南方蜂起の事 附 畠山関東下向の事

 さる程に、「京都に同士軍あつて、天王寺の寄せ手引き返す。」と聞こえしかば、大和、河内、和泉、紀伊国の宮方、時を得て、山々峯々に篝を焼き、津々浦々に船を集む。
 これを見て、京都より置かれたる城々の兵ども、寄り合ひ寄り除きささやきけるは、「前に日本国の勢どもが集まつて攻めし時だにも、終に退治しかねてありし和田、楠なり。まして我等が城に篭つて取り巻かれなば、一人も帰る者あるべからず。」とて、先づ和泉の守護にて置かれし細川兵部大輔、未だ敵の懸からぬ前に落ちしかば、紀伊国の城衆、湯浅の一党も、船に取り乗りて、兵庫を指して落ち行く。河内国の守護代杉原周防入道は、誉田城を落ちて水速城に楯篭り、ここに暫く支へて京都の左右を待たんとしけるが、楠、大勢を以て息も継がず攻めける間、一日一夜戦つて、南都の方へぞ落ちにける。
 根来の衆は、かやうに御方の落ち行くをも知らず、与力同心の兵あつまりて三百余人、紀伊国春日山城に楯篭り、二引両の旗を一流れ打ち立てて居たりけるを、恩地、牲河、三千七百余騎の勢にて押し寄せ、城の四方を取り巻いて、一人も余さず討ちにけり。熊野には湯河荘司、将軍方になつて、鹿瀬、蕪坂の後ろに陣を取り、阿瀬河入道定仏が城を攻めんとしけるを、阿瀬河入道、山本判官、田辺別当、二千余騎にて押し寄せ、四角八方へ追ひ散らし、三百三十三人が首を取つて、田辺宿にぞかけたりける。「鷸蚌相挟む時は、烏、その弊えに乗る。」とは、かやうの時をや申すべき。都には、「仁木右京大夫、落ちたり。」と悦ばぬ人もなかりけれども、「畿内遠国の御敵は、これに時を得て蜂起す。」と聞こえければ、「すはや、世は又、大乱になりぬるは。」とささやかぬ人もなかりけり。
 その頃、如何なる者のわざにや、五條の橋詰めに高札を立てて、二首の歌を書きつけたり。
  御敵の種を蒔きおく畠山うちかへすべき世とは知らずや
  いかほどの豆を蒔きてか畠山日本国をば味噌になす{*1}らむ
又これは、仁木を引く人のわざかとおぼえて、一首の歌を六角堂の門の扉に書きつけたり。
  いしかりし源氏の日記うしなひて伊勢ものがたりせぬ人もなし{*2}
畠山入道、その頃、常に狐の皮の腰当をして人に対面しけるを、憎しと見る人やよみたりけん、
  畠山狐の皮のこしあてにばけのほどこそあらはれにけれ
又、湯河荘司が宿の前に、作者芋瀬荘司と書きて、
  宮方の鴨頭{*3}になりし湯の川はみやこに入りてなんの香もせず
 「今度の乱は、しかしながら畠山入道の所行なり。」と、落書にもし、歌にもよみ、湯屋風呂の女童部までももてあつかひければ、畠山、面目なくや思ひけん、暫く虚病して居たりけるが、「かくの如くにては、天下の禍ひ、いかさま我が身一人に係りぬ。」と思ひければ、将軍に暇をも申さで、八月四日の夜、ひそかに京都を逃げ出でて、関東を指してぞ下りける。
 三河国は、仁木右京大夫{*4}多年管領の国なりければ、守護代西郷弾正左衛門尉、五百余騎にて矢矧に出張りして、道を差し塞ぎける間、通り得ず、路次に日数をぞ送りける。「かくの如く、いつまでか中途に浮かれてあるべき。中山道を経てや下る、京へや引き返す。」と案じ煩ひける処に、小川中務、仁木に同心して、尾張国にて旗を揚ぐる間、関東下向の勢、畠山を始めとして、白旗一揆、平一揆、佐竹、宇都宮に至るまで、前後の敵に取り篭められ、前へも通れず、後へも帰り得ず、茫然としてぞ居たりける。
 山名伊豆守は、「東国勢、既に南方を退治して、都へ帰りぬ。」と聞こえしかば、はじめは、「いかさま、このついでに我が方へも寄せられぬ。」と推量して、城を構へ鏃を磨いて、防ぐべき用意をせられけるが、「都に不慮の軍出で来て、仁木右京大夫、宮方になり、和田、楠、又打ち出でたり。」と聞こえければ、伊豆守、やがて機に乗つて、その勢三千余騎を率し、二手に分けて、因幡、美作両国の間に勢を分けてぞ置きたりける。赤松筑前入道世貞、同律師則祐が所所の城を攻むるに、草木、揉尾、景石、塔尾、新宮、神楽尾城ども、一こらへもせず、或いは敵になつて、かへつて御方を攻め、或いは行方を知らず落ち失せぬ。
 「唇竭きて歯寒く、魯酒薄うして邯鄲囲まる。」とは、かやうの事をや申すべき。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「味噌をつける。」とある。
 2:底本頭注に、「〇源氏の日記 源氏物語と源氏の仁木とを云ひかく。」「〇伊勢ものがたり 在五中将の物語である伊勢物語を仁木の伊勢に没落した事件にとりなしいふ。」とある。
 3:底本は、「鴨頭(かふと)」。底本頭注に、「柚子の皮など吸物の香味とした物。字義は水に浮ぶに擬して云ふ。」とある。
 4:底本は、「仁木(につき)左京(の)大夫」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。