竜泉寺軍の事
竜泉城には、和田、楠等相謀つて、初めは大和河内の兵千余人を篭め置きたりけるが、寄せ手、敢へてこれをば攻めんともせざりける間、「かくては、いたづらに勢を置いても何かせん。打ち散らしてこそ野軍にせめ。」とて、竜泉の勢をば皆呼び下して、さしもなき野伏ども百人ばかり見せ勢に残し置き、ここの木の梢、かしこの弓隠しの外れに旗ばかりを結ひつけ、尚も大勢の篭りたる体を見せたりける。
津々山の寄せ手、これを見て、「あな、おびただし。四方、手を立てたる如くなる山に、この大勢の篭りたらんずるをば、如何なる鬼神ともいへ、攻め落とすべきものにあらず。」と口々にいひ恐れて、攻めんといふ人は一人もなし。唯、いたづらに旗ばかりを見上げて、百五十余日過ぎにけり。
或る時、土岐桔梗一揆の中に、ちとなま才覚ありける老武者、竜泉城をつくづくと目守り居たりけるが、その衆中に語つて曰く、「太公が兵書の塁虚篇{*1}に、『その塁上を望むに飛鳥驚かず。必ず敵、偽つて偶人を作ると知るなり。』といへり。我、この三、四日、相近づきて竜泉城を見るに、天に飛ぶ鳶、林に帰る烏、かつて驚く事なし。いかさま、これは大勢の篭りたる体を見せて、旗ばかりをここかしこに立て置きたりとおぼゆるぞ。いざや、人々。他の勢を交じへず、この一揆ばかり向つて竜泉を攻め落とし、天下の称歎に備へん。」といひければ、桔梗一揆の衆五百余騎、皆、「然るべし。」とぞ同じける。「さらば、やがて打つ立て。」とて、閏四月二十九日の暁、桔梗一揆五百余騎、忍びやかに津々山より下つて、まだ東雲の明けはてぬ霧のまぎれに、竜泉の一の木戸口に押し寄せ、同音に鬨をどつと作る。
細川相模守清氏と赤松彦五郎範実とは、津々山の役所を並べて居たりけるが、竜泉の鬨の声を聞きて、「あはや、人に先を駆けられぬるは。但し、城へ切つて入らんずる事は、又、一重の大事ぞ。それをこそ誠の先駆けとはいふべけれ。馬に鞍置け、旗差急げ。」といふ程こそありけれ、相模守と彦五郎と、鎧取つて肩に投げ懸け、道々高紐堅めて、竜泉の西の一の城戸、高櫓の下へ駆け上がりたり。ここにて馬を踏み放し、後ろを屹と見たれば、赤松が手の者に田宮弾正忠、木所彦五郎、高見彦四郎、三騎続いたり。その後を見れば、相模守の郎従六、七十騎、がけ堀ともいはず、我先にと馳せ来る。
その旗差、高岸に馬の鼻を突かせて、上りかねたるを見て、相模守、自ら走り下りて、その旗をおつ取つて切り岸の前に突き立つて、「先駆けは、清氏にあり。」と高声に名のりければ、赤松彦五郎、城の中へ入り、「先駆けは、範実にて候。後の証拠に立ちて{*2}給はり候へ。」と声々に名のつて、塀の上をぞ越えたりける。これを見て、桔梗一揆の衆に日吉藤田兵庫助、内海修理亮光範、城戸を引き破つて込み入る。城の中の兵ども、暫く支へて戦ひけるが、敵の大勢に御方の無勢を顧みて、叶はじとや思ひけん、心閑かに防ぎ矢射て、赤坂を差して落ち行きける。
しばらくあれば、陣々に集まり居たる大勢ども、「すはや、桔梗一揆が竜泉へ寄せて攻めけるは。但したやすくは、よもせめ落とさじ。楯の板しめせ、射手を先立てよ。」と、いと騒がず打つ立つて、その勢、既に十万余騎、竜泉の麓へ打ち向かひたれば、城は早、已にせめおとされて、櫓、垣楯に火をかけけり{*3}。数万の軍勢、頭を掻いて、「安からぬものかな。これ程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐、細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙を噛まぬものはなかりけり{*4}。
平石城軍の事 附 和田夜討の事
今川上総守{*5}、佐々木六角判官入道崇永、舎弟山内判官、「竜泉の軍に合はざりつる事、安からぬものかな。」と思はれければ、わざと他の勢を交じへずして五百余騎、同じき日の晩景に平石城へ押し寄する。一矢射違ふるほどこそあれ、切り岸高ければ、先なる人の楯の算{*6}を踏まへ、兜の鉢を足だまりにして、城戸逆茂木を切り破り、討たるるをもいはず{*7}、手を負ふをも顧みず、我先にと込み入りける間、敵、こらへずして、その日の夜半ばかりに金剛山を指して落ちにけり。
二箇所の城、たやすく落とされしかば、寄せ手は勝つに乗つて、竜の水を得たるが如くになり、和田、楠は気を失つて、魚の泥にいきづくが如し。「かくの如くならば、赤坂城も幾程かこらふべき。暫時に攻め落として後、主上を生け捕り参らせ、三種の神器を取り奉つて、都へ返し入れ参らすべし。」と、諸人、掌を指す思ひをなす。「すはや、天下静まりて、武家一統の世になりぬ{*8}。」と思はぬ人はなかりけり。
竜泉平石、二箇所の城おちしかば、八尾城もこらへず。今は、僅かに赤坂城ばかりこそ残りけれ。この城、さまでの要害とも見えず。唯、「和田、楠が館の辺りを、敵に左右なく蹴散らされじ。」と、俄に構へたる城なれば、「暫くもやは支ふる。」とて、陣々の寄せ手、一所に集まつて二十万騎、五月三日の早旦に赤坂城へ押し寄せ、城の西北三十余町が間に一勢一勢引き分けて、先づ向ひ城をぞ構へける。
楠は元来、思慮深きに似て、急に敵に当たる機少なし。「この大敵に戦はん事、叶ひ難し。唯、金剛山へ引き隠れて、敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申しけるを、和田は、いつも戦ひを先として、謀りごとを待たぬ者なりければ、すべてこの議に同ぜず。「軍の習ひ、負くるは常の事なり。唯、戦ふべき所を戦はずして身を慎しむを以て恥とす。『さても、天下を敵に受けたる南方の者どもが、遂に野伏軍ばかりしつる事のをかしさよ。』と、日本国の武士どもに笑はれん事こそ口惜しけれ。いかさま、一夜討ちして、太刀の柄の微塵に砕くる程切り合はんずるに、敵、あらけて引き退きなば、やがて勝つに乗つて討つべし。引かずんば又力なく、その時こそ金剛山の奥までも引き篭つて戦はんずれ。」とて、夜討に馴れたる兵三百人すぐつて、「問はば、『武し。』と答へよ。」と約束の名乗りを定めつつ、夜更くる程をぞ待ちたりける。
五月八日の夜なれば、月は宵より入りにけり。「時刻、よくなりぬ。」とて三百人の兵ども、一陣に進んで見えける結城が向ひ城へ忍び寄つて、木戸口にして鬨を作る。その声に驚いて、外の陣には騒げども、結城が陣は少しも騒がず、鳴りを静めて待ちかけたり。射手は元来、櫓にあれば、矢間{*9}を引きて差し詰め差し詰め散々に射る。打物の衆は、垣楯逆茂木を隔てて、上れば切つて落とし、越ゆれば突き落とし、ここを先途と防ぎけれども、和田和泉守正武、真先に懸けて切つて入る。「日頃の詞を忘れずして、続けや、人々。」と喚いて、垣楯切つて引き破り、一枚楯引きそばめて、城の中へ飛び入りければ、相従ふ兵三百人、つづいて城へぞ込み入りける。
兜の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合はせゆり合はせ切り合ひて、天地を動かし火を散らす。互に喚き叫んで、半時ばかり切り合ひたるに、結城が兵七百余人、余りに戦ひ屈して、已に引き色に見えける処に、細川相模守、五百余騎にて敵の後ろへ廻り、「清氏、後詰めをするぞ。引くな、引くな。」と呼ばはりけるに力を得て、鹿窪十郎、富沢兵庫助、茂呂勘解由左衛門尉三人、踏み止まり踏み止まり戦ひけるに、和田が兵数十人討たれ、若干創を被つて、叶はじとや思ひけん、一方の垣楯踏み破つて、一度にはつと引きたりけり。
ここに、結城が若党に物部次郎郡司とて、世に勝れたる兵四人あり。かねてより、「敵、もし夜討に入つたらば、我等四人は敵の引き返さんずるに紛れて赤坂城へ入り、和田、楠に討ち違へて死ぬるか、然らずば、城に火をかけて焼き落とすか。」と約束したりけるが、少しも違はず、引きて帰る敵に紛れて、四人共に赤坂城へぞ入りたりける。
それ夜討強盜をして帰る時、「立ちすぐり居すぐり。」といふ事あり。これは、約束の声{*10}を出だして、諸人同時に颯と立ち、颯と居、かくて敵の紛れ居たるを選り出ださんための謀りごとなり。和田が兵、赤坂城に帰つて後、四方より松明を出だし、くだんの立ちすぐり居すぐりをしけるに、紛れ入る四人の兵ども、敢へてかやうの事に馴れぬ者どもなりければ、紛れなく選り出だされて、大勢の中に取り篭められ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀れなれ。「天下一の剛の者とは、これをぞ誠にいふべき。」と、褒めぬ人こそなかりけれ。
和田が夜討にも、敵陣、一所も退かず、いよいよ気に乗つて見えければ、「この城にて敵を支へんことは叶はじ。」とて、和田も楠ももろともに、その夜の夜半ばかりに赤坂城に火をかけて、金剛山の奥へ入りにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「六韜の第四巻に『望其塁上多飛鳥而不驚、上無氛氣、必知敵詐而為偶人也。』。」とある。
2:底本は、「立て」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
3:底本は、「かけたり。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本頭注に、「残念がつて歯を食ひしばらぬものはなかつた。」とある。
5:底本は、「今川上総介(かづさのすけ)、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「楯の裏につけた木。」とある。
7:底本は、「いとはず、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「世になりぬべしの意。」とある。
9:底本は、「矢間(さま)」。底本頭注に、「櫓の窓。」とある。
10:底本頭注に、「約束の名乗と同じく合言葉。」とある。
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