銀嵩{*1}軍の事 附 曹娥精衛の事
この頃、吉野の将軍宮と申すは、故兵部卿親王{*2}の御子、御母は北畠准后の御妹にてぞおはしましける。御幼稚の時より文武二道、いづれも達して見えさせ給ひしかば、この宮ぞ誠に四海の逆浪をも鎮められて、旧主先帝の御追念をも休め参らせらるべき御器量にておはしますとて、吉野の新帝登極の後、則ち宣下せられ、征夷将軍に成し参らせらる。去んぬる正平七年に、赤松律師則祐、暫く事を謀つて宮方に参ぜしとき、この宮を大将に申し下し参らせたりしが、則祐、忽ちに変じて、又武家に参ぜしかば、宮、心ならず京へ上らせ給ひて、囚人の如くにして御座ありしを、但馬国の者ども、盜み出だし奉つて高山寺城へ入れ奉る。
本庄平太、平三、御手に属して、但馬、丹波の両国を打ち従ふるに、靡かずといふ者、更になし。やがて播磨国を退治せんとて山陽道へ御越しありしに、則祐、三千余騎にて甲山の麓に馳せ向つて相戦ふ。軍未だ決せざるに、宮の一騎当千と憑み思し召したりける本庄平太、平三、共に数箇所の創を被りて、兄弟同時に討たれにければ、軍、忽ちに破れて、宮は河内国へ落ちさせ給ひにけり。その後も、「大将にし奉らん。」とて、国々よりこの宮を申しけれども、「自然の事もあらば、この宮をこそ大将にもし奉らんずれ。」とて、いづくへも下し参らせられず、武略のために惜しまれて、吉野の奥にぞおはしける。
今、紀伊国の合戦に四條中納言打ち負けて、阿瀬河へ落ち給ひぬ。和田、楠も、津々山の敵陣に攻められて、機疲れぬと見えければ、「今は、いつをか期すべき。然るべき兵どもを相添へられ候へ。自ら出で向つて合戦を致し候はん。」と、宮、頻りに仰せられける間、「実にも。」とて、この三、四年、兄弟不和の事あつて、吉野へ参られたりける赤松弾正少弼氏範に、吉野十八郷の兵を差し添へて、宮の御方へぞ参らせられける。
宮、この勢を附け従へさせ給ひて後、如何なる物狂はしき御心や著きけん、「さらば、この時分に吉野の新帝を亡ぼし奉つて、武家のために忠を致して、吉野十八郷を一円に管領せばや。」と思し召しけるこそ不思議なれ。ひそかに御使を以て、事の由を義詮朝臣の方へ牒ぜられて、四月二十五日、宮の御勢二百余騎、野伏三千人を召し具して、賀名生の奥に銀嵩といふ山に打ち上り、御旗を揚げられ、先の皇居賀名生の黒木の内裏を始めとして、その辺の山中に隠れ居たる月卿雲客の宿所宿所を一々に焼き払はる。暫しが程は、真実を知つたる人少なければ、「これはいかさま、大宋の伯顔将軍が城を焼きて敵をたばかりし謀りごとか、然らずば、楚の項羽が自ら廬舎を焼きて、再び元の陣へ帰らじと誓ひし道か。」と、様々に推量を巡らして、「この宮、尚も御敵にならせ給ひたり。」と知る人、いささかもなかりけり。さる程に、探使、度々馳せ廻つて、「宮の御謀叛、事已に急なり。」と奏聞しければ、やがてその明日の日、二條前関白殿を大将軍として、和泉、大和、宇多、宇智郡の勢千余騎を向けらる。
これを見て、「さらば、御謀叛の宮に附き奉るべき様なし。」とて、吉野十八郷の者ども、皆散り散りに落ち失せける程に、宮の御勢、僅かに{*3}五十余騎になつてげり。されども赤松弾正少弼氏範は、「今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道にあらず。力なき処なり、討死するより外の事あるまじ。」とて、主従二十六騎は、四方に馳せ向つて散々に戦ひける程に、寄せ手、左右なく近づき得ず。三日三夜相戦つて、氏範、数箇所の創を被りてげれば、「今は、叶はじ。」とて、宮は南都の方へ落ちさせ給へば、氏範は降人になつて、又本国播州へ立ち返る。不思議なりし御謀叛なり。
そもそも故尊氏卿、朝敵となつて、先帝{*4}、外都にて崩御なり、天下大きに乱れて今に二十七年、公家被官の人、悉く道路に袖をひろげ、武家奉公の族は、皆国郡に臂を張る事は、何故ぞや。唯尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉りし故なり。天、以て許し給はば、天下の将軍として六十六箇国、などかこの宮に帰伏し奉らざらん。然れば、旧主先皇{*5}も草の蔭にても喜悦の眉を開かせ給はば、忠孝の御志を天神地祇も、などか感応の御眸を添へさせ給はざらん。然れば、御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛起こされて、先皇梁園{*6}の御屍に血をそそぎ給へば、厳親幽霊も、いかにうたてしく思し召すらんと、思ひやらるる{*7}草の蔭、さこそは露も乱るらめ。
昔、漢朝に一人の貧者あり。朝気の煙絶えて、柴の庵のしばしばも、こと問ひかはす人もなければ、筧の竹の浮き節に堪へで、住むべき心地もなくて明かし暮らしけるが、或るとき、曹娥{*8}といひける一人の娘を携へて、他国へぞ落ち行きける。洪河といふ河を渡らんとするに、折節水まさりて、橋もなく船もなし。行く先遠くして、留まるべき里も遥かに過ぎぬれば、「いつまでかかくてもあるべき。さらば、自らこの娘を負ひてこそ渡らめ。」と思ひて、先づ河の淵瀬を知らんために、娘をば岸のほとりに置きて、唯一人河の瀬を踏み行きける時に、毒蛇、俄に浮び出でて、曹娥が父をくはへて碧潭の底へぞ入りにける。
曹娥、これを見て、手を揚げて地に倒れて、如何せんと侘びて悲しめども、助くべき人もなし。一日二日は尚もはかなき心にて、「もしや、流れの末に浮き出でたる。」と、河に添ひて下つて見れども、浮かび出でたる事もなし。「もしや、岩のはざまに流れ懸かりたる。」と、岸に上り見れども、散り浮かぶ木の葉ならでは、せかれて留まるものもなし。日を暮らし夜を明かし、空しく後れて一人は帰るべき心地もなかりければ、七日七夜まで川のほとりにひれ伏し、天に叫び地に哭して、「我が父を失ひつる毒蛇を罰してたび候へ。たとひ空しき形なりとも、父を今一度我に見せしめ給へ。」と、梵天帝釈、堅牢地神に肝胆を砕いてぞ祈りける。「それ、叶はぬものならば、同じ水底に沈まん。」と悶へあこがる。
志、誠に蒼天にや答へけん、洪河の水、忽ちに{*9}血になつて流れけるが、毒蛇、遂に河伯の水神に罰せられて、曹娥が父を呑みながら、その身ずたずたに切り割かれて、波の上にぞ浮き出でたりける。曹娥、この処に空しき骨を収めて、泣く泣く故郷へ帰りにけり。かの処の人、これを憐れみて、ここに墳を築き、石を刻みて碑の文を書きて立てたりける。その銘石今に残つて、行客涙を落とし、騒人詩を題す。哀れなりし孝行なり。
又、発鳩山に精衛{*10}と申す人、他国に行きて帰るとて、難風に船を覆へされて、海中に沈みてはかなくなりにけり。その子、未だ幼くて故郷にひとりありけるが、父が海に沈める事を聞きて、その江のほとりに行きて夜昼泣き悲しみけるが、尚も思ひに堪へかね、遂に蒼海の底に身を投げて死ににけり。その魂魄、一つの鳥となつて、波の上に飛び渡り、「精衛、精衛。」と呼ぶ声、涙を催さずといふ事なし。怨念、尽くる事なければ、この鳥、「自ら大海を埋づめて平地になさん。」と思ふ心を挟み、毎日三度、草の葉、木の枝をくはえて、海中に沈めて飛びかへる。尾閭洩らせども乾かず、七旱ほせどもかつて一滴も減ぜざる大海なれば{*11}、如何なる神通を以ても、いかでか埋めはつべき。されども父が怨を報ぜんために、この鳥、一枝一葉を含んで海中にこれを沈むる事、哀れなりける志なり。されば、この精衛を題するに、「人は、その功の少なきを笑ふ。我は、怜その志の多きを憐れむ。」と、詩人もこれを褒めたり。
「君、見ずや。精衛は卑しき鳥なり。親の恩を報じて大海を埋めんことを謀る。曹娥は幼き女なれども、父のために悲しんで、毒蛇を害する事を得たり。人として鳥獣にだにも及ばず、男子にして女子にもしかず。何をか異なりとせんや。」と、この宮の御謀叛を欺き{*12}申さぬ人はなし。
校訂者注
1:底本は、「銀嵩(かねがたけ)」。底本頭注に、「金峯山の別名。大和国にある。」とある。
2:底本頭注に、「大塔宮護良親王。」とある。
3:底本は、「僅か五十余騎」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4・5:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
6:底本頭注に、「竹園即ち親王で護良親王のこと。」とある。
7:底本は、「いかにうたてしく覚(おぼ)すらんと、草の陰」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改め、補った。
8:底本頭注に、「この事は排韻に見えるが少し話が相違してゐる。」とある。
9:底本は、「忽らに」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
10:底本頭注に、「魂魄が鳥となつた故事。山海経に『発鳩之山有鳥、状如烏、而文首白喙赤足、名曰精衞、赤帝之少女名女娃、遊於海、溺而不反、精衞常取西山之木石、以填東海焉。』。」とある。
11:底本は、「尾閭(びりよ)洩らせども乾(かわ)かず、七旱(しつかん)ほせども曽て一滴も減(げん)ぜざる大海(たいかい)なれば、」。底本頭注に、「〇尾閭云々 荘子秋水篇に『天下之水莫大於海、万川帰之、不知何時止而不盈、尾閭洩之、不知何時已而不虚。』。尾閭は海水を洩らす所。」「〇七旱 殷湯の時の七箇年の旱を云ふか。」とある。
12:底本頭注に、「嘲り。」とある。
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