山名右衛門佐敵となる事 附 武蔵将監自害の事

 山名右衛門佐師氏は、今度、八幡の軍に功あつて、「抽賞、我に勝る人あらじ。」と思はれける間、先年拝領して未だ当知行なかりける若狭国の斎所今積を、本の如く充て給ふべきよし、佐佐木佐渡判官入道道誉に属して申し達せんために、日々に彼の宿所へ行き給ひけれども、「今日は連歌の御会席にて候。」「唯今は茶の会の最中にて候。」とて、一度も対面に及ばず、数刻立たせ、暮まで待たせて、唯いたづらにぞ帰しける。
 度重なれば、右衛門佐、大きに腹立ちして、「周公旦は、文王の子、武王の弟たりしかども、髪を洗ふ時訴人来れば、髪を握つて遇ひ、飯を食する時賓客来れば、哺{*1}を吐いて対面し給ひけり。才乏しといへども、我、大樹{*2}の一門に列なる身たり。礼儀を存せば、沓をさかしまにしても庭に出で迎ひ、袴の腰を結び結びも、急ぎてこそ対面すべきに、この入道、かやうに無礼に振舞ふこそ、返す返すも遺恨なれ。所詮叶はぬ訴訟をすればこそ、諂ふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立つて伯耆へ下り、やがて謀叛を起こして天下を覆し、無礼なりつる者どもに思ひ知らせんずるものを。」とひとり言して、我が宿所へ帰ると等しく、郎等どもにかくともいはず、唯一騎、文和元年八月二十六日の夜半に、伯耆を指して落ちて行けば、相従ひし兵ども、聞き伝へて七百余騎、後を追つてぞ下りける。
 伯耆国に著かれければ、師氏、まづ親父左京大夫時氏のもとに行きて、「京都の沙汰の次第、面目を失ひつる間、将軍に暇をも申さず罷り下り候。」と語りければ、親父も大きに怒つて、やがて宮方の御旗を揚げ、先づ道誉が小目代にて吉田肥前が出雲国にありけるを、追ひ出だし、事の仔細を相触るるに、富田判官を始めとして、伊田、波多野、矢部、小幡に至るまで皆同意しければ、出雲、伯耆、隠岐、因幡、四箇国即時に打ち従へてけり。
 「さらば、やがて南方へ牒送せよ。」とて、吉野殿へ奏聞を経るに、「山陰道より攻め上らば、南方よりも官軍を出だされて、同時に京都を攻めらるべし。」と仰せ出だされければ、時氏、大きに悦んで、五月七日、伯耆国を立つて、但馬、丹後の勢を引き具して三千余騎、丹波路を経て攻めのぼる。かねて相図を指しければ{*3}、南方より総大将四條大納言隆俊、法性寺左兵衛督康長、和田、楠、原、蜂屋、赤松弾正少弼氏範{*4}、湯浅、貴志、藤波を始めとして、和泉、河内、大和、紀伊国の兵ども三千余騎、すぐり出だしければ、南は淀、鳥羽、赤井、大渡、西は梅津、桂の里、谷堂、峯堂、嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼きつづけたる篝火の影、幾千万といふ数を知らず。
 この時将軍、未だ上洛し給はで、鎌倉におはせしかば、京都、余りに無勢にて、大敵戦ふべき様もなかりけり。「中々なる軍して、敵に気を附けてはかなふまじ。」とて、土岐、佐々木の者ども、「頻りに江州へ引き退いて、勢多にて敵を相待たん。」と申しけるを、宰相中将義詮朝臣、「敵、大勢なればとて、一軍もせでいかが聞き逃げをばすべき。」とて、主上をば先づ山門の東坂本へ行幸なし参らせて、仁木、細川、土岐、佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷を後ろに当てて、敵を洛川{*5}の西に相待たる。「この陣の様、前に川あつて後ろに大山そばだちたれば、引き場の思ひはなけれども、韓信が兵書をさみして背水の陣を張りしに違へり。殊更、土岐、佐々木の兵、近江と美濃とを後ろに置いて戦はんに、引いて暫く気を休めばやと思はぬ事やあるべき。」と、未だ戦はざる前に、敵に心をぞはかられける。
 さる程に、文和二年六月九日卯の刻に、南方の官軍、吉良、石堂、和田、楠、原、蜂屋、赤松弾正少弼氏範三千余騎、八條九條の在家に火をかけて、相図の煙を上げたれば、山陰道の寄せ手、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、伊田、波多野五千余騎、梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七條に火をかけて、先づ京中へぞ寄せたりける。洛中には向ふ敵なければ、南方西国の兵ども、一所に打ち寄せて、四條河原に轡を並べて控へたり。
 これより遥かに敵の陣を見遣れば、鹿谷、神楽岡の南北に、家々の旗二、三百流れ翻つて、四つ目結の旗一流れ真先に進んで、真如堂の前に下り合ひたり。敵陣みな山に寄つて、木蔭に控へたり。勢の多少も見え分かず。和田、楠、法勝寺の西の門を打ち通つて河原に控へたりけるが、敵をおびき出だして勢の程を見んとて、射手の兵五百人、馬より下し、持楯畳楯つきしどみつきしどみ{*6}、閑かに田の畦を歩ませて、次第次第に相近づく。
 ここに佐々木の惣領氏頼、その頃、遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門尉、世務に代はつて国の権柄を執りしが、近江国の地頭御家人、この手に属して五百余騎ありけるが、楠が勢に招かれて、胡簶を敲き鬨の声を揚げ、喚いてかかる。楠が勢、陽に開き陰に囲みて、散散に射る。射れども佐々木が勢、ひるまず、錏を傾けて袖をかざし駆け入りけるを見て、山名が執事小林左京亮、七百余騎にて横合ひにあふ。佐々木勢、余りに手痛く駆けられて、叶はじとや思ひけん、神楽岡へ引き上ぐる。
 宮方、手合はせの軍に打ち勝つて、気を揚げ勇みに乗つて東の方を見たれば、土岐の桔梗一揆、水色の旗を差し上げ、大鍬形を夕陽に輝かし、魚鱗に連なりて六、七百騎が程、控へたり。小林、これを見て、人馬に息をも継がせず、やがて駆け合はせんとしけるを、山名右衛門佐、扇を揚げて招き止め、新手の兵千余騎を引きすぐつて相近づく。土岐も山名もしづしづと馬を歩ませて、一矢射違ふる程こそあれ、互に諸鐙を合はせて駆け入り、敵御方二千余騎、一度に颯と入り乱れて、弓手に逢ひ馬手に背き、半時ばかり切り合ひたるに、馬煙、虚空に廻つて、辻風、微塵を吹き立てたるに異ならず。太刀の鍔音、鬨の声、大山を崩し大地を動かして、「すはや、宮方打ち勝ちぬ。」と見えしかば、鞍の上空しき放れ馬四、五百匹、河より西へ走り出でて、山名が兵の鋒に首を貫かぬはなかりけり。
 細川相模守清氏、これ程御方の打ち負けたるを見ながら、少しも気を屈せず、尚勇み進んでぞ見えたりける。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠、皆新手なれば、細川と懸かり合つて、鴨川を西へ追ひ渡し、真如堂の前を東へ追ひ立てて、時移るまでぞ戦ひたる。千騎が一騎になるまでも引かじとこそ戦ひけれども、将軍の陣あらけ靡いて、後ろの御方、あひ遠になりければ、細川、遂に打ち負けて、四明峯へ引き上ぐる。
 赤松弾正少弼氏範は、いつも打ちこみの軍{*7}を好まぬ者なりければ、手勢ばかり五、六十騎引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落とす。「名もなき敵どもをば何百人切つても、よしなし。あはれ、よからんずる敵に逢はばや。」と願ひて、北白河を今路へ向つて歩ませ行く処に、洗革の鎧のつま取りたるに竜頭の兜の緒を締め、五尺ばかりなる太刀二振佩いて、歯の径八寸ばかりなる大鉞を振りかたげて、近づく敵あらば唯一撃ちに撃ちひしがんと、尻目に敵を睨んで閑かに落ち行く武者あり。
 赤松、遥かにこれを見て、「これは、聞こゆる長山遠江守{*8}ござんなれ。それならば、組んで討たばや。」と思ひければ、諸鐙合はせて後に追ひつき、「洗革の鎧は長山殿と見るは、僻目か。きたなくも敵に後ろを見せらるるものかな。」と、詞をかけて恥ぢしめければ、長山、屹とふり返つて、からからと打ち笑ひ、「問ふは誰とよ。」「赤松弾正少弼氏範よ。」「さてはよい敵。但し、汝を唯一撃ちに失はんずるこそかはゆけれ。念仏申して西に向へ。」とて、件の鉞を以て開き、兜の鉢を破れよ砕けよと、思ふ様に打ちける処を、氏範、太刀を平めて打ち背け、鉞の柄を左の小脇に挟みて、片手にて、「えいや。」とぞ引きたりける。引かれて、二匹の馬あひ近になりければ、互に太刀にては切らず、鉞を奪はん、奪はれじと引き合ひける程に、蛭巻したる樫の木の柄を、中よりづんと引き切つて、手元は長山が手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留まりける。
 長山、今までは、我に勝る大力あらじと思ひけるに、赤松に勢力を砕かれて、叶はじとや思ひけん、馬を早めて落ち延びぬ。氏範、大きに牙を噛みて、「詮なき力わざ故に、組んで討つべかりつる長山を、討ち漏らしつる事の無念さよ。よしよし、敵はいづれも同じ事。一人も亡ぼすにしかじ。」とて、奪ひ取つたる鉞にて、逃ぐる敵を追つ詰め追つ詰め切りけるに、兜の鉢を真向まで破り附けられずといふ者なし。流るる血には、斧の柄も朽つるばかりになりにけり。
 美濃勢には、土岐七郎を始めとして、桔梗一揆の衆九十七騎まで討たれぬ。近江勢には、伊庭八郎、蒲生将監、川曲三郎、蜂屋将監、多賀中務、平井孫八郎、儀俄五郎知秀以下、三十八騎討たれぬ。この外、粟飯原下野守、匹田能登守も討死しつ。後藤筑後守貞重も生け捕られぬ。討ち残されたる者とても、或いは創を被り、或いは矢種射尽くして、重ねて戦ふべしともおぼえざりければ、大将義詮朝臣も、日暮れて東坂本へ落ち給ふ。これまでも猶細川相模守清氏は、元の陣を引き退かず、人馬に息を継がせて、「我に同ずる御方あらば、今一度快く挑み戦ひて、雌雄をここに決せん。」とて、西坂本へ控へて、その夜は遂に落ち給はず。夜明けければ、宰相中将殿より使者を立てて、「重ねて合戦の評定あるべし。まづ東坂本へ打ち越えられ候へ。」と仰せられければ、「この上は、清氏一人留まつても甲斐なし。」とて、翌日早旦に東坂本へ参られける。
 この時、故武蔵守師直が思ひ者の腹に出来たりとて、武蔵将監{*9}といふ者、片田舎に隠れて居たりけるを、阿保肥前守忠実、荻野尾張守朝忠等、俄に取り立てて大将になし、丹波、丹後、但馬三箇国の勢三千余騎を集めて、宰相中将殿に力を合はせんために、西山の吉峯に陣を取つてぞ居たりける。京都の大敵にだにたやすく打ち勝つて、勇み勇みたる山名が兵どもなれば、なじかは少しもためらふべき。十一日の曙に吉峯へ押し寄せ、矢一つも射させず、抜き連れて切つて上がる。阿保、荻野が兵ども、余りに強く攻められて、一支へも支へず谷底へ懸け落とされければ、久下五郎を始めとして、討たるる者四十余人、創を被る者、数を知らず。希有にして逃げ延びたる者どもも、弓矢太刀長刀を取り捨てて、赤裸にて落ちて行く。見苦しかりし有様なり。
 武蔵将監は、二町ばかり落ち延びたりけるを、阿保と荻野と遥かに顧みて、「今は叶はぬ所にて候。御自害候へ。」と勧めける間、馬上にて腹掻き切り、さかさまに落ちて死ににけり。この首を取らんとて、敵、一所に打ち寄つてひしめきけるを、沼田小太郎、唯一騎返し合はせて戦ひけるが、敵は大勢なり、御方はつづかず。叶ふまじとや思ひけん、同じく腹掻き切つて、武蔵将監が死骸を枕にしてぞ伏したりける。その間に、阿保と荻野は落ち延びて、甲斐なき命を助かりけり。

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校訂者注
 1:底本は、「哺(ほ)」。底本頭注に、「口中の食物。」とある。
 2:底本は、「大樹(たいじゆ)」。底本頭注に、「将軍。」とある。
 3:底本頭注に、「期を約束したので。」とある。
 4:底本頭注に、「〇隆俊 隆資の子。」「〇康長 親康の子。」「〇氏範 円心の子。」とある。
 5:底本頭注に、「加茂川。」とある。
 6:底本頭注に、「隙なく楯をつき並べること。」とある。
 7:底本頭注に、「他人と共に入り雑つてする合戦。」とある。
 8:底本頭注に、「頼基。」とある。
 9:底本頭注に、「師詮。」とある。