二度紀伊国軍の事 附 住吉の楠折るる事

 紀伊国の軍に、寄せ手、若干討たれて、「今は、和佐山の陣には御方こらへ難し。」といひたりければ、津々山の勢も尼崎の大将も、興を醒まし、色を失ふ。されども、仁木右京大夫義長一人は、「あら、をかしや。さてこそよ。あはれ、同じくは津々山、天王寺、住吉の勢どもも皆追ひ散らされ、裸になつて逃げよかし。興ある見物せん。」とて、ゑつぼに入つてぞ笑ひける。これをば御方とやいふべき、敵とや申すべき。心得難き所存なり。
 「紀伊路の向ひ陣を追ひ落とされなば、津々山とてもこらふべからず。さらば、敵の懸からぬ前に、新手を添へて尾張守に力をつけよ。」とて、同じき四月十一日、畠山式部大輔{*1}、今川伊予守、細川左近将監、土岐宮内少輔、小原備中守、佐々木山内判官、芳賀伊賀守、土岐桔梗一揆、佐々木黄旗一揆、都合その勢七千余騎、重ねて紀伊路へぞ向けられける。
 中にも芳賀兵衛入道禅可は、我が身は天王寺に留められて、嫡子伊賀守公頼を紀伊路へ向けられけるが、二、三里がほど打ち送つて、涙を流して申しけるは、「東国に名ある武士多しといへども、弓矢の道に於いて指をさされぬは、唯、我等が一党なり。御方の大勢、先度の合戦に打ち負けて、敵に機をつけぬれば、今度の合戦はいよいよ手痛からんと知るべし。もし合戦仕違へて引き返しなば、唯、少しも違はぬ二の舞にて、敵に力をつくるのみならず、殊に仁木右京大夫に笑はれん事、我一人が恥と存ずべし。されば、この軍に敵を追ひ落とさずば、生きて二度我に面を向くべからず。これは、円覚寺の長老より持ち奉りし御袈裟なり。これを母衣にかけて、後世の悪業を助かれ。」とて、懐より七條の袈裟を取り出だして、泣く泣く公頼に与ふ。
 公頼、庭訓を受けて、「仔細に及ばず。」と領掌して、両へ別れけるが、「今生の対面、もしこれや限りなるべき。」と、名残惜しげに顧みて、互に涙をぞ浮かめける。恩愛の道深ければ、如何なる鳥獣さへも、子を思ふ心浅からず。況んや人倫に於いてをや、況んや一子に於いてをや。されども弓矢の道なれば、禅可、最愛の子に向かつて唯、「討死せよ。」と勧めける、心のうちこそ哀れなれ。
 さる程に、四條中納言隆俊は、重ねて大勢懸かる由聞こえしかば、「尚、元の陣にてや戦ふ、平場に進んでや懸け合ひにする。」と評定ありけるに、「湯川荘司、心変はりして、後ろに旗を挙げ、熊野路より寄する。」とも披露し、「船をそろへて田辺より上がる。」とも聞こえければ、「この陣、かくては如何があるべき。」と、案じ煩ひておはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたりける越智、降人になつて芳賀伊賀守が方へ出でたりける。
 さらでだに猛き清党、かねて父に義を勧められ、今又、越智に力をつけられ、なじかは少しも滞るべき。竜門の麓へ打ち寄せけると等しく、楯をも突かず、矢の一つをも射ず、抜き連れて攻め上がりける程に、さしもの兵と聞こえし恩地、牲河、貴志、湯浅、田辺別当、山本判官、半時も支へず竜門の陣を落とされて、阿瀬河城へぞ篭りける。芳賀、二度目の軍に先度の恥をぞすすぎける。「今は、これまでなり。一功なす上は。」とて、紀州の討手伊賀守、恙なく津々山の陣へ帰りければ、父の禅可、悦喜して、「公私の大崇、これに過ぐるはあらじ。」とぞ申しける。
 「四條中納言隆俊卿、竜門山の軍に打ち負けて、阿瀬河へ落ちぬ。」と聞こえければ、吉野の主上{*2}を始め参らせて、竜顔に咫尺し奉る月卿雲客、色を失ひ、胆を消し給ふ。かかる処に又、住吉の神主津守国久、ひそかに勘文を以て申しけるは、「今月十二日の午の刻に、当社の神殿鳴動する事、やや久し。その後、庭前なる楠、風吹かざるに中より折れて、神殿に倒れかかる。されども枝繁く地に支へて、宙に横たはる間、社壇は恙なし。」とぞ奏し申しける。
 諸卿、この密奏を聞きて、「神殿の鳴動は凶を示し給ふ條、疑ひなし。楠、今官軍の棟梁たり。楠倒れば、誰か君を擁護し奉るべき。事皆以て、不吉の表事なり。」とささやき合はれけるを、大塔忠雲僧正、聞きあへず申されけるは、「好事も無きには如かずと申す事候へば、ましてこの事、吉事なるべしとは申し難し。但し、神、凶を告げ給ふは、天、未だ捨てざるものなり。その故は、後漢の光武の昔、庭前なる槐木の高さ二十丈に余りたるが、風吹かざるに根より抜けて、さかさまにぞ立つたりける。諸臣、相見て皆恐怖しけるを、光武、天の告げを悦びて、貧しき民に財を省き、余れるを以て足らざるを助け給ひければ、この槐木、一夜に又元の如くなつて、一葉も枯れざりけり。
 「又、我が朝には、応和の年の末に、比叡山の三宮林の数千本の松、一夜に枯れしぼみて、霜を凌ぐ緑の色、黄葉になりにけり。三千の衆徒、大きに驚いて、十善寺に参つて、各自受法楽の法施を奉り、『前相、何事ぞ。』と祈誓を凝らさしめたりけるに、一人の神子、俄に物に狂ひ出でて、『我に七社権現乗り居させたまへり。』とて託しけるは、『我、内には円宗の教法を守つて化縁を三千の衆徒に結び、外には国家の安全を致して利益を六十余州に垂る。然りといへども、今、衆徒の振舞、一つとして神慮に叶はず。兵杖を横たへて法衣を汚し、甲冑を帯して社頭を往来す。ああ、今より後、三諦即是の春の華、誰が袂にか匂はまし。四曼不離の秋の月、いづれの扉をか照らすべき。この上は、我、当山の麓に跡を垂れても何かせん。唯、速やかに寂光の本土へこそ帰らめ。唯、耳に留まる事とては、常行三昧の念仏の音。尚も心に飽かぬは、一乗読讃の論議の声。』と、泣く泣く託宣しけるが、額より汗を流して、物附きは則ち醒めにけり。大衆、これに驚きて、聖真子の御前にして常行三昧の仏名を唱へ、止観院の外陣にして一乗読讃の豎義を執り行ふ。これに依つて、神慮も忽ちに休まりけるにや、月に叫ぶ峡猿の声も暁の枕を濡らさず、霜を戴く林松の色、元の緑になりにけり。
 「その後、住吉大明神の四海の兇賊を鎮め給ひし御託宣に曰く、『天慶に兇徒を誅せし昔は、我、大将軍たり、山王は副将軍たり。承平に逆党を鎮めし時は、山王は大将軍たり、我は副将軍たり。山王はとこしなへに一乗の法味に飽く。故に勢力、我に勝る。』云々。彼を以てこれを思ふに、叡慮、徳に赴き、四海の民を安穏ならしめんと思し召す大願を起こされ、法味を以て神力を添へられ候はば、朝敵はかへつて御方になり、禍ひは{*3}転じて幸ひに帰せん事、疑ふ処にあらず。」と申されければ、群臣、悉くこの旨に従ひ、君も限りなく叡信を凝らさせ給ひて、やがて住吉四所の明神、日吉七社権現を勧請し奉つて、座さまさずの御修法を百日の間行はせらる。主上、毎朝に御行水を召されて、玉体を地に投げ除災与楽の御祈り、誠に身の毛もよだつばかりなり。天地もこれに感応し、神明仏陀も、などか擁護の御手を垂れ給はざらんと、たのもしくぞ見えたりける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「義凞。」とある。
 2:底本頭注に、「後村上帝。」とある。
 3:底本は、「禍(わざは)ひを転じて」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。