主上義詮没落の事 附 佐々木秀綱討死の事
義詮朝臣は、かねて佐々木近江守秀綱を警固に備ふれば、「東坂本の事、心安かるべし。ここにて国々の勢をも催さん。」と議せられけるが、「吉野殿より大慈院の法印を、大将のために山門へ呼び寄せたり。」と沙汰しける間、「坂本を皇居になされんこと、悪しかるべし。」とて、同じき六月十三日、義詮朝臣、竜駕を守護し奉つて、東近江へ落ち給ふ。
行幸の供奉には二條前関白左大臣、三條大納言実継、西園寺大納言実俊、裏築地大納言忠秀、松殿大納言忠嗣、大炊御門中納言家信、四條中納言隆持、菊亭中納言公直、花山院中納言兼定、左大弁俊冬、右大弁経方、左中弁時光、勘解由次官行知、梶井二品親王に至らせ{*1}給ふまで、出世、坊官一人も残らず召し具せられ、竜駕の次に御輿を早めらる。武士には足利宰相中将義詮を大将にて、細川相模守清氏、尾張民部少輔、舎弟左京権大夫、同左近将監、今川駿河守頼貞、同兵部大輔助時、同左近蔵人、土岐大膳大夫頼康、熊谷備中守直鎮、佐々木山内五郎左衛門信詮、これ等を宗徒の人々として、都合その勢三千余騎、和仁、堅田の浜道に駒を早めてぞ落ちられける。
ここに故堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐が、この四、五年、堅田に隠れて居たりけるが、その辺の溢れ者どもを語らひて五百余人、真野浦に出で合つて、落ち行く敵を討ち止めんとす。真先には主上を擁護し奉りて、梶井二品親王、御門徒の大衆、済々と召し具して落ちさせ給へば、門主に所を置き奉りて、弓を引かず矢を放たず。この間、坂本の警固にて居たりける佐々木近江守秀綱、三百余騎にて遥かの後陣に通りけるを、「これは、山門の故敵、時の侍所なれば、これを討ち留めよ。」とて、堀口が兵五百余人、東西より引き包んで、足軽の射手、山に添ひ沢を隔てて散々に射ける間、佐々木三郎左衛門、箕浦次郎左衛門、寺田八郎左衛門、今村五郎、一所にて皆討たれにけり。
秀綱は、憑み切つたる一族若党どもが、後に踏み止まつて討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん、高尾四郎左衛門入道と二騎、馬の鼻を引き返して、敵の中へ駆け入つて、共にかち立ちの敵に馬の諸膝ながれて、落つる処にて討たれにければ、遥かに落ち延びたる若党ども三十七人、返し合はせ返し合はせ、所々にて討たれにけり。
その夜は、塩津に瑤輿を舁き留め奉りて、供奉の人々をも少し休め奉らんとせられけるを、塩津、海津の地下人ども、「軍勢、ここに一夜も逗留せば、事に触れて煩ひあるべし。」と思ひける間、ここの道辻かしこの岡山に取り上りて、鐘を鳴らし鬨を作りけるほどに、暫くの御逗留も叶はで、主上、又瑤輿に召されたれども、舁き参らすべき駕輿丁も、皆逃げ失せて一人もなければ、細川相模守清氏、馬より飛んで下り、かち立ちになり、鎧の上に主上を負ひ参らせて、塩津山をぞ越えられける。子推が股の肉を切り、趙盾が車の片輪を助けしも、この忠には過ぎじとぞ見えし。月卿雲客、或いは長汀の月に鞭をあげ、或いは曲浦の浪に棹さし給へば、「巴猿一たび叫んで船を明月峡のほとりに停め、胡馬忽ちにいばえて路を黄沙磧の内に失ふ。」と古人の書きし征路篇も、今こそ思ひ知られたれ。
これより東は路次の煩ひもなかりしかば、美濃の垂井宿の長者が家を皇居にして、義詮朝臣以下の官軍、皆四辺の在家に宿をとつて、皇居を警固し奉りけり。
山名伊豆守時氏京落ちの事
さる程に、山名右衛門佐師氏は、都の敵をたやすく攻め落として、心中の憤り、一時に解散しぬる心地して、喜悦の眉を開く事、理なり。「勢著かば、やがて濃州へ発向して、宰相中将殿を攻め奉らん。」と議せられけれども、降参する敵もなし、催促に応ずる兵も稀なり。あまつさへ洛中には、吉野殿より四條少将を成敗の体にて置かれたりける間、毎事、山名が計らひにも非ず。又、知行の所領も近辺になかりければ、出雲、伯耆より上り集まりたりし勢どもも、在京に疲れて漸々に落ち行きける程に、日を経て無勢になりにけり。
「かくては如何せん。かへつて敵に寄せられなば、我も都を落とされぬ。」と、内々仰天せられける処に、「義詮朝臣、東山東海北陸道の勢を率して、宇治、勢多より攻め上らる。」とも聞こえ、又、「赤松律師則祐が、中国より勢を率して上洛す。」とも聞こえければ、「四方の敵の近づかぬ先に、早く引き退け。」とて、数日の大功いたづらに、天下に時を得ざりしかば、四條少将は官軍を率して南方に帰り、山名は父子もろともに道を追ひ払つて、伯耆国へぞ下りける。
校訂者注
1:底本は、「親王(しんわう)至にらせ給ふ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
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