新将軍南方進発の事 附 軍勢狼籍の事

 さる程に、足利新征夷大将軍義詮朝臣、延文四年十二月二十三日、都を立つて、南方の大手へ向ひ給ふ。相従ふ人々には、まづ一族細川相模守清氏、舎弟左近大夫将監、同兵部大輔、同掃部助、同兵部少輔、尾張左衛門佐、仁木右京大夫、舎弟弾正少弼、同右馬助、一色左京大夫、今川上総介、子息左馬助、舎弟伊予守。他家には、土岐大膳大夫入道善忠、舎弟美濃入道、同出羽入道、同宮内少輔、同小宇津美濃守、同高山伊賀守、同小里兵庫助、同猿子右京亮、厚東駿河守、同蜂屋近江守、同左馬助義行、同今峯駿河守、同舟木兵庫助、同明智下野入道、同戸山遠江守、同修理亮頼行、同出羽守頼世、同刑部少輔頼近、同飛騨伊豆入道、佐々木判官信詮、佐々木六角判官入道崇永、舎弟山内判官、河野一族、赤松筑前入道世貞{*1}、舎弟帥律師則祐、甥大夫判官光範、舎弟信濃五郎直頼、同彦五郎範実、諏訪信濃守、祢津小次郎、長尾弾正左衛門、浅倉弾正。これ等を始めとして、都合その勢七万余騎、大島、渡辺、尼崎、鳴尾、西宮に居余つて、堂宮までも充ち満ちたり。
 畠山大夫入道道誓は、搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎引率して、翌日の辰の刻に都を立つて、八幡の山下、真木、葛葉に陣を取る。これは、大手の勢、渡辺橋を懸けんとき、敵、もし川に支へて戦はば、左良階、伊駒の道を経て、敵を中に篭めんとなり。
 大手の寄せ手赤松判官光範は、摂津国の守護にて、敵陣半ばは我が領知を篭めたれば、人より先に渡辺の辺に、五百余騎にて打ち寄せたり。河舟百余艘取り寄せて、河の面二町余に引き並べ、柱をゆり立て、もやひを入れて、上にかぶ木{*2}を敷き並べたれば、人馬打ち並びて渡れども、かつて危ふからず。「和田、楠、ここに馳せ向ひて、手痛く一合戦せんずらん。」と、人皆思ひて控へたりけれども、如何なる深き謀りごとかありけん、敢へて河を支へんともせざりけり。
 さる間、大手、搦手三十万騎、同じき日に河より南へ打ち越え、天王寺、安部野、住吉の遠里小野に陣を取る。されども猶、大将宰相中将殿は、河を越え給はず。尼崎に轅門を堅くしておはすれば、赤松筑前入道世貞、同帥律師則祐は、大渡に打ち散つて、斥候の備へを全くし、仁木右京大夫義長は、三千余騎を一所に集め、西宮に陣を取つて、「先陣、もし戦ひ負けば、新手になつて入り替はり、天下の大功を我一人の高名に称美せられん。」とぞ議せられける。
 南方の兵の軍立て、始めは坂東の大勢の程を聞きて、「城に篭つて戦はば、取り巻かれて遂に攻め落とされずといふ事あるべからず。唯、深山幽谷に走り散つて、敵に在所を知られず、前にあるかとせば後ろへ抜け、馬に乗るかとせば野伏になつて、在々所々にて戦はんに、敵、頻りに懸からば、難所に引き懸けて返し合はせ、引きて帰らば後について追つかけ、野軍に敵を疲らかして、雌雄を労兵の弊えに決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体、思ふにも似ず、左右なく敵陣へ駆け入らんともせず、ここに日を経、かしこに時をぞ送りける。
 「さらば、こなたも陣を前に取り、城を後ろに構へて合戦を致せ。」とて、和田、楠は、俄に赤坂城を拵へて、三百余騎にて楯篭る。福塚、川辺、佐良階、当木、岩郡、橋本判官以下の兵は、平石城を構へて、五百余騎にて楯篭る。真木野、酒辺、古折、野原、宇野、崎山、佐和、秋山以下の兵は、八尾城を取り繕ひて、八百余騎にて楯篭る。この外大和、河内、宇多、宇智郡の兵千余人をば、竜泉峯に塀を塗り、櫓を掻かせて、見せ勢になしてぞ置きたりける。
 さる程に、寄せ手は同じき二月十三日、後陣の勢三万余騎を、住吉、天王寺に入れ替へさせて、後ろを心安く踏まへさせ、先陣の勢二十万騎は、金剛山の乾に当たりたる津々山に打ち上がりて陣を取る。敵御方、そのあはひ僅かに五十余町を隔てたり。互に時を待つて、未だ戦はざる処に、丹下、俣野、誉田、酒勾、水速、湯浅太郎、貴志の一族五百余騎、弓を外し兜を脱いで、降人になつて出でたりければ、津々山の人々、皆勇み罵りて、「さればこそ敵、はや弱りにけり。和田、楠、幾程かこらふべき。」と思はぬ人もなかりけり。
 されども未だ騎馬の兵、懸け合つて勝負をする程の事はなし。唯、両陣互に野伏を出で合はせて、矢軍する事、隙なし。元来、敵は物馴れて、御方は案内を知らねば、毎度合戦に寄せ手の手負ひ討たるる事、数を知らず。「かくては唯、和田、楠が、かねて謀る案の内に落とされたる事よ。」といひながら、止む事を得ざりける。
 さる程に、始めの程こそ禁制をも用ゐけれ{*3}、兵、次第に疲れければ、神社仏閣に乱れ入りて、戸帳を下し、神宝を奪ひ合ひ、狼籍手に余つて、制止に拘らず。獅子、駒犬を打ち破つて薪とし、仏像、経巻を売りて魚鳥を買ふ。前代未聞の悪行なり。先年、高越後守師泰が、石川河原に陣を取つて、楠を攻めて居たりし時、無悪不造の兵どもが、塔の九輪を下して鑵子{*4}に鋳たりし事こそ、希代の罪業かなと聞きしに、これは猶それに百倍せり。浅ましといふもおろかなり。「不善を顕明の中に為す者は、人得てこれを誅し、不善を幽暗の中に為す者は、鬼得てこれを討つ。」いへり。師泰、已にこれを以て亡びき。前車の轍、いまだ遠からず。畠山、今これを取つて誡めずんば、後車の危ふき事、近きにあり。「今度の軍、如何様にもはかばかしからじ。」とささやく人も多かりけり。

紀州竜門山軍の事

 四條中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を率して、紀伊国最初峯に陣を取つておはする由、聞こえければ、同じき四月三日、畠山入道道誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆、平一揆、諏訪祝部、千葉の一族、杉原が一類、かれこれ都合三万余騎、最初峯へ差し向けらる。この勢、則ち敵陣に相対したる和佐山に打ち上がりて、三日まで進まず。先づ己が陣を堅くして、後に寄せんとする勢に見えて、塀を塗り櫓を掻きける間、これをたばからんために、宮方の侍大将塩谷伊勢守、その兵を引き具して、最初峯を引き退いて、竜門山にぞ篭りける。畠山が執事、遊佐勘解由左衛門、これを見て、「すはや、敵は引きけるぞ。いづくまでも追つ懸けて、討ち取れ、者ども。」とて馳せ向ふ。楯をも用意せず、手分の沙汰もなく、勝つに乗るところは、実にもさる事なれども、事の体、余りにあわててぞ見えたりける。
 かの竜門山と申すは、岩、竜頷に重なりて{*5}、路、羊腸を巡れり。峯は松栢深ければ、嵐も鬨の声をそへ、下には小篠茂りて、露に馬蹄を立てかねたり。されども麓までは下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて、坂中まで懸け上がり、一段平らなる所に馬を休めて、息を継がんと弓杖にすがり、太刀をさかさまに突く処に、軽々としたる一枚楯に、靭引き著けたる野伏ども千余人、東西の尾崎へ立ち渡り、雨の降るが如く散々に射る。三万余騎の兵どもが、僅かなる谷底へ沓の子を打つたる様に控へたる中へ、差し下して射込む矢なれば、人にはづるるは馬に当たり、馬にはづるるは人に当たる。一矢に二人は射らるれども、はづるるは更になし。進で駆け散らさんとすれば、岩石前に差し覆ひて、駆け上がるべき便りもなし。開いて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶えて、かけはしならでは道もなし。
 如何せんと背をくぐめて、「引きやする、引かでやある 。」と見る処に、黄瓦毛なる馬の太く逞しきに、紺糸の鎧の未だ巳の刻なる{*6}を著たる武者、濃き紅の母衣かけて、四尺ばかりに見えたる長刀の真中握つて、馬の平頚に引きそばめ、「塩谷伊勢守。」と名のつて真先に進めば、野上、山東、貴志、山本、恩地、牲河、志宇津、禿の兵ども二千余騎、大山も崩れ、鳴神の落つるが如く、喚き叫んで駆けたりける。敵を遥かのかさに受けて、引き心地附きたる兵どもなれば、なじかは一足も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討たるるをも顧みず、馬物具を脱ぎ捨てて、さしも嶮しき篠原を、滑るともなく転ぶともなく、三十余町ぞ逃げたりける。
 塩谷は、余りに深く長追ひして、馬に箭三筋立ち、槍にて二処つかれければ、馬の足立てかねて、険岨なる処より真逆様に転びければ、塩谷も、五丈ばかり岩崎より下に投げられければ、落ちつくよりして目くれ、東西に迷ひ、起き上がらんとしける処を、踏み留まる敵、余りに多きに依つて、物具のはづれ、内兜を散々にこみければ{*7}、続く御方はなし、塩谷、終に討たれにけり。
 半時ばかりの合戦に、生け捕り六十七人、討たるる者二百七十三人とぞ聞こえし。その外、捨てたる馬、物具弓矢、太刀刀、幾千万といふ数を知らず。その中に、遊佐勘解由左衛門が今度上洛の時、天下の人に目を驚かさせんとて、金百両{*8}を以て作りたる、三尺八寸の太刀もあり。また、日本第一の太刀と聞こえたる、祢津小次郎が六尺三寸の丸鞘の太刀も捨てたりけり。されば、大力も高名も不覚も、時の運によるものなり。この祢津小次郎は、自讃に常に申しけるは、「坂東八箇国に弓矢を取る人、駆け合ひの時、根津と知らで駆け合はせ、太刀打ち違へんは知らず。これ、祢津よと知りたらん者、我に太刀打たんと思ふ人は、恐らくはおぼえず{*9}。」と申す程の、大力の剛の者なれども、さしたる事もせで、力のある甲斐には、人より先に逃げたりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇尾張左衛門佐 氏頼。」「〇今川上総介 範氏。」「〇左馬助 氏家。」「〇善忠 俗名は頼康。」「〇美濃入道 俗名は頼忠、法名は真義。」「〇出羽入道 俗名は頼雄、法名は祐禅。」「〇宮内少輔 貞氏。」「〇蜂屋近江守 貞秀。」「〇今峯駿河守 光政。」「〇舟木兵庫助 頼尚。」「〇戸山遠江守 光明。」「〇赤松筑前入道世貞 俗名は貞範。円心の子。」とある。
 2:底本頭注に、「〇もやひ 船と船とを繋ぎ合はせる事。」「〇かぶ木 上に渡した横木。」とある。
 3:底本は、「用ひけれ。」。
 4:底本は、「鑵子(くわんす)」。底本頭注に、「湯わかし。」とある。
 5:底本は、「竜頷(りようがん)に重なり
て」。底本頭注に、「竜の頷の如く段々に積み重なつて。」とある。
 6:底本頭注に、「巳の刻は今の午前十時故正午即ち午の刻にはまだ早いとの事から品物のまだ新しいことを云ふ。」とある。
 7:底本頭注に、「兜内即ち顔内に矢を余す所なく射込んだので。」とある。
 8:底本頭注に、「煉金秤目百両のこと。」とある。
 9:底本は、「太刀打(たちうち)せんと思ふ人は、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇恐らくは覚えず あるとは多分思はれぬ。」とある。