神南合戦の事
さる程に、「将軍は、持明院の主上を守護し奉りて、近江国四十九院に落ち止まり、宰相中将義詮朝臣は、西国より上洛せんずる敵を支へんために、播磨の鵤にかねて在荘し給ひたり。」と聞こえしかば、土岐、佐々木、仁木右京大夫義長、三千余騎にて四十九院へ馳せ参る。四国、西国の兵二万余騎、鵤へ馳せ参る。畠山尾張守{*1}も、東八箇国の勢を率して、今日明日のほどに参著仕るべしと、飛脚度々に及ぶ由、申されければ、将軍父子の御勢ひ、唯、竜の天に翔つて雲を起こし、虎の山によりかかつて風を生ずるが如し。東西の牒使、相図の日を定めければ、将軍は、三万余騎の勢にて二月四日、東坂本に著きたまふ。義詮朝臣は七千余騎にて、同じき日の早旦に山崎の西、神南の北なる峯に陣を取り給ふ。
右兵衛佐直冬も、始めは、「大津、松本の辺に馳せ向つて合戦を致さん。」と議せられけるが、山門、三井寺の衆徒、皆将軍に志を通ずる由、聞こえければ、「唯、洛中にして東西に敵を受けて、見繕うて合戦を{*2}すべし。」とて、一手は右兵衛佐直冬を大将にて、尾張修理大夫高経、子息兵部少輔{*3}、桃井播磨守直常、その勢都合六千余騎、東寺を詰めの城に構へて、七條より下九條まで家々小路小路に充ち満ちたり。
一手は山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏を大将にて、伊田、波多野、石原、足立、河村、久世、土屋、福依、野田、藤沢、浅沼、大庭、福間、宇多川、海老名和泉守、吉岡安芸守、小幡出羽守、楯又太郎、加地三郎、後藤壱岐四郎、倭久修理亮、長門山城守、土師右京亮、毛利因幡守、佐治但馬守、塩見源太以下、その勢合はせて五千余騎、前に深田をあて、左に河をさかひて、淀、鳥羽、赤井、大渡に引き分け引き分け陣を取る。河より南には、四條中納言隆俊、法性寺右衛門督康長を大将として、吉良、石堂、原、蜂屋、赤松弾正少弼、和田、楠、真木、佐和、秋山、酒辺、宇野、崎山、佐美、陶器、岩郡、河野辺、福塚、橋本を始めとして、吉野の軍兵三千余騎、八幡の山下に陣を取る。山名右衛門佐師氏、始めの程は、「待つて戦はん。」とて議したりけるが、「神南の敵、さまでの大勢ならず。」と見すかして、日頃の議をひるがへして、八幡に控へたる南方の勢と一になつて、先づ神南宿に打ち寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯を堅めて、二の尾{*4}よりあげたりけり。
この陣、始めより三所に分かれて、西の尾崎をば赤松律師則祐子息弥次郎師範、五郎直頼、彦五郎範実、肥前権守朝範、並びに佐々木佐渡判官入道道誉が手の者、黄旗一揆、かれこれ合はせて二千余騎にて堅めたり。南の尾崎をば細川右馬頭頼之{*5}、同式部大輔、西国、中国の勢相共に、二千余騎にて堅めたり。北に当たりたる峯には、大将義詮朝臣の陣なれば、道誉、則祐以下の老武者、頭人、評定衆、奉行人、その勢三千余騎、油幕の内に敷皮を敷き並べ、袖を連ねて並み居たり。
嶮しき山の習ひとして、余所は見えて麓は見えず。「いづれの陣へか敵はまづ懸からん。」と、遠目仕うて目守り居たる所に、山名右衛門佐を始めとして、出雲、伯耆の勢二千余騎、西の尾崎へ唯一息に駆け上つて、一度に鬨をどつと作る。分内狭き両方の峯に、馬人身をそばむる程に打ち寄せたれば、互に射違ふる込み矢の外るるは一つもなし。
ここに、播磨国の住人後藤三郎左衛門尉基明といひける強弓の手垂れ、一段高き岩の上に走り上つて、三人張に十四束三伏、飽くまで引いて放ちけるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵ども進みかねて、少し白うてぞ見えたりける{*6}。これを利にして、佐々木が黄旗一揆の中より、大鍬形に一様の母衣かけたる武者三人、己が結ひたる鹿垣切つて押し破り、「日本一の大剛の者、近江国の住人江見勘解由左衛門尉{*7}、箕浦四郎左衛門、馬淵新左衛門、真先駆けて討死仕るぞ。死に残る人あらば、語つて子孫に名を伝へよ。」と、声々に名乗り呼ばはりて、斬り死ににこそ死ににけれ。
後藤三郎左衛門尉基明、一宮弾正左衛門有種、粟飯原彦五郎、海老名新左衛門、四人、高声に名のつて川を渡し、城へ切つて入る。「合戦こそ先駆けは一人に定まれ、かやうの広みの軍には、敵と一番に討ち違へたるを以て先駆けとは申すぞ。御方に一人も死に残る人あらば、証拠に立つてたび候へ。」と呼ばはりて、寄せ手数万の中へ唯四人、切つて入る。
右衛門佐、大音声を揚げて、「前陣、戦ひ疲れて見ゆるぞ。後陣入り替はつて、かの敵討て。」と下知すれば、伊田、波多野の早り雄の若武者ども二十余人、馬より飛び下り飛び下り、勇み勇んで抜き連れて渡り合ふ。後ろには数万の敵、「御方続くぞ、引くな。」と力を合はせて喚き叫ぶ。前には五十余人の者ども、颯と入り乱れて切り合ふ。太刀の鐔音、鎧突き{*8}、山彦に響き、暫しもやむ時なければ、山嶽崩れて川谷を埋づむかとこそ聞こえけれ。この時、後藤三郎左衛門已下、面に立つ程の兵、五十余人討たれにけり。
二陣の南尾をば、細川右馬頭、同式部大輔、大将にて、四国中国の兵どもが二千余騎にて固めたりけるが、これは殊更、地さがり谷深く切れて、敵の上るべき便りなしと思ひける処に、山名伊豆守を先として、小林民部丞、小幡、浅沼、和田、楠、和泉、河内、但馬、丹後、因幡の兵ども、三千余騎にてさしも嶮しき山路を、つづら折りにぞ上りたりける。この陣には未だ鹿垣の一重も結はざれば、両方鬨の声を合はせて矢一筋射違ふる程こそありけれ、やがて打物になつて乱れ合ふ。
先づ一番に進んで戦ひける四国勢の中に、秋間兵庫助兄弟三人、生稲四郎左衛門一族十二人、一足も引かで討たれにけり。これを見て坂東、坂西、藤家、橘家の者ども、少しあぐんで見えけるを、備前国の住人須々木三郎左衛門父子兄弟六人、入り替はつて戦ひけるが、続く御方なければ、これも一所にて{*9}討たれにけり。これより一陣二陣共に色めき、兵しどろに見えけるを、小林民部丞、得たり賢しと勝つに乗つて、短兵急にとり拉がんと、揉みに揉うで攻めける間、四国中国の三千余騎、山より北へ捲り落とされて、遥かに深き谷底へ、人なだれをつかせて落ち重なれば、敵に逢ひて討死する者は少なしといへども、己が太刀長刀に貫かれて死する兵、数を知らず。
これを見て山名右衛門佐、いよいよ気に乗つて真先に進む上は、相随ふ兵ども、誰かは少しも擬議すべき。我先に敵に合はんと、争ひ進まずといふ者なし。中にも山名が郎等、因幡国の住人に福間三郎とて、世に名を知られたる大力のありけるが、七尺三寸の太刀、だびら広に作りたるを、鐔本三尺ばかり置いて蛤歯に掻き合はせ、伏縄目の鎧に三鍬形{*10}打つたる兜を猪頚に著なし、小跳りして片手打の払ひ切りに切つて上りけるに、太刀の歯に当たる敵は、胴中、諸膝かけて切つて落とされ、太刀の峯にあたる兵は、或いは宙にづんど打ち上げられ、或いは尻居にどうと打ち倒されて、血を吐いてこそ死ににけれ。
両陣、已に破れし後、兵皆乱れて、「総大将の御勢と一所にならん。」と崩れ落ちて引きける間、伊田、波多野の者ども、「余すな、洩らすな。」と喚き叫んで追つ懸けたり。石巌苔滑らかにして荊棘道を塞ぎたれば、引く者も延び得ず、返す兵、敢へて討たれずといふ事なし。赤松弥次郎、舎弟五郎、同彦五郎三人、引き留まりて、「ここを返さで引く程ならば、誰かは一人生き残るべき。命惜しくば返せや、殿原。返せや、一揆の人々。」と恥ぢしめて罵りけれども、踏み留まる者なかりければ、小国播磨守、伊勢左衛門太郎、匹壇藤六、魚角大夫房、佐々木弾正忠、同能登権守、新谷入道、薦田弾正左衛門、河勾弥七、瓶尻兵庫助、粟生田左衛門次郎、返し合はせ返し合はせ、所々にて討たれにけり。
河原兵庫助重行は、「今度の軍に打ち負けば、必ず討死せん。」と、かねてより思ひ儲けけるにや、敵の已に押し寄せんと、方々より打ち寄するを見て申しけるは、「今日の合戦は、我が身一人の喜びかな。元暦のいにしへ、平家、一谷に篭りしを攻めし時、一の城戸、生田森の前にて、某が先祖河原太郎、河原次郎二人、城の木戸を乗り越えて討死したりしも、二月なり。国も替はらず月日も違はず、重行、同じく討死して、いよいよ先祖の高名を顕はさば、冥途黄泉の道のちまたに行き合ひて、その尊霊、さこそ悦び給はんずらめ。」と、涙を流して申しけるが、云ひつる詞、少しも違はず、数万人の敵の中へ唯一騎駆け入つて、終に討死しけるこそ哀れなれ。
赤松肥前権守朝範は、この陣を一番に破られぬる事、身一人の恥と思ひければ、袖につけたる笠印を引き隠して、敵の中へ交じはつて、「よき敵に逢はば、討ち違へて死なん。」と伺ひ見ける処に、山名右衛門佐が、引く敵を追つ立てて、「敵を少しも足をためさせずして、唯、いづくまでも追ひ詰め追ひ詰め討つて、先へ通れ。」と兵を下知して、弓手の方を通りけるを、朝範、吃と打ち見て、「あはれ、敵や。」といふままに、走り懸かつて追つ様に、右衛門佐が兜を破れよ砕けよと、したたかにちやうと打つ。打たれて吃と振り返れば、山名が若党三人、中に隔てて、肥前守が兜を重ね打ちに打つて打ち落とす。落ちたる兜を取つて著んとて、差しうつぶく処に、小鬢の外れ、小耳の上、三太刀まで切られければ、流るる血に目昏れて、朝範、犬居{*11}にどつと伏せば、敵、押さへて、とどめを刺してぞ捨てたりける。されどもこの人、死業や来らざりけん、敵、首をも取らず。軍散じて後、草の蔭より生き出でて助かりけるこそ不思議なれ。
一陣二陣、忽ちに攻め破られて、山名、いよいよ勝つに乗りければ、峯々に控へたる国々の集め勢ども、未だ戦はざる先に、捨て鞭を打ちて落ち行きける程に、大将羽林公{*12}の陣のあたりには、僅かに勢百騎ばかりぞ残りける。これまでもなほ、佐々木判官入道道誉、赤松律師則祐二人、少しも気を屈せず、敷皮の上に居直りて、「いづくへか一足も引き候べき。唯、我等が討死仕つて候はんずるを御覧ぜられて後、御自害候へ。」と、大将を置き奉つて、いよいよ勇みてぞ見えたりける。
大将の陣、無勢になりて、しかも四目結の旗一流れありと見えければ、山名、大きに悦びてまうしけるは、「そもそも我、この乱を起こす事、天下を傾け将軍を滅ぼし奉らんと思ふにあらず。唯、道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思ふばかりなり。ここに四目結の旗は、道誉にてぞあるらん。これ、天の与へたる処の幸ひなり。自余の敵に目なかけそ。あの首取つて我に見せよ。」と、歯噛みをして進まれければ、六千余騎の兵ども、我先にと勇み進んで、大将の陣へ打つて懸かる。
敵の近づく事二町ばかりになりにければ{*13}、赤松律師則祐、帷幕を颯と打ち挙げて、「天下の勝負、この軍にあらずや。いつのためにか命を惜しむべき。名将の御前にて紛れもなく討死して、後記にとどめよや。」と下知しければ、「承り候。」とて、平塚次郎、内藤与次、近藤大蔵丞、今村宗五郎、湯浅新兵衛尉、大塩次郎、曽祢四郎左衛門、七人、大将の御前をばらばらと立つて、抜いてかかる{*14}。敵に射手は一人もなし、向ふ敵を御方の射手に射すくめさせて、七人の者ども、鎧の射向の袖ゆり合はせ、跳り懸かり跳り懸かり、鍔本に火を散らし、鋒に血を注いで切つて廻りけるに、山名が先駆けの兵四人、目の前に討たれて、三十人深手を負ひければ、後に続ける三百余人、進みかねてぞ見えたりける。これを見て、平井新左衛門景範、櫛橋三郎左衛門尉、桜田左衛門俊秀、大野弾正忠氏永、声々に、「続くぞ、引くな。」と、御方の兵に力をつけて、喚いてぞかけたりける。かさに敵をうけたる{*15}かち立ちの勢なれば、新手の馬武者に中を駆け破られて、足をもためず、両方の谷へなだれ下りて引くを見て、初め一陣二陣にて打ち散されつる四国中国の兵、ここかしこより馳せ来つて、忽ちに千余騎になりにけり。
山名右衛門佐、後なる勢をさし招いて、猶駆け入らんと四方を見廻す処に、南方の官軍ども、後に千余騎にて控へたりけるが、何といふ儀もなく、崩れ落ちて引きける間、矢種尽き気疲れたる山名が勢、心は猛く思へども叶はず。心ならず御方に引き立てられて、山崎を指して引き退く。敵、かへつて勝つに乗りしかば、嶺々谷々より五百騎三百騎、道を横たへ前を遮つて、蜘手十文字に駆け立つる。
中にも内海十郎範秀は、逃ぐる敵に追ひすがうて、兜の鉢、鎧の総角、切り附け切り附け行きけるが、鐔本より太刀をば打ち折りぬ、馬は疲れぬ、かち立ちになつてぞ立つたりける。弓手の方を屹と見たれば、さも爽やかに鎧うたる武者一騎、三引両の笠印著けて馳せ通りけるを、「あはれ、敵や。」と打ち見て、馬の三頭にゆらりと飛び乗り、敵と二人、馬にぞ乗つたりける。敵、これを御方ぞと心得て、「誰にておはするぞ。手負ならば、我が腰に強く抱き附きたまへ。助け奉らん。」といひければ、「悦び入つて候。」といひもはてず、刀を抜いて前なる敵の首を掻き落とし、やがてその馬に打ち乗つて、落ち行く敵を追つて行く。
山名右衛門佐が兵ども、始め因幡を立ちしより、「今度は必ず都にて骸を曝さん。」と思ひ儲けし事なれば、伊田、波多野、多賀谷、浅沼、藤山、土屋、福依、石原、久世、竹中、足立、河村、首藤、大庭、福塚、佐野、火作、宇多、河沢、敷美以下、宗徒の侍八十四人、その一族郎従二百六十三人、返し合はせ返し合はせ、四、五町が中にて討たれにけり。
右衛門佐は、小林民部丞が後に踏み止まつて防矢射けるを、討たせじと、七騎にて又取つて返し、大勢の中へ駆け入つて、面も振らず戦はれける程に、左の眼を小耳の根へ射附られて、目くれ肝消えければ、太刀をさかさまに突いて、少し心地を取り直さんとせられける処に、敵の雨の降る如く射る矢、馬の太腹、草脇{*16}に五筋まで立ちければ、小膝を折つてどうと伏す。馬より下りたちて、鎧の草摺畳み上げて、腰の刀を抜いて自害をせんとし給ひけるを、河村弾正、馳せ寄つて己が馬に掻き乗せ、福間三郎が戦ひ疲れて、とある岩の上に休みて居たりけるを招いて、右衛門佐の馬の口を引かせ、河村は、かち立ちになつて、追つて懸かる敵に走り懸かり走り懸かり、切り死ににこそ死ににけれ。
右衛門佐は、乗替の馬に乗つて、ちと人心はつきたれども、流るる血、目に入つて、東西更に見えざりければ、「馬廻りに誰かある。この馬の口を敵の方へ引き向けよ。馳せ入り、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」といさみけるを、福間三郎、「こなたが敵の方にて候。」とて、馬の口を下り頭に引き向け、自ら馬手の七寸{*17}に附きて、小砂まじりの小篠原を三町ばかり馳せ落ちて、御方の勢にぞ加はりける。ここまでは追つてかかる敵もなし。その後、軍は止みにけり。
右衛門佐は、淀へ打ち帰つて、この軍に討たれつる者どもの名字を一々に書き註して、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提をぞ{*18}弔はせられける。中にも、「河村弾正忠は、我が命に代はつて討たれつる者なれば。」とて、懸けたる首を敵に乞ひ受けて、空しき顔を一目見て、涙を流してくどかれけるは、「我、この乱を起こして天下を覆へさんとせし始めより、御辺が我を以て父の如く憑み、我は御辺を子の如くに思ひき。されば、戦場に臨む度毎に、御辺生きば我も生き、御辺討死せば我も死なんとこそ契りしに、人は義に依つて我がために死し、我は命を助けられて人の後に生き残りたる恥づかしさよ。苔の下、草の蔭にても、さこそいふかひなく思ひ給ふらめ。末の露と先立ち、本の滴と後るるとも、再会は必ず九品浄土の台にあるべし。」と、泣く泣く鬢を掻き撫でて、聖一人請じ寄せて、今まで秘蔵して乗られたる白瓦毛の馬に白鞍置きて、葬馬に引かせ、白太刀一振、聖に与へて、討死しつる河村が後生菩提を弔はれける、情の程こそあり難けれ。
昔、唐の太宗、戦ひに臨みて戦士を重くせしに、血を含み創を吸ふのみにあらず、亡卒の遺骸をば帛を散じて収めしも、かくやとおぼえてあはれなり。
校訂者注
1:底本頭注に、「義深か。」とある。
2:底本は、「合戦すべし」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
3:底本頭注に、「氏経か。」とある。
4:底本頭注に、「第二の峯。」とある。
5:底本頭注に、「〇尾崎 頼春の子峯の端の突出した処。」「〇頼之 頼春の子。」とある。
6:底本頭注に、「白うては白みて。しらけての意。」とある。
7:底本頭注に、「信直。」とある。
8:底本頭注に、「矢が裏まで貫通せぬやうに鎧をつき動かすこと。」とある。
9:底本は、「一所に討たれ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
10:底本頭注に、「〇だびら広 刀のかさね厚く幅広なのを云ふ。」「〇蛤歯 刀に未だ刃を合はせぬを云ふ。」「〇三鍬形 山字のやうに常の鍬形に剣頭形の立てあるもの。」とある。
11:底本は、「犬居(いぬゐ)」。底本頭注に、「犬の蹲るやうに四つ這ひになること。」とある。
12:底本頭注に、「足利義詮。」とある。
13:底本は、「なりければ、」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
14:底本は、「ばら(二字以上の繰り返し記号)と抜けてかゝる。」。『太平記 五』(1988年)に従い補い、改めた。
15:底本頭注に、「高所から落すやうに敵を受けた。」とある。
16:底本は、「草脇(くさわき)」。底本頭注に、「馬の前胸部。」とある。
17:底本は、「七寸(みづつき)」。底本頭注に、「承鞚。手綱の端を承ける轡の孔の称。」とある。
18:底本は、「後世菩提(ごせぼだい)を弔(とぶら)はせられける。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
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