巻第三十四
宰相中将殿に将軍の宣旨を賜はる事
鎌倉贈左大臣尊氏公、薨じたまひし刻、世の危ふき事、深淵に臨んで薄氷を踏むがごとくにして、「天下、今に反覆しぬ。」と見えける処に、これぞ誠に{*1}武家の棟梁ともなりぬべき器用と見えし新田左兵衛佐義興は、武蔵国にて討たれぬ。去年まで筑紫九国を打ち従へたりし菊池肥後守武光も、小弐、大伴が翻つて敵になりし後は、勢ひ少なくなりぬと聞こえしかば、宮方の人々は、月を望むに{*2}暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲しみあつて、心に叶はぬ世のうさを歎きければ、将軍方の武士どもは、樹を移して春の花を見るが如く、危ふき中にも待つ事多くして、「今は、何事かあるべき。」と悦ばぬ人もなかりけり。
さる程に、延文三年十二月十八日、宰相中将義詮朝臣、二十九歳にて征夷将軍になり給ふ。日野左中弁時光を勅使にて、宣旨を下されければ、佐々木太郎判官秀詮を以て宣旨を請け取り奉る。天下の武功に於いては申すに及ばずといへども、相続して二代忽ちに将軍の位に備はり給ふ。めでたかりし世の例なり。
そもそも{*3}この頃、「将軍家に於いて、我に増したる忠の者あらじ。」と臂を振ふ輩多き中に、秀詮、宣旨を請け取り奉り、面目身に余る。その故を聞けば、祖父佐渡判官入道道誉、去んぬる元弘の始め、相模入道が振舞、悪逆無道にして、武運、已に傾くべき時到りぬとや見たりけん、「平家を討ちて、代を知り{*4}給へ。」と頻りに将軍を勧め申ししが、果たして六波羅、尊氏卿のために亡びにき。然れども、四海尚乱れて二十余年、その間に名を高くせし武士ども、宮方に参つては又将軍方に降り、高倉禅門{*5}に属するかと見れば右兵衛佐直冬に与力し、身を一偏に決せず。
道誉、将軍方にして、親類大略討死す。中にも秀詮が父、源三判官秀綱、去んぬる文和二年六月に、山名伊豆守が謀叛に依つて、主上、帝都を去らせおはしまして、越路の雲に迷はせ給ふ。ここに新田掃部助{*6}、山名が謀叛に節を得て、堅田浦にて君を襲ひ奉りし時、秀綱、返し合はせ、命を軽んず。その間に主上、延びさせおはします事、ひとへに秀綱が武功に依つてなり。「その忠、他に異なり。」とて、秀詮を選び出だされけるにこそ。これは、建久の古、鎌倉右兵衛佐頼朝朝臣、武将に備はり給ひし時、鶴岡八幡宮にて三浦荒二郎{*7}、宣旨を請け取り奉りし例とぞ見えし。
畠山道誓上洛の事
思ひの外に世の中静かなるにつけても、両雄は必ず争ふといふ習ひなれば、「鎌倉の左馬頭殿{*8}と宰相中将殿との御中、いかさま不和なる事、出で来ぬ。」と、人皆、危ぶみ思へり。
これを聞きて、畠山大夫入道道誓、左馬頭殿に向つて申されけるは、「故左大臣殿の御薨逝の後、天下の人皆、連枝{*9}の御中に、始終いかさま御不快の御事候ひぬと、怪しみ思ひて候なる。昔、漢の高祖崩御なつて後、呂氏と劉氏と互に心を置き合つて、世の中又乱れんとしけるを、高祖の旧臣、周勃、樊噲等、兵を集め勢を合はせて、世を治めたりとこそ承り及び候へ。道誓、誠に不肖の身にて候へども、暫く大将の号を御免あるべきにて候はば、東国の勢を引率して、京都へ罷り上りて南方へ発向し、和田、楠を攻め落とし、天下を一時に定めて、宰相中将殿の御疑ひをも散じ候はばや。」と申されければ、左馬頭、「この議、誠に然るべし。早く東八箇国の勢を催して、南方の敵陣へ発向すべし。」とぞ宣ひける。
畠山入道は、元来、上に公儀を借つて、下に私の権威を貪らんと思へる心ありければ、先づ大名どものもとに行き向ひ、未だ功あらずして忠賞の厚からんことを約し、未だ親しまざるに交じはりの久しからん事を語らひ、一日も己をせめ礼に復する時は、天下の人民、仁に帰する習ひなれば、東八箇国の大名小名、一人も残らず皆、催促にぞ従ひける。
「この上は、暫くも猶予あるべからず。」とて、延文四年十月八日、畠山入道道誓、武蔵の入間河を立つて上洛するに、相従ふ人々には、先づ舎弟畠山尾張守、その弟式部大輔。外様には、武田刑部大輔、舎弟信濃守、逸見美濃入道、舎弟刑部少輔、同掃部助、武田左京亮、佐竹刑部大輔、河越弾正少弼、豊島因幡入道、土屋修理亮、白塩入道、土屋備前入道、長井治部少輔入道、結城入道、難波掃部助、小田讃岐守、小山一族十三人、宇都宮芳賀兵衛入道禅可、子息伊賀守、高根沢備中守、同一族十一人。これ等を宗徒の大名として、坂東の八平氏、武蔵の七党、紀清両党、伊豆、駿河、三河、遠江の勢馳せ加はつて、都合二十万七千余騎と聞こえしかば、前後七十余里に支へて、櫛の歯を引くが如し。
路次に二十日余りの逗留あつて、京著は十一月二十八日の午の刻と聞こえしかば、摂政関白、月卿雲客を始めとして、公家武家の貴賤上下、四宮河原より粟田口まで桟敷を打ち続け、車を立て並べて、見物の衆、二行に群をなす。実にも、聞きしに違はず。天下、久しく武家の一統となつて、富貴に誇る武士どもが、ここを晴れと出で立ちたれば、馬、物具衣裳、太刀刀、金銀をのべ綾羅を飾らずといふ事なし。中にも河越弾正少弼は、余りに風情を好んで、引き馬三十匹、白鞍置きて引かせけるが、濃紫、薄紅、萌黄、水色、豹文、色々に馬の毛を染めて、皆舎人八人に引かせたり。その外の大名ども、一勢一勢引き分けて、或いは同じ毛の鎧著て、五百騎千騎打つもあり、或いは四尺五尺の白太刀に、虎の皮の尻鞘引き篭め、一様に一振佩き添へて、百騎二百騎打つもあり。唯、孟嘗君が三千の客、悉く珠の沓をはいて、春申君が富を欺きしも、かくやとおぼえて目もあやなり。
和田楠軍評定の事 附 諸卿分散の事
この頃、吉野の新帝{*10}は、河内の天野といふ処を皇居にて御座ありければ、楠左馬頭正儀、和田和泉守正武二人、天野殿に参じて奏聞しけるは、「畠山入道道誓、東八箇国の勢を率して二十万騎、已に京都に著きて候なる。山陽道は播磨を限り、山陰道は丹波を境ひ、東海、東山、南海、北陸道の兵、数を尽くして上洛仕り候なれば、敵の勢は定めて雲霞の如くにぞ候らん。但し、合戦に於いては決定、御方の勝ちとこそ料簡仕つて候へ。その故は、軍に三つの謀りごと候べし。所謂、天の時、地の利、人の和にて候。この内、一つも違ふ時は、勢ひありといふとも勝つ事を得ずとこそ見えて候へ。
「まづ、天の時に附いて考へ候へば、今年よりは大将軍、西に在つて、東よりは三年塞がりたり。畠山、冬至以前、東国を立つて罷り上つて候。これ、已に天の時に違ひ候はずや。
「次に、地の利について案じ候に、御方の陣、後ろは深山に連なつて、敵、案内を知らず。前に大河流れて、僅かなる橋一つを路とせり。さ候へば、元弘の千剣破の軍は、中々申すに及ばず。その後、建武の乱れより以来、細川帯刀、同陸奥守顕氏、山名伊豆守時氏、高武蔵守師直、同越後守師泰、今の畠山入道道誓に至るまで、已に六箇度、この処へ寄せて、猛勢を振ひ戦ひを挑みしに、敵の軍、遂に利あらず。或いは屍を河南の路に曝し、或いは名を敗北の陣に失ひ候ひき。これ、当山形勝の地、要害の便りを得たる故にて候。
「次には人の和について思案を廻らし候に、今度、畠山が上洛は、唯、勢ひを公義に借つて、忠賞を私に貪らんと志すにて候なる。仁木、細川の一族どもも、彼が権威を猜み、土岐、佐々木が一類も、その忠賞を嫉まぬことや候べき。これ又、人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳、三つながら違ひ候はば、たとひ敵、百万の勢を合はせて候とも、恐るるに足らぬ所にて候。
「但し、今の皇居は余りにあさまなる処にて候へば、金剛山の奥、観心寺と申し候処へ、御座を移しまゐらせ候て、正儀、正武等は、和泉、河内の勢を相伴ひ、千剣破、金剛山に引き篭り、竜山、石川の辺に駆け出で駆け出で、日々夜々に相戦ひ、湯浅、山本、恩地、贄河、野上、山本の兵どもは、紀伊国守護代、塩冶中務について、竜門山、最初峯に陣を張らせ、紀伊川禿辺に野伏を出だして、開き合はせ攻め合はせ、息をも継がせず戦はしめば、極めて短気なる坂東勢ども、などか退屈せで候べき。退屈して引き返すものならば、勝つに乗つて追つ懸け、敵を千里の外に追ひ散らし、御運を一時に開くべし。これ、庶幾する処の合戦なり。」と、事もなげにぞ申しける。主上を始め参らせて、近侍の月卿雲客に至るまで、皆憑もしき事にぞ思し召しける。
「さらば、やがて観心寺へ皇居を移し参らすべし。」とて臨幸なるに、「無用ならん人々を、そぞろに召し具させ給ふべからず。」と申しける間、「実にも。」とて、伝奏の上卿両三人、奉行の職事一両輩、護持僧二人、衛府官四、五人ばかりを召し具せられ、「この外は、いづちへも暫く落ち忍びて、御敵退散の時を待つべし。」と仰せ出だされければ、摂政関白、太政大臣、左右の大将、大中納言、七弁、八史、五位、六位、後宮の美婦人、なま上達部、内侍、更衣、上臈女房、出世、坊官に至るまで、或いは高野、粉川、天河、吉野、十津河の方に落ち行きて、あさましげなる山賤どもに憂き身を寄する人もあり。或いは志賀の古京、奈良の都、京白河に立ち帰り、敵陣の中に紛れ居て、魂を消す人もあり。「諸苦所因貪欲為本。」と如来の金言、今更に思ひ知るこそあはれなれ。
校訂者注
1:底本は、「これぞ武家(ぶけ)の」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。
2:底本は、「望むには暁(あかつき)の」。『太平記 五』(1988年)本文及び頭注に従い削除した。
3:底本は、「抑(そも(二字以上の繰り返し記号))も此の比」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
4:底本頭注に、「治め。」とある。
5:底本頭注に、「直義。」とある。
6:底本頭注に、「貞祐。堀口貞満の子。」とある。
7:底本頭注に、「義澄。義明の子。」とある。
8:底本頭注に、「足利基氏。」とある。
9:底本頭注に、「〇故左大臣殿 尊氏。」「〇連枝 兄弟。」とある。
10:底本頭注に、「後村上天皇。」とある。
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