巻第三十三
京軍の事
「昨日、神南の合戦に山名打ち負けて、本陣へ引き返しぬ。」と聞こえしかば、将軍、比叡山をおり下つて、三万余騎の勢を率し、東山に陣をとる。仁木左京大夫頼章は、丹後、丹波の勢三千余騎を従へて、嵐山に取り上る。京より南、淀、鳥羽、赤井、八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山、西山、山崎、西岡は、皆将軍方の陣となる。その中にありとあらゆる神社仏閣は、役所の垣楯のために毀たれ、山林竹木は、薪櫓の料に切り尽くさる。「京中をば、敵、横合ひに駆くる時、見透かす様になせ。」とて、東山より寄せて、日々夜々に焼き払ふ。「白河をば、敵を雨露に侵させて、人馬に気を尽くさせよ。」とて、東寺より寄せて焼き払ふ。僅かに残る竹苑、椒庭、里内裏、三台九棘{*1}の宿所宿所、皆門戸を閉ぢて人もなければ、野干{*2}の住みかとなりはて、荊棘、扉を覆へり。
さる程に二月八日、細川相模守清氏、千余騎にて四條大宮へ押し寄せ、北陸道の敵八百余騎に懸け合つて、追つつ返しつ日ねもす戦ひ暮らして、左右へ颯と引き退くところに、紺糸の鎧に紫の母衣懸けて、黒瓦毛なる馬に厚総懸けて乗つたる武者、年の程四十ばかりに見えたるが、唯一騎、馬をしづしづと歩ませ寄せて、「今日の合戦に、進む時は士卒に先だつて進み、引く時は士卒に後れて引かれ候ひつるは、いかさま、細川相模守殿にてぞおはすらん。声を聞きても、我を誰とは知り給はんずれども、日、已に夕陽になりぬれば、分明に見分くる人もなくて、あはぬ敵にや逢はんずらんと存ずる間、事新しく名のり申すなり。これは、今度北陸道を打ち従へて罷り上りて候、桃井播磨守直常にて候ぞ。あはれ、相模殿に参り会ひて、日頃承り及びし力の程をも見奉り、直常が太刀の金をも御覧候へかし。」と高声に名のりかけて、馬を北頭に立ててぞ控へたる。
相模守は、元来、敵に少しも詞を懸けられて、たまらぬ気の人なりければ、「桃井。」と名のりたるを聞きて、少しも擬議せず。これも唯一騎、馬を引き返して歩ませ寄する。あひ近になりければ、互に、「あはれ、敵や。天下の勝負、唯、我と彼とが死生にあるべし。馬を駆け合はせ、組んで勝負をせん。」と、鎧の綿噛を掴んで引きつけたるに、詞には似ず、桃井が力、弱くおぼえければ、兜を引き切つて投げ捨て、鞍の前輪に押し当てて、首掻き切つてぞ差し挙げたる。
やがて、相模守の郎従十四、五騎来りたるに、この首と母衣とを持たせて将軍の御前へ参り、「清氏こそ、桃井播磨守を討つて候へ。」とて、軍の様を申されければ、蝋燭を明らかに燃し、これを見給ふに、年の程は、さもやとおぼえながら、さすがそれとは見えず。「田舎に住んで、早、多年になりぬれば、面変はりしけるにや。」と不審して、昨日降人に出でたりける八田左衛門太郎といひける者を召され、「これをば誰が首とか見知りたる。」と問はれければ、八田、この首を一目見て、涙をはらはらと流し、「これは、越中国の住人に二宮兵庫助と申す者の首にて候。去月に越前の敦賀に著きて候ひし時、この二宮、気比大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木、細川の人々と見る程ならば、我、桃井と名のつて、組んで勝負を仕るべし。これ、もし偽り申さば、今生にては永く弓矢の名を失ひ、後生にては無間の業を受くべしと、一紙の起請を書きて宝殿の柱に押して候ひしが、果たして討死仕りけるにこそ。」と申しければ、その母衣を取り寄せて見給ふに、実にも、「越中国の住人二宮兵庫助、骸を戦場に曝し、名を末代に留む。」とぞ書きたりける。「昔の実盛は、鬢鬚を染めて敵にあひ、今の二宮は、名字を替へて命をすつ。時代隔たるといへども、その志、相同じ。あはれ、剛の者かな。」と、惜しまぬ人こそなかりけれ。
二月十五日の朝は、東山の勢ども、上京へ打ち入つて兵粮を取るよし聞こえければ、「蹴散らかさん。」とて、苦桃兵部大輔、尾張左衛門佐、五百余騎にて東寺を打ち出で、一條二條の間を二手になつて打ち廻る。これを見て細川相模守清氏、佐々木黒田判官、七百余騎にて東山よりおり下る。尾張左衛門佐が後陣に、朝倉下野守{*3}が五十騎ばかりにて通りけるを、「追つ詰めて討たん。」と、六條河原より京中へ駆け入る。朝倉、少しも騒がず、馬を東頭に立て直して、閑かに敵を待ちかけたり。
細川、黒田が大勢、これを見て、あなづりにくしとや思ひけん、あはひ半町ばかりになつて、馬を一足に颯とかけ据ゑて、同音に鬨をどつと作る。朝倉、少しも擬議せず、大勢の中へ駆け入つて、馬煙を立てて切り合ふ。左衛門佐、これを見て、「朝倉討たすな、つづけ。」とて、三百余騎にて取つて返し、六條東洞院を東へ、烏丸を西へ、追つつ返しつ七、八度までぞ揉み合ひたる。細川、度毎に追つ立てらるる体に見えけるに、南部六郎とて世に勝れたる兵ありけるが、唯一騎踏み止まつては戦ひ、返し合うては切つて落とし、八方を捲りて戦ひけるに、左衛門佐の兵ども、箆白になつてぞ見えたりける。
左衛門佐の兵の中に三村首藤左衛門、後藤掃部助、西塔金乗坊とて、手番うたる{*4}勇士五騎あり。互に屹と眼くばせして、南部に組まんと相近づく。南部、尻目に見て、からからと打ち笑ひ、「物々しの人々かな。いで、胴切つて太刀の金の程見せん。」とて、五尺六寸の太刀を以て開いて、片手打ちに、しとと打つ。金乗房、透間なく、つと懸け寄つてむずと組む。南部、元来、大力なれば、金乗を取つて宙に差し上げたれども、人飛礫に打つまでは、さすが叶はず。太刀の寸延びたれば、手元近うして、さげ切りにもせられず、ただ押し殺さんとや思ひけん、築地の腹に押し当てて、「えいや、えいや。」と押しけるに、己が乗つたる馬、尻居にどうと倒れければ、馬は南部が引敷の下に在りながら、二人引つ組んで伏したり。四騎の兵、馳せ寄りて、遂に南部を討つてければ、金乗、南部が首を取つて、鋒に貫きて馳せ返る。これにて軍は止みて、敵御方、相引きに京白川へぞ帰りにける。
又、同じき日の晩景に、仁木右京大夫義長、土岐大膳大夫頼康、その勢三千余騎にて七條河原へ押し寄せ、桃井播磨守直常、赤松弾正少弼氏範、原、蜂屋が勢二千余騎と寄り合はせて、河原三町を東西へ追つつ返しつ、煙塵を捲いて戦ふ事、二十余度に及べり。中にも桃井播磨守が兵ども、半ば過ぎて創を被りければ、新手を替へて相助けんために東寺へ引き返しける程に、土岐の桔梗一揆百余騎に攻め立てられ、返し合はする者は切つて落とされ、城へ引き篭る者は、城戸、逆茂木にせかれ、入り得ず。城中、騒ぎあわてて、「すはや、唯今この城、攻め落とされぬ。」とぞ見えたりける。
赤松弾正少弼氏範は、郎等小牧五郎左衛門が痛手を負ひて引きかねたるを助けんと、馬の上より手を引き立てて歩ませけるを、大将直冬朝臣、高櫓の上より遥かに見給ひて、「返して御方を助けよ。」と、扇を揚げて二、三度まで招かれける間、氏範、小牧五郎左衛門をかい掴んで、城戸の内へ投げ入れ、五尺七寸の太刀の鐔本取り延べて、唯一騎返し合はせ返し合はせ、馳せ並べ馳せ並べ切りけるに、或いは兜の鉢を立て破りに胸板まで破りつけられ、或いは胴中を瓜切り{*5}に斬つて落とされける程に、さしも勇める桔梗一揆、かなはじとや思ひけん、七條河原へ引き退いて、その日の軍は止みにけり。
三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原、相集まつて七千余騎、七條西洞院へ押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、将軍より使者を立てられて、「那須五郎を罷り向かはすべし。」と仰せられける。那須は、この合戦に打ち出でける始め、故郷の老母のもとへ人を下して、「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となつて、草の蔭、苔の下までも御歎きあらんを見奉らんずることこそ、思ひ遣るも悲しく存じ候へ。」と申し遣はしたりければ、老母、泣く泣く委細に返事を書いて申し送りけるは、「古より今に至るまで、武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず。皆これ、妻子に名残を慕ひ、父母に別れを悲しむといへども、家を思ひ嘲りを恥づる故に、惜しかるべき命を捨つるものなり。始め身体髪膚を我に受けて、損なひ破らざりしかば、その孝、已に顕はれぬ。今又、身を立て道を行ひて、名を後の世に揚ぐるは、これ孝の終はりたるべし。されば、今度の合戦に相構へて身命を軽んじて、先祖の名を失ふべからず。これは、元暦の古、曩祖那須与一資高{*6}、八島の合戦の時、扇を射て名を揚げたりし時の母衣なり。」とて、薄紅の母衣を錦の袋に入れてぞ送りたりける。
さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましける処に、将軍より別して使を立てられ、「この陣の戦ひ、難儀に及ぶ。向つて敵を払へ。」と、余儀なくも仰せられければ、那須、かつて一議も申さず、畏まりて領状す。唯今、御方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられて、敵皆、勇み進める真中へ、会釈もなく駆け入つて、兄弟三人一族郎従三十六騎、一足も引かず討死しける。
那須が討死に、「東寺の敵、機に乗らば、合戦又、難儀になりぬ。」と危ふくおぼえける処に、佐々木六角判官入道崇永と相模守清氏と、両勢一手になつて、七條大宮へ駆け抜け、敵を西にうけ東に顧みて、入り替はり入り替はり、半時ばかりぞ戦ひたる。東寺の敵も、ここを先途と思ひけるにや、戒光寺の前に垣楯掻きて、打ち出で打ち出で、火を散らして戦ひけるに、相模守、薄手あまた所に負ひて、「すはや、討たれぬ。」と見えければ、崇永、いよいよ進みて、これを討たせじと戦うたる{*7}。
かかる処に、土岐桔梗一揆五百余騎にて、「新手に替はらん。」と進みけるを見て、敵も新手をや憑みけん、垣楯の蔭をはつと捨て、半町ばかりぞ引いたりける。「敵に息を継がせば、又立て直す事もこそあれ。」とて、佐々木と土岐と垣楯の内へ入つて、敵の陣に入り替はらんとしけるが、廻る程も猶遅くやおぼえけん、佐々木が旗差堀次郎{*8}、竿ながら旗を内へ投げ入れて、己が身は、やがて垣楯を上り越えてぞ入つたりける。その後、相模守と桔梗一揆と、左右より廻つて垣楯の中へ入り、南に楯を突き並べて、三千余騎を一所に集め、向ひ城の如くにて踏まへたれば、東寺に篭る敵軍の勢、気を屈し勢を呑まれて、城戸より外へ出でざりけり。
京中の合戦は、かくの如く数日に及びて、雌雄日々に替はり、安否今にありと見えけれども、時の管領仁木左京大夫頼章は、一度も桂川より東へ打ち越えず。唯、嵐山より遥かに見下して、御方の勝ちげに見ゆる時は、延び上がりて悦び、負くるかと思しき時は、色を変じて落ち支度の外は他事なし。同じ陣にありける備中の守護飽庭ばかりぞ、余りに見かねて、己が手勢ばかりを引き分けて、度々の合戦をばしたりける。
されども、大廈は一本の支ふる処にあらず。山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲まれ、東山北陸の両道は、将軍の大勢に塞がれて、僅かに河内路より外は、あきたる方なかりければ、兵粮運送の道も絶えぬ。重ねて攻め上るべき助けの兵どももなし。合戦は、今まで互角なれども、将軍の勢、日々に随つて重なる。「かくては始終叶はじ。」とて、三月十三日の夜に入つて、右兵衛佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引きて、八幡、住吉、天王寺、境浦へぞ落ちられける。
校訂者注
1:底本は、「三台九棘(だいきうきよく)」。底本頭注に、「三公九卿に同じ。公卿の事。」とある。
2:底本は、「野干(やかん)」。底本頭注に、「狐。」とある。
3:底本頭注に、「正景。広景の子。」とある。
4:底本は、「手番(てつが)うたる」。底本頭注に、「打揃ひたる。」とある。
5:底本頭注に、「瓜を切るやうに二つ割りにすること。」とある。
6:底本頭注に、「平家物語に『宗高。』とす。」とある。
7:底本は、「戦ひける。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本は、「旗差(はたさし)堀(の)次郎」。底本頭注に、「〇旗差 馬に乗つて大将の旗を持つ兵。」「〇堀次郎 時貞。」とある。
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