直冬上洛の事 附 鬼丸鬼切の事

 南方に再往の評定あつて、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を攻むべきよし、綸旨をなされければ、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、五千余騎の勢を率して、文和三年十二月十三日、伯耆国を立ち給ふ。
 山陰道悉く従ひ附きて、兵七千騎に及びしかば、「但馬国より杉原越に播磨へ打つて出で、まづ宰相中将義詮の鵤宿におはするをや打ち散らす。又、直に丹波へ懸かつて、仁木左京大夫頼章が佐野城に楯篭つて我等を支へんとするをや打ち落とす。」と評定しけるところへ、越中の桃井播磨守直常、越前の修理大夫高経のもとより飛脚同時に到来して、「ただ急ぎ京都へ攻め上られ候へ。北国の勢を引きて、同時に攻め上るべき」由を牒ぜられける間、「さらば、夜を日に継いで上らん。」とて、山名父子七千六百余騎、前後十里に支へて丹波国を打ち通るに、「仁木左京大夫頼章、当国の守護として敵を支へんために在国したる上、今は将軍の執事として、勢ひ人に超えたれば、丹波国にて定めて火を散らす程の合戦、五度も十度もあらんずらん。」とおぼえけるに、敵の勇鋭を見て、戦つては中々叶はじとや思ひけん、遂に矢の一つをも射懸けずして、城の麓をのさのさと通しければ、敵の嘲るのみならず、天下の口ずさみとぞなりにける。
 都にありとある程の兵をば、義詮朝臣に附けて播磨へ下され、遠国の勢は未だ上らず。将軍、「僅かなる小勢にて京中の合戦は、中々悪しかりぬ。」と、思慮かたがた深かりければ、「直冬、已に大江山を越ゆる。」と聞こえしかば、正月十二日の暮程に、将軍、主上を取り奉つて、江州の武佐寺へ落ち給ふ。そもそもこの君、御位に即かせ給ひて後、未だ三年を過ぎず。二度、都を落ちさせ給ひ、百官皆、他郷の雲にさまよひ給ふ。浅ましかりし世の中なり。
 さる程に同じき十三日、直冬、都に入り給へば、越中の桃井、越前の修理大夫、三千余騎にて上洛す。直冬朝臣、この七、八箇年、継母の讒に依つて、かなたこなた漂泊し給ひつるが、多年の蟄懐、一時に開けて、今、天下の武士に仰がれ給へば、唯、年に再び花さく木の、その根かるるは未だ知らず。春風三月、一城の人、皆狂するに異ならず。
 そもそも山名伊豆守は、若狭の所領の事に附いて、宰相中将殿に恨みあり。桃井播磨守は、故高倉禅門{*1}に属して望みを達せざる憤りあれば、この両人の敵になり給ひぬる事は、少しその謂はれあるべし。尾張修理大夫高経は、忠戦、自余の一門に超えしに依つて、将軍も、抽賞他に異にして、世、その仁を重くせしかば、何事に恨みあるべしともおぼえぬに、俄に今敵になつて、将軍の世を傾けんとし給ふ事、何の遺恨ぞと、事の起こりを尋ぬれば、先年、越前の足羽の合戦の時、この高経、朝敵の大将{*2}新田左中将義貞を討つて、源平累代の重宝に鬼丸、鬼切といふ二振の太刀を取り給ひたりしを、将軍、使者を以て、「これは、末々の源氏なんど持つべきものにあらず。急ぎこれをわたされ候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々仰せられけるを、高経、堅く惜しみて、「この二振の太刀をば、長崎の道場に預け置いて候ひしを、かの道場炎上の時、焼けて候。」とて、同じ寸の太刀を二振取り替へて、焼け損じてぞ出だされける。この事、ありのままに京都へ聞こえければ、将軍、大きに怒つて、朝敵の大将を討ちたりつる忠功、抜群なりといへども、さまでの恩賞をも行はれず、事に触れて面目なき事ども多かりける間、高経、これを憤りて、故高倉禅門の謀叛の時もこれに与し、今、直冬の上洛にも力を合はせて攻め上りたまひたりとぞ聞こえける。
 そもそもこの鬼丸と申す太刀は、北條四郎時政、天下を執つて四海を鎮めし後、たけ一尺ばかりなる小鬼、夜な夜な時政が跡枕に来て、夢ともなく現ともなく侵さんとする事、度々なり。修験の行者、加持すれども止まず。陰陽寮、封すれども立ち去らず。あまつさへ、これ故に時政、病を受けて身心苦しむ事、隙なし。或る夜の夢に、この太刀、一人の老翁に変じて告げて曰く、「我、常に汝を擁護する故に、かの妖怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を取りたりし{*3}に依つて、錆、身より出でて、抜かんとすれども叶はず。早くかの妖怪の者{*4}を退けんとならば、清浄ならん人をして、我が身の錆を拭ふべし。」と委しく教へて、老翁は又、元の太刀になりぬとぞ見えたりける。
 時政、夙に起きて、老翁の夢に示しつる如く、或る侍に水を浴びせてこの太刀の錆を拭はせ、未だ鞘にはささで、臥したる傍の柱にぞ立て掛けたりける。冬の事なれば、暖気を内に篭めんとて、火鉢を近く取り寄せたるに、据ゑたる台を見れば、銀を以てたけ一尺ばかりなる小鬼を鋳て、眼には水晶を入れ、歯には金をぞ沈めたる。時政、これを見るに、「この間、夜な夜な夢に来て我を悩ましつる鬼形の者は、さもこれに似たりつる者かな。」と、面影ある心地して目守り居たる処に、抜いて立てたりつる太刀、俄に倒れ懸かりて、この火鉢の台なる小鬼の頭を、かけず切つてぞ落としたる。誠にこの鬼や、化して人を悩ましけん、時政、忽ちに心地直りて、その後よりは鬼形の者、夢にもかつて見えざりけり。さてこそこの太刀を鬼丸と名づけて、高時の代に至るまで、身を放さず守りとなして、平氏の嫡家に伝はりける。
 相模入道{*5}、鎌倉の東勝寺にて自害に及びける時、この太刀を相模入道の次男、幼名亀寿に、「家の重宝なれば。」とて取らせて、信濃国へ祝部を憑みて落ち行く。建武二年八月に、鎌倉の合戦に打ち負けて、諏訪三河守を始めとして、宗徒の大名四十余人、大御堂の内に走り入り、顔の皮をはぎ自害したりし中に、この太刀ありければ、「定めて相模次郎時行も、この中に腹切つてぞあらん。」と、人皆、哀れに思ひ合へり。その時、この太刀を取つて新田殿に奉る。義貞、ななめならず悦んで、「これぞ聞こゆる、平氏の家に伝へたる鬼丸といふ重宝なり。」と秘蔵して持たれける剣なり。これは、奥州宮城郡の府に、三真国{*6}といふ鍛冶、三年精進潔斎して、七重に注連を引き、鍛うたる剣なり。
 又、鬼切と申すは、元は清和源氏の先祖、摂津守頼光の太刀にてぞありける。その昔、大和国宇多郡に大森あり。この蔭に、夜な夜な化け物あつて、往来の人を取り食らひ、牛馬六畜を掴み裂く。頼光、これを聞きて、郎等に渡辺源吾綱といひける者に、「かの化け物を討つて参れ。」とて、秘蔵の太刀をぞたびたりける。綱、則ち宇多郡に行き、甲胃を帯して、夜な夜な、くだんの森の蔭にぞ待ちたりける。この化け物、綱が勢ひにや恐れたりけん、敢へて眼に遮る事なし。「さらば、形を替へてたばからん。」と思ひて、髪を解き乱して覆ひ、鬘をかけ、鉄漿黒に大眉を作り、薄衣を打ち被きて、女の如くに出で立つて、朧月夜の曙に森の下をぞ通りける。
 俄に空掻き曇りて、森の上に物の立ち翔る様に見えけるが、虚空より綱が髪を掴んで、宙にひつ提げてぞ上がつたりける。綱、頼光のもとより賜はりたる太刀を抜いて、虚空を払ひ斬りにぞ切つたりける。雲の上に「あ。」といふ声して、血の颯と顔に懸かりけるが、毛の黒く生ひたる手の、指三つありて爪のかがまりたるを、二の腕よりかけず切つてぞ落としける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを秘して、朱の唐櫃に収めて置かれける後、夜な夜な恐ろしき夢を見給ひける間、占夢の博士に夢を問ひ給ひければ、『七日が間の重き御慎しみ。』とぞ占ひ申しける。これに依つて、堅く門戸を閉ぢて、七重に注連を引き、四門に十二人の番衆を据ゑて、毎夜、宿直蟇目{*7}をぞ射させける。
 物忌する事、已に七日に満じける夜、河内国高安里より、頼光の母儀おはして、門をぞ敲かせける。物忌の最中なれども、正しき老母の対面のためとて、遥々と来り給ひたれば力なく、門を開いて内へいざなひ入れ奉つて、夜もすがらの酒宴にぞ及びける。頼光、酔ひに和してこの事を語り出だされたるに、老母、持つたる杯を前に差し置き、「あな、おそろしや。我があたりの人も、この化け物に取られて、子は親に先立ち、婦は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、如何なるものにて候ぞ。あはれ、その手を見ばや。」と所望せられければ、頼光、「易き程の事にて候。」とて、櫃の中よりくだんの手を取り出だして、老母の前にぞ差し置きける。
 母、これを取つて、暫く見るよししけるが、我が右の手の臂より切られたるを差し出だして、「これは、我が手にて候ひける。」といひて、差し合はせ、忽ちにたけ二丈ばかりなる牛鬼となつて、酌に立つたりける綱を左の手にひつ提げながら、頼光に走り懸かりける。頼光、くだんの太刀を抜いて、牛鬼の頭をかけず斬つて落とす。その頭、宙に飛び揚がり、太刀の鋒を五寸喰ひ切つて、口に含みながら、半時ばかり跳り上がり跳り上がり、吠え怒りけるが、遂には地に落ちて死ににけり。そのむくろは尚、破風より飛び出でて、遥かの天に上がりけり。今に至るまで、渡辺党の家作りに破風をせざるは、この故なり。
 その頃、修験清浄の横川の僧都覚蓮を請じ奉つて、壇上にこの太刀を立て、注連を引き、七日加持し給ひければ、鋒五寸折れたりける剣に、天井より倶利伽羅{*8}下がり懸かりて、鋒を口に含みければ、忽ちに元の如く生ひ出でにけり。その後、この太刀、多田満仲{*9}が手に渡つて、信濃国戸蔵山にて又、鬼を切つたる事あり。これに依つて、その名を鬼切といふなり。
 この太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎大夫安綱といふ鍛冶、一心清浄の誠を致し、鍛ひ出だしたる剣なり。時の武将、田村将軍にこれを奉る。これは鈴鹿御前、田村将軍と鈴鹿山にて剣合はせの剣、これなり。その後、田村麿、伊勢大神宮へ参詣の時、大神宮より夢の告げを以て御所望あつて、御殿へ納めらる。その後、摂津守頼光、大神宮参詣の時、夢想あり。「汝にこの剣を与ふる。これを以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守りたるべし。」と示し給ひたる{*10}太刀なり。されば、源家に執せらるるも理なり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「直義。」とある。
 2:底本頭注に、「持明院の方から見れば義貞は朝敵である。」とある。
 3:底本は、「探りたりし」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 4:底本は、「妖怪(えうくわい)を」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「高時。」とある。
 6:底本は、「三(の)真国(さねくに)」。底本頭注に、「大原安守の子。」とある。
 7:底本は、「宿直蟇目(とのゐひきめ)」。底本頭注に、「夜番の武士をして用心の為に蟇目矢を射させること。」とある。
 8:底本頭注に、「不動明王の三摩耶形。」とある。
 9:底本頭注に、「満仲は頼光の父であるから、頼光から満仲に伝ふとするのは当らない。」とある。
 10:底本は、「示し給ひける太刀(たち)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。