八幡御託宣の事

 ここにて落ち集まりたる勢を見れば、五万騎に余れり。「この上に、伊賀、伊勢、和泉、紀伊国の勢ども、猶馳せ集まるべし。」と聞こえしかば、「暫くこの勢を散らさで、今一合戦あるべきか。」と、諸大将の意見まちまちなりけるを、直冬朝臣、「許否、凡慮の及ぶ処にあらず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の詞について軍の吉凶を知るべし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋蘩{*1}を勧めて、則ち神の告げをぞ待たれける。社人の打つ鼓の声、きね{*2}が袖ふる鈴の音、更け行く月に神さびて、聞く人、信心を傾けたり。託宣の神子{*3}、啓白の句、詞巧みに玉を連ねて、様様の事どもを申しけるが、
  たらちねの親をまもりの神なればこの手向けをばうくるものかは
と一首の神歌を繰り返し繰り返し二、三遍詠じて、その後、御神はあがらせ給ひにけり。諸大将、これを聞きて、「さては、この兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶ふまじかりけり。」とて、東山、北陸道の勢は、駒に鞭をうち己が国々へ馳せ下り、山陰、西海の兵は、船に帆を揚げて落ちて行く。
 誠に征罰の法、合戦の体は士卒にありといへども、雌雄は大将に依るものなり。されば、周の武王は木主{*4}を作つて殷の世を傾け、漢の高祖は、義帝を尊みて秦の国を滅ぼせし事、旧記の載する所、誰かこれを知らざらん。直冬、これ何人ぞや。子として父を攻めんに、天、豈許す事あらんや。始め遊和軒朴翁が、天竺震旦の例を引いて、「今度の軍に宮方、勝つ事を得難し。」と眉を顰めて申ししを、「実にも理なりけり。」とは、今こそ思ひ知られたれ。
 東寺落ちて、明けの日、東寺の門にたつ。
  とにかくに取りたてにける石堂も九重よりしてまた落ちにけり
  深き海高き山名とたのむなよ昔もさりし人とこそきけ
  唐橋や塩の小路のやけしこそ桃井どのは鬼味噌をすれ{*5}

三上皇吉野より御出での事

 足利右兵衛佐直冬、尾張修理大夫高経、山名伊豆守時氏、桃井播磨守直常以下の官軍、今度諸国より攻め上つて、東寺、神南度々の合戦に打ち負けしかば、皆、己が国々に逃げ下つて、猶この素懐を達せんことをはかる。これに依つて、洛中は今、静謐の体にて、髪をかむり衽{*6}を左にする人はなけれども、遠国は猶しづまらで、戈を担ひ粮を包む事、隙なし。
 ここに持明院の本院、新院、主上、春宮{*7}は皆、去々年の春、南方へ捕らはれさせ給ひて、賀名生の奥に押し篭められおはせしかば、「とても都には茨宮{*8}、已に御位に即かせ給ひぬる上は、山中の御住まひ、余りに御痛はしければ。」とて、延文二年の二月に、皆、賀名生の山中より出だし奉りて、都へ還幸なし奉る。
 上皇は、故院の住み荒らさせ給ひし伏見殿に移らせ給ひて御座あれば、参り仕ふる月卿雲客の一人もなし。庭には草生ひ繁りて、梧桐の黄葉を踏み分けたる道もなく、軒には苔深くむして、見る人からに袖ぬらす月さへ疎くなりにけり。本院は、去る観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智とぞ申しける。御帰洛の後、本院、新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子にならせ給ひて、本院は、嵯峨の奥、小倉の麓に幽かなる御庵をむすばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座ありける。いづれも物さびしく人目かれたる御住まひ、申すも中々おろかなり。
 かの悉達太子は、浄飯王の宮を出でて檀特山に分け入り、善施太子は、鳩留国の翁に身を与へて檀施の行を修し給ふ。これは皆、十千の国を合はせたる十六の大国{*9}を保ち給ひし王位なれども、捨つるとなればその位、一塵よりも猶軽し。況んや我が国は粟散辺地の境なり。たとひ天下を一統にして無為の大化に楽しませ給ふとも、かの大国の王位に比すれば、千億にしてその一つにも及び難し。かやうの理を思し召し知らせ給ひて、憂きを便りに捨てはてさせ給ひぬる世なれば、御身も軽きのみならず、御心も又閑かにして、半間の雲、一榻の月{*10}、禅余の御友となりにければ、中々御心安くぞ渡らせ給ひける。

飢人身を投ぐる事

 かくて事の様を見聞くに、天下、この二十余年の兵乱に、禁裏、仙洞、竹苑、椒房を始めとして、公卿、殿上、諸司、百官の宿所宿所、多く焼け亡びて、今は僅かに十が二、三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払つて、京白川に武士の屋形の外は、在家の一宇も続かず。離々たる原上の草、累々たる白骨、叢に纏はれて、ありし都の跡とも見えずなりにければ、蓮府槐門{*11}の貴族、なま上達部、上臈、女房達に至るまで、或いは大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或いは遠国におち下つて田夫野人の賤しきに身を寄せ、或いは片田舎に立ち忍びて、桑の門、竹の扉に住み侘び給へば、夜の衣薄くして暁の霜冷たく、朝気の煙絶えて後、首陽に死する人多し{*12}。
 中にも哀れに聞こえしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかやいひける者、日頃は富み栄えて楽しみ身に余りけるが、この乱の後、財宝は皆取り散らされ{*13}、従類眷属はいづちともなく落ち失せて、唯七歳になる女子、九つになる男子と、年頃相馴れし女房と、三人ばかりぞ身に添ひける。都の内には身を置くべき露のゆかりもなくて、道路に袖をひろげん事{*14}もさすがなれば、思ひかねて、女房は娘の手を引き、夫は子の手を引きて、泣く泣く丹波の方へぞ落ち行きける。誰を憑むとしもなく、いづくへ落ち著くべしともおぼえねば、四、五町行きては野原の露に袖を片敷きて泣き明かし、一足歩んでは木の下草にひれふして{*15}泣き暮らす。唯、夢路をたどる心地して、十日ばかりに丹波国井原の岩屋の前に流れたる思出河といふ所に行き到りぬ。
 都を出でしより、道に落ちたる栗柿なんどを拾ひて、僅かに命を継ぎしかば、身も余りにくたびれ、足も立たずなりぬとて、母、幼き者みな、川の端に倒れ伏して居たりければ、夫、余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見えたる内へ行きて、中門の前にたたずみて、つかれ乞ひをぞしたりける。暫くあつて、内より{*16}侍中間十余人走り出でて、「用心の最中、なまばうたる人{*17}の疲れ乞ひするは、夜討強盜の案内見るものか。然らずば宮方の廻文持つて廻る人にてぞあるらん。いましめ置いて拷問せよ。」とて、手取り足取り打ち縛り、上げつ下しつ二時ばかりぞ責めたりける。
 女房、幼き者、かかる事とは思ひ寄らず、川の端に疲れ臥して、今や今やと待ち居たりける処に、道を通る人、行きやすらひて、「あな、あはれや。京家の人かとおぼしき人の年四十ばかりなりつるが疲れ乞ひしつるを、怪しき者かとて、あれなる家に捕らへて、上げつ下しつ責めつるが、今は責め殺してぞあるらん。」と申しけるを聞きて、この女房、幼き者、「今は、誰に手を引かれ、誰を憑みてか暫くの命をも助かるべき。後れて死なば、冥途の旅にひとり迷はんも憂かるべし。暫く待つて伴はせ給へ。」と、声々に泣き悲しみて、母と二人の幼き者、互に手に手を取り組み、思出河の深き淵に身を投げけるこそ哀れなれ。
 兵部少輔は、いかに責め問ひけれども、この者元来咎なければ、落ちざりける間、「さらば、許せ。」とて許されぬ。これにもこりず、妻子の飢ゑたるが悲しさに、又とある在家へ行きて、木の実なんどを乞ひ集めて、さきの川端へ行きて見るに、母、幼き者どもが著けたる小草鞋、杖なんどはあつて、その人はなし。「こは、如何になりぬる事ぞや。」とあわて騒ぎて、かなたこなた求めありく程に、渡しより少し下なる井堰に、あやしき物のあるを立ち寄つて見たれば、母と二人の子と、手に手を取り組みて流れかかりたり。取り上げて泣き悲しめども、身も冷えはてて、色も、はや変はりはててければ、女房と二人の子を抱きかかへて、又、元の淵に飛び入り、共に空しくなりにけり。
 今に至るまで、心なき野人村老、縁も知らぬ行客旅人までも、この川を通る時、哀れなることに聞き伝へて、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様かなと、思ひやられてあはれなり。

公家武家栄枯地を替ふる事

 公家の人は、かやうに窮困して、溝壑に埋づまり道路に迷ひけれども、武家の族は、富貴日頃に百倍して、身には錦繍を纏ひ、食には{*18}八珍を尽くせり。前代相模守の天下を成敗せし時、諸国の守護、大犯三箇條の検断の外は、いろふ事なかりしに、今は大小の事、共に唯、守護の計らひにて、一国の成敗、我意に任すれば、地頭後家人を郎従の如くに{*19}召し仕ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押さへて管領す。その権威、唯、古の六波羅、九州の探題の如し。
 又、都には佐々木佐渡判官入道道誉を始めとして、在京の大名、衆を結んで茶の会を始め、日々に寄り合ひ活計を尽くすに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧ひをして、皆、曲彔の上に豹虎の皮を敷き、思ひ思ひの緞子金襴を裁ち著て、四主頭の座に列をなして並み居たれば、唯、百福荘厳の床の上に、千仏の光を並べて坐し給へるに異ならず。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の周り四方一丈に珍物を供ふなれば、それに劣るべからずとて、面五尺の折敷に十番の斎羹、点心百種、五味の魚鳥、甘酸苦辛の菓子ども、色々様々据ゑ並べたり。
 飯後に{*20}旨酒三献過ぎて、茶の懸け物に百物、百の外に又、前引きの置き物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百づつ六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重ねづつ置く。三番の頭人は、沈のほた百両づつ、麝香の臍三つづつ添へて置く。四番の頭人は、沙金百両づつ金糸花の盆に入れて置く。五番の頭人は、唯今仕立てたる鎧一縮に、鮫懸けたる白太刀、柄鞘皆金にて打ちくくみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様にこれを引く。以後の頭人二十余人、我、人に勝れんと、様をかへ数を尽くして山の如く積み重ねぬ。さればその費え、幾千万と云ふ事を知らず。
 これをもせめて取つて帰らば、互にこれを以て彼に替へたる物どもとすべし。伴につれたる遁世者、見物のために集まる田楽、猿楽、傾城、白拍子なんどに皆取りくれて、手を空しくして帰りしかば、窮民孤独の飢ゑを助くるにもあらず、又、供仏施僧の檀施にもあらず。唯、金を泥に捨てて、玉を淵に沈めたるに相同じ。この茶事過ぎて、又博奕をして遊びけるに、一立てに五貫十貫立てければ、一夜の勝負に五、六十貫負くる人のみあつて、百貫とも勝つ人はなし。これも田楽、猿楽、傾城、白拍子に配り捨てける故なり。
 そもそもこの人々、長者の果報あつて、地より物が湧きけるか、天より財が降りけるか。降るにあらず、湧くにあらず。唯、寺社本所の所領を押さへ取り、土民百姓の資財を責め取り、論人訴人の賄賂を取り集めたる物どもなり。古の公人たりし人は、賄賂をも取らず、勝負をもせず。囲碁双六をだに甚だ禁ぜしに、万事の沙汰を差し置いて、訴人来れば酒宴、茶の会なんどいひて対面に及ばず。人の歎きをも知らず、嘲りをも顧みず、長時に遊び狂ひけるは、前代未聞の僻事なり。
 かかりし程に、延文三年二月十二日、故左兵衛督直義入道恵源、さしも爪牙耳目の武臣たりしかば、従二位の贈爵を苔の下なる遺骸にぞ賜はりける。「法体死去の後、かくの如き宣下、その例なし。」とぞ、人皆申し合はれける。

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校訂者注
 1:底本は、「蘋蘩(ひんぱん)」。底本頭注に、「神への供物。」とある。
 2:底本頭注に、「巫女。」とある。
 3:底本は、「託宣(たくせん)の神子(みこ)」。底本頭注に、「神の仰せを告げる巫女。」とある。
 4:底本は、「木主(もくしゆ)」。底本頭注に、「位牌。」とある。
 5:底本頭注に、「〇塩の小路 七條大路の町名。」「〇鬼味噌 羊質虎皮の意で俗に弱みそといふ語。」とある。
 6:底本は、「衽(じん)」。底本頭注に、「おくみ。」とある。
 7:底本巻30「持明院殿吉野遷幸」頭注に、「〇本院 光厳天皇。」「〇新院 光明天皇。」「〇主上 崇光天皇。」「〇春宮 直仁親王。」とある。
 8:底本は、「茨宮(いばらのみや)」。底本頭注に、「後光厳天皇。」とある。
 9:底本頭注に、「仁王経下巻に『閻浮提有十六大国、五百中国、十千小国。』と見ゆ。」とある。
 10:底本は、「半間(はんかん)の雲一榻(たふ)の月、」。底本頭注に、「雲に家の一間を借し月に榻を分ち与へる意。」とある。
 11:底本は、「蓮府槐門(れんぷくわいもん)」。底本頭注に、「大臣。」とある。
 12:底本は、「朝気(あさげ)の煙(けぶり)絶えて後、首陽(しゆやう)に死する人多し。」。底本頭注に、「〇朝気の煙 朝飯を炊ぐ煙。」「〇首陽に死する人 伯夷叔齊の首陽山の故事から餓死する人の意。」とある。
 13:底本は、「取散(とりち)らされて、」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
 14:底本頭注に、「袖乞乞食などになること。」とある。
 15:底本は、「ひれふし泣き暮(くら)す。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 16:底本は、「暫くあつて侍(さぶらひ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 17:底本頭注に、「怪しき人。」とある。
 18:底本は、「食(しよく)に八珍を」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 19:底本は、「如く召仕(めしつか)ひ、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 20:底本は、「飯後(はんご)は旨酒(ししゆ)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。