巻第三十五
新将軍帰洛の事 附 仁木義長を討たんと擬する事
「南方の敵軍、事ゆゑなく退治しぬ。」とて、将軍義詮朝臣、帰洛し給ひければ、京中の貴賤、悦びあへること、ななめならず。主上{*1}も限りなく叡感あつて、早速の大功、殊に以て神妙の由、勅使を下されて仰せらる。則ち、「今度、御祈祷の精誠を致されつる諸寺の僧綱、諸社の神官に、勧賞の沙汰あるべし。」と仰せ出だされけれども、闕国も所領もなければ、僅かに任官の功をぞ出だされける。
その頃、畠山入道道誓が宿所に、細川相模守、土岐大膳大夫入道、佐々木佐渡判官入道以下、日々寄り合つて、この間の辛苦を忘れんとて、酒宴、茶の会なんどして夜昼遊びけるが、互に隔心なき程を見て後に、畠山入道、ひそかにその衆中にささやきけるは、「今は、何をか隠し申すべき。道誓、今度東国より罷り上り候ひつる事、南方の御敵退治のためとは申しながら、宗徒は{*2}、仁木右京大夫義長が過分の振舞を鎮めんがためにて候ひき。方々も、定めてさぞ思し召され候らん。彼が心ばへ、かつて一家をも治むべきものとは見えず。然るを今、その器用にあらずして四箇国の守護職を賜はり、さしたる忠なくして数百箇所の大荘を領知す。外には仏神を敬はず、朝夕狩漁を業と為し、内には将軍の仰せを軽んじて、毎事成敗に拘らず。然れば、今度南方退治の時も、敵の勝つに乗る時は悦び、御方の利を得るを聞きては悲しむ。これは、そもそも勇士の本意とや申すべき、忠臣の振舞とや申すべき。
「将軍、尼崎に御陣を取られ、二百余日に及びしに、義長、西宮に居ながら一度も出仕せず、一献を参らする事もなかりしかば、如何にそもそも、かかる不忠不思議の者に大国を管領せさせ、大荘を塞がせては、世の治まるといふ事や候べき。ただ、このついでに仁木を退治せられ、宰相中将殿の世務を助け申され候はば、故将軍{*3}も、草の蔭にては嬉しくこそ思し召され候はんずらめ。方々は、如何思し召され候。」と問ひければ、細川相模守は、今度南方の合戦のとき、仁木右京大夫、三河の星野、行明等が、守護の手に属せずして相模守の手につきたる事を怒つて、彼等が跡を闕所になして、家人どもに当て行はれたりしを、所存に違うて思はれける人なり。
土岐大膳大夫入道善忠は、故土岐頼遠が子、左馬助を仁木が養子にして、ややもすれば善忠が所領を取つて左馬助に申し与へんとするを、鬱憤する折節なり。佐々木六角判官入道崇永は、多年御敵なりし高山を討つて、その跡を賜はりたるを、仁木、建武の合戦に恩賞に申し賜はりたりし所なりとて、押して知行せんとするを、遺恨に思ふ人なり。佐渡判官入道は、我が身に取つて仁木にさしたる宿意はなけれども、余りに傍若無人なる振舞を、狼藉なりと目にかけける時分なり。
今川、細川、土岐、佐々木、皆、義長を憎しと思ふ人どもなりければ、いづれも異議に及ばず。「唯、このついでに彼を討つて、世を鎮むるより外のことは候はじ。」と、面々にぞ同ぜられける。「さらば{*4}、やがて合戦の評定あるべし。」とて、人々の下人どもを遠く除けたる処に、推参{*5}の遁世者、田楽童なんどあまた出で来ける程に、諸人皆、目くばせして、その日は酒宴にて止みにけり。
京勢重ねて南方発向の事 附 仁木没落の事
かかる処に和田、楠等、金剛山並びに国見より出でて、渡辺橋を切つて落とし、誉田城を攻めんとする由、和泉、河内より京都へ早馬を打つて、「急ぎ、勢を下さるべし。」と告げたりければ、「先日数月の大功、一時に空しくなりぬ。」と、宰相中将義詮朝臣、周章し給ひけれども、「誰を下れと下知するとも、下る者あるべからず。」と、諸人の心を推量し給ひて、大息突きておはしけるに、聞くと等しく、畠山入道道誓、細川相模守清氏、土岐大膳大夫入道善忠、佐々木六角判官入道崇永、今川上総介、舎弟伊予守、武田弾正少弼、河越弾正、赤松大夫判官光範、宇都宮芳賀兵衛入道禅可以下、この間一揆同心{*6}の大名三十余人、その勢都合七千余騎、公方の催促をも相待たず、我先にと天王寺へぞ向ひける。
後に、事の様を案ずれば、これ全く、南方の蜂起を鎮めんためにてはなかりけり。唯、右京大夫義長を亡ぼさんがために、勢を集めける企てなり。何とは知らず、京より又大勢下りければ、和田、楠、渡辺にも支へず、誉田城をも攻めず、又金剛山の奥へ引き篭る。京勢、元より敵退治のためならねば、楠引けども、続いても攻めず、勝つにも乗らず。皆、天王寺に集まり居、頭を差し合はせ、頷いて、仁木右京大夫を討つべき謀りごとをぞ巡らしける。唯二人していふ事だにも、「天知る、地知る、我知る。」といへり。況んやこれ程の大勢集まりていひささやく事なれば、なじかは隠れあるべき。この事、やがて京都へ聞こえてげり。
義長、大きに怒つて、「こは、如何に。某が討たるべからん咎は、そも何事ぞ。これ唯、道誓、清氏等が、このついでに謀叛を起こさんためにぞ、左様の事をば企つらん。この事を、急ぎ将軍に申さでは叶ふまじ。」とて、中務少輔ばかりを召し具して、急ぎ宰相中将殿へ参つて、「道誓、清氏こそ、義長を討つべしとて、天王寺より二手になつて、打つて上り候なれ。これはいかさま、天下を覆へさんと存ずる者どもとおぼえ候。御油断あるまじきにて候。」と申しければ、「さる事やあるべき。いふ者の誤りにぞあるらん。千万に一つもさる事あらば、義詮を亡ぼさんとする企てなるべし。我、御辺と一所になつて戦はば、誰か下剋上の者どもに与すべき。」と宣へば、義長、誠に悦びて、己が宿所へぞ帰りける。
義長、分国よりの兵ども、未だ一人も下さで置きたりければ、天王寺の大勢、已に二手になつて攻め上ると告げけれども、敢へて物ともせず。「さもあれ。当手の軍勢、何程かあるらん。著到をつけて見よ。」とて、国々を分けて著到をつけたるに、手勢三千六百余騎、外様の軍勢四千余騎とぞ註しける。義長、著到を披見して、「あはれ、勢や。この勢七千余騎は、天王寺の勢十万騎にも優るべし。然らば、手分けをして敵を待たん。」とて、猶子中務少輔頼夏に二千余騎をつけて、四條大宮に控へさせ、舎弟弾正少弼に一千余騎をつけて、東寺の辺に陣を張らせ、我が身はすぐりたる兵ども相具して、宿所の四方四、五町の程の在家を焼き払ひ、馬の駆け場を広くなして、未だ帷幕の中に並み居たり。その勢ひ、事柄、実にも寄せ手、たとひ如何なる大勢なりとも、この勢に二度三度は、いかさま、駆け散らされんとぞ見えたりける。
「宰相中将殿、もし讒人の申す旨について、細川、畠山に御内通の事ありなば、外様の兵、いかさま弐心をしつべくおぼゆれば、中将殿を取り篭め奉つて、近習の者どもをあたり近く寄すべからず。」とて、中務少輔を召し具し、夜に入れば{*7}、義長二百余騎にて、中将殿の御屋形へ参じ、四方の門を警固して、かつて御内、外様の人を近づけず、毎事、己が所存のままに申し行ひければ、天王寺下向の軍勢どもは、忽ちに朝敵の名を蒙つて、追罰の綸旨、御教書をなされ、義長は武家執事の職に居て、天下の権を司る。唯、五更に油乾いて、灯、正に消えんと欲する時、光を増すに異ならず。
さる程に、七月十六日に、天王寺の勢七千余騎、先づ山崎に打ち集まつて、二手に分かつ。一方には細川相模守を大将とし三千余騎、鵙目、寺戸を打ち過ぎて、西の七條口より寄せんとす。畠山入道、土岐、佐々木を大将にて五千余騎、久我縄手を経て東寺口より寄すべしとぞ定めける。今年、南方、既に静謐して、御敵、今は近国にありとも聞こえねば、京中貴賤、「すは、早、世の中、心安くなりぬ。」と悦びあへる処に、又この事出で来にければ、「こは、如何すべき。」とあわて騒ぎ、妻子をもて扱ひ{*8}、財宝を隠し運ぶ事、道をも通り得ぬ程なり。折を得て、疲労の軍勢、猛悪の下部ども、辻々に打ち散つて、是非なく奪ひ取り、剥ぎむくりければ、喚き叫ぶ声、物音も聞こえず。京中、ただ上を下へぞ返しける。
これまでも猶、中将殿は、仁木に取り篭められおはしましけるを、佐々木判官入道、忍びやかに小門より参つて、「如何なる事にておはしまし候ぞ。国々の大名、一人も残らず一味同心して、失はんと謀り候義長を、御一所してかかへさせ給ひ候はば、叶ふべく候か。彼が振舞、仏神にも放され、人望にも背きはてたるものにて候とは、御覧ぜられ候はざりけるか。さりながら、君の御寵臣を、時宜をも伺はず、左右なく討たんと擬し、忽ちに京中に打つて入る、彼等が所存も一往、御怖畏なきにあらず。されば、先づ御忍び候べし。道誉、唯今仁木に対面して、軍評定仕り候はんずるその間に、しかるべき近習の者一人召し具せられ、女房の体に出で立たせ給ひて、北の小門より御出で候へ。御馬を用意仕つて候。いづくへも忍ばせ参らせ候べし。」とぞ申したりける。
将軍、げにもと思ひ給ひければ、「風気の事あり。」とて、帳台の内へ入り、夜衣引きかづき臥し給へば、仁木中務少輔も、遠侍{*9}へ出でにけり。暫くあつて佐々木判官入道、百騎ばかりにて馳せ来り、仁木に対面して、軍評定、数刻に及ぶ。さる程に、夜も痛く更けぬ。見咎め申すべき人もなくなりにければ、中将殿は、女房の体に出で立つて、紅梅の小袖に柳裏の絹うちかづきて、海老名信濃守、吹屋清式部丞、小島次郎ばかりを召し具して、北の小門より出で給へば、築地の蔭に用意の御馬に、手綱打ち懸けて引つ立てたり。小島次郎、そと寄り、掻い抱き奉つて、馬に打ち乗せ参らせて、中間二人に口引かせ、装束包み持たせて、四、五町が程はしづしづと馬を歩ませ、京中を過ぐれば、鞭に鐙を合はせて、花苑、鳴滝、並岡、広沢池を過ぎて、時の間に西山の谷堂へ落ち給ふ。
これを夢にも知らざりける、仁木右京大夫が運こそあさましけれ。「中将殿、今はいづくへも落ちつかせ給ひぬ。」と思ふ程になりければ、判官入道、おのが宿所へとぞ帰りける。その後、義長、常の御方へ参つて、「夜明け候はば、敵、定めて寄せつとおぼえ候に、今は、御旗をも出だされ候へとて、まゐつて候。軍勢どもに御対面も候へかし。余りに久しく御とのごもり候ものかな。御風気は、何とおはし候やらん。」と申しければ、女房達一、二人、御寝所に参つて、このよしを申さんとするに、夜衣を小袖の上に引つかけて置かれたるばかりにて、下に臥したる人はなし。
女房達、「こは、如何なる御事ぞや。」とあわて騒いで、「あな、不思議や。上{*10}には、これにはおはしも候はざりけるぞや。」と申しければ、義長、大きに怒つて、「女房達、近習の者どもの知らぬ事はあるまじきぞ。四方の門をさし、人を出だすな。」と騒動す。中務少輔は、余りに腹を立てて、貫{*11}はきながら、召し合はせの内へ走り入りて、屏風障子を踏み破り、「日本一のいふがひなしを憑みけるこそ口惜しけれ。唯今も軍に打ち勝つならば、又この人、我等が方へ手を摺つてこそ出で給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐き散らして、己が宿所へぞ帰りける。
宰相中将殿の、仁木が方におはしましつる程こそ、この人の捨てがたさに、国々の勢、外様の人々も、あまた義長が手には附き従ひつれ。「仁木を討たせんために、中将殿、落ち給ひたり。」と聞こえければ、我も我もと百騎二百騎、打ち連れ打ち連れ、寄せ手の方へ馳せ著きける程に、今朝まで七千余騎と註したりし義長勢、僅かに三百余騎になりにけり。
義長は、暫くは、へらぬ体に打ち笑ひて、「よしよし、いふがひなからん奴原は、足纏ひになるに、落ちたるこそよけれ。」といひけるが、「これぞ実に、身に替はり命に替はらんずる者。」と憑み思ひたる重恩の郎従も、「皆、落ち失せぬ。」と聞こえければ、早、詞もなく興醒め、茫然としたる気色なり。
さる程に、夜もやうやう更け行けば、鵙目、寺戸の辺に、松明二、三万燃し連れて、次第に寄せ手の近づく勢ひ見えければ、義長、かくては叶はじとや思ひけん、舎弟弾正少弼をば、長坂を経て丹後へ落とし、猶子中務少輔をば、唐櫃越を経て丹波へ落とす。我が身は近江路へ懸かるよしをして、粟田口より引き違へ、木津河に添ひ、伊賀路を経て伊勢国へぞ落ちたりける。
「義長、勢ひ尽きて都を落ちぬ。」と聞こえしかば、中将殿も、やがて都へ帰り入り給ひ、寄せ手どもも、「今度の軍は定めて手痛からんずらん。」と、あぐんで思ひけるが、案に相違して一軍もなければ、皆悦び勇んで、やがて京にぞ入りにける。
校訂者注
1:底本頭注に、「後光厳天皇。」とある。
2:底本は、「宗徒(むねと)は」。底本頭注に、「旨とする所は。」とある。
3:底本頭注に、「尊氏。」とある。
4:底本は、「然れば」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「無礼も顧みず強ひて参上する事。」とある。
6:底本頭注に、「一味同心に同じ。」とある。
7:底本は、「夜に入らば」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「もてあぐみ。」とある。
9:底本は、「遠侍(とほざぶらひ)」。底本頭注に、「中門の傍にある番侍の詰所。」とある。
10:底本頭注に、「将軍の尊称。即ち義詮のこと。」とある。
11:底本は、「貫(つらぬき)」。底本頭注に、「毛沓。」とある。
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