吉野の御廟神霊の事 附 諸国の軍勢京都に還る事

 南方の皇居は、金剛山の奥、観心寺といふ深山なれば、左右なく敵の近づくべき所ならねども、斥候の御警固にたのみ思し召されたる、竜泉、赤坂も攻め落とされぬ。また{*1}、「昨日一昨日まで御方せし兵ども、今日は多く御敵となりぬ。」と聞こえしかば、「山人、杣人、案内者として、いかさま、いづくの山までも、敵、攻め入りぬ。」と申し沙汰しければ、主上を始め参らせて、女院、皇后、月卿、雲客、「こは、如何すべき。」と怖ぢ恐れさせ給ふ事、限りなし。
 ここに、二條禅定殿下の候人にてありける上北面、御方の官軍、かやうに利を失ひ、城を落とさるる体を見て、「敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、我が身も今は髻切つて、如何なる山林にも世を遁ればや。」と思ひて、まづ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てはてて主君に離れ、この境を立ち去る事の悲しさに、「せめて今一度、先帝{*2}の御廟へ参り、出家の暇をも申さん。」と思ひて、唯一人御廟へ参りたるに、この頃は洒掃する人なかりけりとおぼえて、荊棘、道を塞ぎ、葎茂りて、旧苔、扉を閉ぢたり。「いつの間にかくは荒れぬらん。」とここかしこを見奉るに、金炉、香絶えて、草、一叢の煙を残し、玉殿、灯なくして、蛍、五更の夜を照らす。
 思ひあつて聞く時は、心なき啼鳥も哀れを催すかとおぼえ、岩漏る水の流れまでも、悲しみを添ふる音なれば、夜もすがら円丘の前に畏まつて、「つくづくと憂き世の中の成り行く様を案じ続くるに、そもそも今の世、如何なる世なれば、威有つて道なきものは必ず亡ぶといひ置きし先賢の詞にも背き、又、百王を守らんと誓ひ給ひし神約も皆、誠ならず。又、如何なる賤しき者までも、死しては霊となり鬼となつて、彼を是しこれを非する理、明らかなり。況んや君、已に十善の戒力に依つて、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨はたとひ郊原の土と朽ちさせ給ふとも、神霊は定めて天地に留まつて、その苗裔をも守り、逆臣の威をも亡ぼさんずらんとこそ存ずるに、臣、君を犯せども{*3}、天罰もなし。子、父を殺せども、神の怒りをも未だ見ず。こは、如何に成り行く世の中ぞや。」と、泣く泣く天に訴へて、五体を地に投げ礼をなす。
 余りに気くたびれて、頭を垂れて少しまどろみたる夢の中に、御廟の震動する事、やや久し。暫くあつて、円丘の中より誠にけだかき御声にて、「人やある、人やある。」と召されければ、東西の山の峯より、「俊基、資朝、これに候。」とて参りたり。この人々は、「君の御謀叛、申し勧めたりし者どもなり。」とて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬られし人々なり。かたちを見れば、正しく昔見たりし体にてはありながら、面には朱を差したるが如く、眼の光輝いて、左右の牙、銀針を立てたる様に上下に生ひ違ひたり。
 その後、円丘の石の扉を開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞竜の御衣を召され、宝剣を抜いて右の御手にひつ提げ、玉扆の上に坐し給ふ。この御姿も、昔の竜顔には替はつて{*4}、怒れる御眸、さかさまに裂け、御鬚、左右へ分かれて、唯、夜叉羅刹の如くなり。誠に苦しげなる御息をつかせたまふ度毎に、御口より炎、はつと燃え出でて、黒煙、天に立ち上る。
 暫くあつて主上、俊基、資朝を御前近く召されて、「さても、君を悩まし世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せつけて罰すべき。」と勅問あれば、俊基、資朝、「この事は、已に摩醯修羅王の前にて議定あつて、討手を定められて候。」「さて、如何に定めたるぞ。」「先づ、今南方の皇居を襲はんと仕り候五畿七道の朝敵どもをば、正成に申しつけて候へば、一両日の間には、追つ返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道寂阿に申しつけて候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相模守清氏をば、土居、得能に申しつけて候へば、四国に渡つて後、亡び候べし。東国の大将にて罷り上つて候畠山入道、舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申し請け候て、罰すべきよし申し候ひつれば、たやすかるべきにて候。『道誓が郎従どもをば、所々にて首を刎ねさせ候はんずるなり。中に、江戸下野守、同遠江守二人は、殊更に憎き奴にて候へば、竜の口に引き据ゑて、我が{*5}手に懸けて切り候べし。』とこそ申し候ひつれ。」と奏し申しければ、主上、誠に御心よげに打ち笑ませ給ひて、「さらば、年号の替はらぬ先に、疾く疾く退治せよ。」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見参らせて、夢は忽ちに覚めにけり。
 上北面、この示現に驚いて、吉野より又、観心寺へ帰り参り、人々に内々語りければ、「唯、あらまほしきことぞ、思ひ寝の夢に見えつらん。」とて、信ずる人もなかりけり。実にも、そのしるしにてやありけん、「敵寄せば、尚、山深く主上をも落とし参らせん。」と逃げ方を求めて、戦はんとはせざりけり。
 観心寺の皇居へは、敵、かつて寄せ来らず。あまつさへ、さしてし出だしたる事もなきに、「南方の退治、今はこれまでぞ。」とて、同じき五月二十八日、寄せ手の総大将宰相中将義詮朝臣、尼崎より帰洛し給ひしかば、畠山、仁木、細川、土岐、佐々木、宇都宮以下、すべて五畿七道の兵二十万騎、我先にと上洛して、各、国へぞ下りける。
 さてこそ、「上北面が見たりしといふ夢も、実にや。」と思ひ合はせられて、「いかさまにも、仁木、細川、畠山も、滅ぶる事やあらんずらん。」と、夢を疑ひし人々も、かへつてこれをぞたのみける。

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校訂者注
 1:底本は、「落(おと)されぬ。昨日(きのふ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 2:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 3:底本は、「犯(おか)せども、其の天罰(てんばつ)も」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
 4:底本は、「替へて、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 5:底本は、「我か手」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。