なれば、御櫃の蓋に当たる音、板屋を過ぐる村雨の如し。されども身には一筋も立たざりければ、長生、とかくかかぐりつけて、賀名生の御所へぞ参りける。多くの矢ども、御櫃に当たりつれば、内侍所も矢や立たせ給ひたるらんと浅ましくて、御櫃を見参らせたれば、矢の痕は十三までありけるが、僅かに薄き桧木板を射徹す矢の一筋もなかりけるこそ不思議なれ。
 今度、偽つて京都を攻められんために、先づ住吉、天王寺へ{*3}行幸なりたりし時、児島三郎入道志純{*4}も召されて参りたりけるを、「これが一大事なれば、急ぎ東国北国に下つて、新田義貞が甥、子どもに義兵を起こさせ、小山、宇都宮以下、便宜の大名を語らひて、天下の大功を即時に致す様に智謀を巡らせ。」と仰せ出だされければ、志純、夜を日に継いで関東へ下りたれば、東国の合戦、早、事散じて、新田義興、義治は河村城に楯篭り、武蔵守義宗は越後国にぞ居たりける。
 勅使、東国北国に行き向ひて、「君、已に大敵に囲まれさせ給ひて、助けの兵、力疲れぬ。もし神竜化して、釣者のために捕らはれさせ給ひなば{*5}、天下、誰がためにか争はん。」と、義の重きに依つて命を軽んずべき習ひを申しければ、小山五郎、宇都宮少将入道も、「勅定に随ふなり。」とて、東国静謐の計略を巡らすべき由、約諾す。「義興、義治は、尚東国に止まつて将軍と戦ひ、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、吉良三郎満貞、石堂入道、東山東海北陸道の勢を率し、二手になつて上洛し、八幡の後詰めを致して、朝敵を千里の外に退くべし。」と、諸将の相図を定めて、勅使を先立ててぞ上りける。
 さる程に、新田武蔵守義宗は、四月二十七日、越後の津張より立つて七千余騎、越中の放正津に著けば、桃井播磨守直常、三千余騎にて馳せ参る。都合その勢一万余騎、五月{*6}十一日、前陣、已に能登国へ発向す。吉良三郎、石堂も、四月二十七日に駿河国を立つて、路次の軍勢を駆り催し、六千余騎を率して、五月十一日に先陣すでに美濃の垂井、赤坂につきしかば、八幡に力を合はせんと、遠篝をぞ焼きたりける。
 これのみならず、信濃宮{*7}も、神家、滋野、友野、上杉、仁科、祢津以下の軍勢を召し具して、同じき日に信濃を立たせ給ふ。伊予には土居、得能、兵船七百余艘に取り乗つて海上より攻め上る。東山北陸、四国九州の官軍ども皆、我が国々を立ちしかば、路次の遠近に依つて、たとひ五日三日の遅速はありとも、「後詰めの勢こそ近づきたれ。」といひたつ程ならば、八幡の寄せ手は皆退散すべかりしを、今四、五日待ちつけずして、主上は八幡を落ちさせ給ひしかば、国々の官軍も力を落としはて、皆、己が本国へぞ引き返しける。
 これも唯、天運の時到らず、神慮より事起こる故とはいひながら、とすれば違ふ宮方の運のほどこそ計られたれ{*8}。

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校訂者注
 1:底本は、「内侍所(ないしどころ)」。底本頭注に、「神鏡。」とある。
 2:底本頭注に、「名和長年の弟。」とある。
 3:底本は、「天王寺に行幸(ぎやうかう)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「高徳の入道した名。」とある。
 5:底本頭注に、「天皇を神竜に、武家を釣者に譬ふ。説苑九に『昔白竜下清冷之淵化為魚、漁者予旦射中其目。』」とある。
 6:底本は、「九月十一日」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
 7:底本頭注に、「宗良親王。」とある。
 8:底本は、「計られたり。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇とすれば違ふ云々 ともすれば所期に相違する天皇方の運命の程度。」とある。