北野通夜物語の事 附 青砥左衛門が事
その頃、日野僧正頼意、ひそかに吉野の山中を出でて、いささか宿願の事ありければ、霊験の新たなる事を憑み奉り、北野の聖廟に通夜し侍りしに、秋も半ば過ぎて、杉の梢の風の音もすさまじくなりぬれば、有明の月もやうやく西に{*1}、閑庭の霜に映ぜる影、常よりも神さびてもの哀れなるに、巻き残せる御経を手に持ちながら、灯を挑げ壁に寄り添ひて、折に触れたる古き歌など詠じつつ嘯き居たる処に、これも秋の哀れに催されて、月に心のあこがれたる人よとおぼしくて、南殿の高欄に寄りかかつて、三人並み居たる人あり。
「如何なる人やらん。」と見れば、一人は、「古、関東の頭人評定衆なみに列なつて、武家の世の治まりたりし事、昔をもさぞ偲ぶらん。」とおぼえて、坂東声なるが、年の程六十ばかりなる遁世者なり。一人は、「今、朝廷に仕へながら、家貧しく豊かならで、出仕なんどをもせず、いたづらなるままに、何となく学窓の雪に向つて、外典{*2}の書に心をぞ慰むらん。」とおぼえて、体なびやかに色青ざめたる雲客なり。一人は、「何がしの律師僧都なんどいはれて、門跡辺に伺候し、顕密の法灯を挑げんと、稽古の枢を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらん。」とおぼえたるが、細く痩せたる法師なり。初めに、天満天神の文字を句毎のかしらに置いて連歌をしけるが、後には異国本朝の物語になつて、「実にも。」とおぼゆる事ども多かり。
先づ、儒業の人かと見えつる{*3}雲客、「さても、史書の載する所、世の治乱を考ふるに、戦国の七雄も終に秦の政に合はせられ、漢楚七十余度の戦ひも、八箇年の後、世、漢に定まれり。我が朝にも、貞任、宗任が合戦、先九年後三年の軍、源平の争ひ三箇年。この外も、久しくして一両年を過ぎず。そもそも元弘より以来、天下、大きに乱れて三十余年、一日も未だ静かなる事を得ず。今より後も、いつ鎮まるべき期ともおぼえず。こは、そも何故とか御料簡候。」といへば、坂東声なる遁世者、珠数高らかに繰り鳴らし、憚る所なく申しけるは{*4}、「世の治まらぬこそ道理にて候へ。
「異国本朝の事は、御存知の前にて候へば、中々申すに及ばず候へども、昔は、民苦を問ふ使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひたまふ。その故は、君は民を以て体となし、民は食を以て命となす。それ、穀尽きぬれば民窮し、民窮しぬれば年貢を備ふる事なし。疲馬の鞭を恐れざるが如く、王化をも恐れず、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は、吏の科なり。吏の不善は国王に帰す。君、良臣を選まず、利を貪る輩を用ゐれば{*5}暴悪をほしいままにして、百姓を虐ぐれば民の憂ひ、天に昇つて災変をなす。災変起これば国土乱る。これ、上慎しまず、下侮る故なり。
「国土もし乱れば{*6}、君何ぞ安からん。百姓荼毒して、四海逆浪をなす。されば、湯武は火に身を投げ、桃林の社に祭り、太宗は蝗を呑んで、命を園囿の間に任す。己を責めて天意に叶ひ、民を撫でて地声{*7}を顧み給へとなり。則ち知んぬ、王者の{*8}憂楽は衆と同じかりけりといふ事を、白楽天も書き置き侍りき。されば延喜帝{*9}は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を憐れみたまひしだに、正しく地獄に落ちたまひけるを、笙岩屋の日蔵上人は見給ひけるとこそ承れ。
「かの上人、承平四年八月一日午の時、頓死して、十三日ぞおはしける。その程、夢にもあらず幻にもあらず、金剛蔵王の善巧方便にて三界流転の間、六道四生の住みかを見給ひけるに、等活地獄の別処、鉄崛地獄とてあり。火炎うづまき、黒雲、空に覆へり。鉄の嘴ある鳥、飛び来つて、罪人の眼をつつきぬく。又、鉄の牙ある犬吠え来つて、罪人の脳を吸ひ食らふ。獄卒、眼を怒らして声を振ふ事、雷の如し。狼虎、罪人の肉を裂き、利剣、足の踏み処なし。その中に、焼き炭の如くなる罪人四人あり。叫喚する声を聞けば、忝くも延喜帝にてぞおはしましける。不思議やと思ひて、立ち寄つて事のさまを問へば、獄卒答へて曰く、『一人はこれ、延喜帝。残りは臣下なり。』とて、鉾に刺し貫いて、炎の中へ投げ入れ奉りける有様、業果法然の理{*10}とはいひながら、余りに心憂くぞおぼえける。
「やや暫くあつて上人、『さりとては、延喜帝に少しの御暇を宥め奉り、今一度竜顔を拝し、本国へ帰らん。』と、泣く泣く宣ひければ、一人の獄卒、これを聞いて、いたはしげもなく鉄の鉾に貫きて、炎の中より差し出だし、十丈ばかり差し上げて、熱鉄の地の上へ打ちつけ奉る。焼き炭の如くなる御かたち、散々に打ち砕かれて、その御形とも見え給はず。鬼ども、又走り寄つて、足を以て一所に蹴集むる様にして、「活々。」といひければ、帝の御姿、顕はれ給ふ。上人、畏まつて、唯、涙に咽び給ふ。帝の宣はく、『汝、我を敬ふ事なかれ。冥途には、罪業なきを以て主とす。然れば、貴賤上下を論ずる事なし。
「『我は、五種の罪に依つて、この地獄に堕ちたり。一つには、父寛平法皇{*11}の御命を背き奉り、久しく庭上に見下し奉りし咎。二つには、讒言に依つて、咎なき才人{*12}を流罪したりし報い。三つには、自らの怨敵と号して、他の衆生を損害せし咎。四つには、月中の斎日に本尊を開かざる咎。五つには、日本の王法をいみじき事に思ひて、人間に著心の深かりし咎。この五つを根本となして、自余の罪業、無量なり。故に苦しみを受くる事、無尽なり。願はくは上人、我がために善根を修してたび給へ。』と宣ふ。修すべき由、応諾申す。『然らば、諸国七道に一万本の卒堵婆を立てて、大極殿にして仏名懺悔の法を修すべし。』と仰せられたりけるとき、獄卒又、鉾に刺し貫き、炎の底へ投げ入る。上人、泣く泣く帰り給ふ時、金剛蔵王の宣はく、『汝に六道を見する事、延喜帝の有様を知らしめんためなり。』とぞ仰せられける。
「かの帝は、随分民を憐れみ、世を治めたまひしだに、地獄に落ち給ふ。まして、それ程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落つる人の多かるらめとおぼえたり。又、承久より以降、武家、代々天下を治めし事は、評定の末席に列なつて承り置きし事なれば、少々耳に残る事も侍り{*13}。それ、天下久しく武家の世となりしかば、尺地もその有にあらずといふ事なく、一家もその民にあらずといふ所なかりしかども、武威を専らにせざるに依つて、地頭、敢へて領家を侮らず、守護、かつて検断の外にいろはず。かかりしかども、尚、成敗を正しくせんために、貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作つて荘郷を分かちて{*14}、貞永に五十一箇條の式目を定めて、裁許に滞らず。されば、上、敢へて法を破らざれば、下又、禁を犯さず。世治まり、民素直なりしかども、我が朝は、神国の権柄、武士の手に入り、王道仁政の裁断、夷狄の眸に懸かりしをこそ歎きしか。
「されども、上代には世を治めんと思ふ志深かりけるにや、泰時朝臣、在京の時、明恵上人に相看して、法談のついでに仰せられけるは、『如何にしてか天下を治め、人民を安んじ候べき。』と申されければ、上人宣はく、『良医よく脈を取つて、その病の根源を知つて、薬を与へ灸を加ふれば、病自ら癒ゆるやうに、国を乱る源をよく知つて治め給ふべし。乱世の根源は唯、欲を本と為す。欲心変じて一切万般の禍ひとなる。』と宣へば、泰時の曰く、『我、この旨を存ずといへども、人々、無欲にならん事、難し。』と宣へば、上人の曰く、『太守一人、無欲にならん事を思ひ給はば、それに恥ぢて万人、自然に欲心薄くなるべし。人の欲心深く訴へ来らば、我が欲の直らぬ故ぞと、我を恥ぢしめ給ふべし。古人の曰く、『その身、直にして影曲がらず。その政、正しうして、国乱るる事なし。』と、云々。又曰く、『君子その室に居て、その言を出だす事、善なる時は、則ち千里の外、皆まさにこれに応ずべし。』と。
「善といふは、無欲なり。伝へ聞く、周の文王の時、一国の民、畔を譲るも、文王一人の徳、諸国におよぶ故に、万人皆やさしき心になりしなり。畔を譲るといふは、我が田の境をば、人の方へは譲り与ふれども、仮にも人の地をして掠め取る事はなかりけり。今程の人の心には違ひたり。仮にも人の物をば掠め取れども、我が物を人に遣る事、あるべからず。その頃、他国より訴訟のために、この周の国を通るとて、この有様を道のほとりにて見て、我が欲の深き事を恥ぢて、路より帰りけり。されば、この文王、我が国を治むるのみならず、他国まで徳を施すも、唯、この一人の無欲に依つてなり。あまつさへ、この徳満ちて天下を一統して取り、百年の齢を保ちき。
「『太守一人、小欲になり給はば、天下皆、かかるべし。』と宣ひければ、泰時、深く信じて、父義時朝臣の頓死して譲り状のなかりし時、つらつら義時の心を思ふに、我よりも弟をば鍾愛せられしかば、父の心には、かの者にぞ取らせたく思ひたまひて、譲りをばし給はざるらんと推量して、弟の朝時、重時以下に宗徒の所領を与へて、泰時は、三、四番めの末子の分限程少なく取られけれども、今まではいささか不足なる事なし。かくの如く、万、小欲に振舞ふ故にや、天下、日に随つて治まり、諸国、年を追つて豊かなりき。
「この太守の前に訴訟の人来れば、つくづくと両人の顔を目守つて曰く、『泰時、天下の政を司つて、人の心に姦曲なき事を存ず。然れば、廉直の中に論なし。一方は定めて姦曲なるべし。いづれの日、両方、証文を持つて来るべし。姦謀の人に於いては、忽ちに罪科に申し行ふべし。姦智の者一人、国にあれば、万人の禍ひとなる。天下の敵、何事かこれに如かん。疾く疾く帰り給ふべし。」とて立てられけり。この体を見るに、僻事あらば、やがていかなる目にも遭はせらるべしとて、各、帰つて後、両方談合して或いは和談し、或いは僻事の方は私に負けて、論所を去り渡しける。
「およそ、無欲なる人をば賞し、欲深き者をば恥ぢしめ給ひしかば、人の物を掠め取らんとする者はなかりけり。されば、寛喜元年に天下飢饉の時、借書を整へ判形を加へて、富裕の者の米を借るに、泰時、法を置かれけるは、『来年、世立ち直らば、本物ばかりを借り主に返納すべし。利分は我、添へてかへすべし。』と定められて、面々の状を取りおかれけり。所領をも持ちたる人には、約束の本物を返させ、我が方より利分をそへ、慥かに返し遣はされけり。貧なる者には皆許して、我が領内の米にてぞ、主には慥かに返されける。
「さやうの年は、家中に毎事倹約を行うて、一切の質物どもも、古き物を用ゐ{*15}、衣裳も新しきをば著ず、烏帽子をだに古きを繕はせて著し給ふ。夜は灯なく、昼は一食を止め、酒宴遊覧の儀なくして、この費えを補ひ給ひけり。依つて、一度食するに、士来れば終へざるに急ぎこれにあひ、一たび櫛けづるにも、訴へ来れば、先づこれをきく。一寝一休、これを安んぜずして、人の愁へを抱いて待たん事を恐る。進んでは万人を撫でん事を図り、退いては一身に失あらん事を恥づ。然るに太守逝去の後、父母を背き兄弟を失はんとする訴論いで来て、人倫の孝行、日に添へて衰へ、年に随つてぞ廃れたる。一人正しければ、万人それに随ふ事、分明なり。
「然る間、猶も、『遠国の守護国司、地頭御家人、如何なる無道猛悪の者あつてか、人の所領を押領し、人民百姓を悩ますらん。自ら諸国を巡りて、これを聞かずば叶ふまじ。』とて、最明寺時頼禅門{*16}、ひそかにかたちを窶して六十余州を修行し給ふに、或る時、摂津国難波の浦に行き到りぬ。潮汲む海士のわざどもを見給ふに、身を安くしては一日も叶ふまじき理をいよいよ感じて、既に日暮れければ、荒れたる家の、垣間まばらに軒傾いて、時雨も月もさこそ漏るらめと見えたるに立ち寄つて、宿を借り給ひけるに、内より年老いたる尼公一人出でて、『宿を借し奉るべき事は易けれども、藻塩草ならでは敷く物もなく、磯菜より外は参らすべき物も侍らねば、中々、宿を借し奉りても甲斐なし。』とわびけるを、『さりとては、日も早、暮れはてぬ。又、問ふべき里も遠ければ、まげて一夜を明かし侍らん。』と、とかくいひ侘びて止まりぬ。
「旅寝の床に秋更けて、浦風寒くなるままに、折り焼く葦の夜もすがら、臥し侘びてこそ明かしけれ。朝になりぬれば、主の尼公、手づから飯匙取る音して、椎の葉折り敷きたる上に、餉盛りて持ち出で来たり。かひがひしくは見えながら、かかるわざなんどに馴れたる人とも見えねば、おぼつかなくおぼえて、『などや、御内に召し仕はるる人は候はぬやらん。』と問ひ給へば、尼公、泣く泣く『さ候へばこそ。我は、親の譲りを得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫にも後れ、子にも別れて、便りなき身となりはて候ひし後、惣領某と申す者、関東奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押さへ取つて候へども、京鎌倉に参つて訴訟申すべき代官も候はねば、この二十余年、貧窮孤独の身となつて、麻の衣のあさましく、垣面の柴のしばしばもながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡るる露の身の、消えぬ程とて世をわたる、朝餉の煙の心ぼそさ、唯、推し量り給へ。』と、委しくこれを語つて、涙にのみぞ咽びける。
「抖擻{*17}の聖、つくづくとこれを聞きて、余りにあはれにおぼえて、笈の中より小硯取り出だし、卓の上に立てたりける位牌の裏に、一首の歌をぞ書かれける。
難波潟潮干にとほき月かげのまたもとの江にすまざらめやは
「禅門、諸国抖擻終はつて、鎌倉に帰り給ふと等しく、この位牌を召し出だし、押領せし地頭が所帯を没収して、尼公が本領の上に添へてぞ、これを賜ひたりける。この外、到る所ごとに、人の善悪を尋ね聞きて、委しく註しつけられしかば、善人には賞を与へ、悪者には罰を加へられける事、あげて数ふべからず。されば、国には守護国司、所には地頭領家、威あつて驕らず、隠れても{*18}僻事をせず。世、淳素に帰し、民の家々豊かなり。
「後の最勝園寺貞時{*19}も、先蹤を追ひ、又修行し給ひしに、その頃、久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給ひて、領家悉く没収せられ給ひしかば、城南の茅宮に、閑寂を耕してぞ隠居したまひける。貞時、抖擻のついでに、かの故宮の有様を見給ひて、「如何なる人の棲墀{*20}にてかあるらん。』と、こと問ひ給ふ処に、諸大夫とおぼしき人立ち出でて、しかじかとぞ答へける。貞時、つぶさに聞きて、『御罪科、さしたることにても候はず。その上、大家の一跡、この時断亡せん事、勿体なく候。など関東様へは御歎き候はぬやらん。』とこの修行者、申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ。この御所の御様、昔びれて、かやうの事申せば、「いふ事やあるべき。我が身の咎なきよしに関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家この時亡ぶとも、いかでか臣として君の非をば挙げ奉るべき。力なし、時刻到来、歎かぬ所ぞ。」と仰せられ候間、御家門の滅亡、この時にて候。』と語りければ、修行者、感涙を抑へて立ち帰りにけり。誰といふ事を知らず。関東帰居の後、最前にこの事をありのままに申されしかば、仙洞、大きに御恥ぢあつて、久我の旧領、悉く早速に還し附けられけり。さてこそこの修行者をば、貞時と知られけれ。
「一日二日の程なれど、旅に過ぎたる哀れはなし。況んや煙霞万里の道の末、想ひやるだに憂きものを、深山路に行き暮れては、苔の莚に露を敷き、遠き野原を分け侘びては、草の枕に霜をむすぶ。渡口に船を呼んで立ち、山頭に路を失ひて帰る{*21}。煙蓑雨笠、破草鞋の底、すべて故郷を思ふ愁へならずといふ事なし。豈天下の主として、身富貴に居する人、好んで諸国を修行すべしや。唯、身安く楽しみに誇つては、世治まり難き事を知る故に、三年の間唯一人、山川を抖擻し給ひける心の程こそあり難けれと、感ぜぬ人もなかりけり。
「又、報光寺、最勝園寺二代の相州に仕へて、引附の人数に列なりける青砥左衛門といふ者あり{*22}。数十箇所の所領を知行して、財宝豊かなりけれども、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼きたる塩、干したる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は、木鞘巻の刀を差し、木太刀を持たせけるが、叙爵の後は、この太刀に弦袋をぞ附けたりける。かやうに、我が身のためにはいささかも過差{*23}なる事をせずして、公方の事には千金万玉をも惜しまず。又、飢ゑたる乞食、疲れたる訴訟人などを見ては、分に随ひ品に依つて、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に等しき慈悲にてぞありける。
「或る時、徳宗領に沙汰出で来て、地下の公文と相模守と、訴陳に番ふ事あり{*24}。理非懸隔して、公文が申す処、道理なりけれども、奉行頭人評定衆、皆徳宗領に憚つて、公文を負かしけるを、青砥左衛門唯一人、権門にも恐れず、理の当たる処をつぶさに申し立てて、遂に相模守をぞ負かしける。公文、不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、その恩を報ぜんとや思ひけん、銭を三百貫俵に包みて、後ろの山よりひそかに青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門、これを見て大きに怒り、『沙汰の理非を申しつるは、相模殿を思ひ奉る故なり。全く地下の公文を引くにあらず。もし引出物を取るべくは、上の御悪名を申し留めぬれば、相模殿よりこそ悦びをばし給ふべけれ。沙汰に勝ちたる公文が引出物をすべき様なし。』とて、一銭をも遂に用ゐず{*25}、遥かに遠き田舎まで持ち送らせてぞ返しける。
「又或る時、この青砥左衛門、夜に入りて出仕しけるに、いつも燧袋に入れて持ちたる銭を十文取り外して、滑河{*26}へぞ落とし入れたりけるを、少事の物なれば、よし、さてもあれかしとてこそ行き過ぐべかりしが、以ての外にあわてて、そのほとりの町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て松明を十把買ひて、則ちこれを燃して、遂に十文の銭をぞ求め得たりける。
「後日にこれを聞きて、『十文の銭を求めんとて、五十にて松明を買つて燃したるは、小利大損かな。』と笑ひければ、青砥左衛門、眉を顰めて、『さればこそ御辺達は愚かにて、世の費えをも知らず、民を恵む心なき人なれ。銭十文は、唯今求めずば、滑河の底に沈みて永く失ひぬべし。某が松明を買はせつる五十の銭は、商人の家に止まつて、永く失ふべからず。我が損は、商人の利なり。彼と我と何の差別かある。かれこれ六十文の銭、一つをも失はず。豈天下の利にあらずや。』と、爪弾きをして申しければ、難じて笑ひつるかたへの人々、舌を振りてぞ感じける。
「かやうに私なき処、神慮にや通じけん、或る時相模守、鶴岡の八幡宮に通夜し給ひける暁、夢に衣冠正しくしたる老翁一人、枕に立つて、『政道を正しくして、世を久しく保たんと思はば、心、私なく、理に暗からざる青砥左衛門を賞翫すべし。』と慥かに示さるとおぼえて、夢忽ち覚めてげり。相模守、夙に帰り、近国の大荘八箇所、自筆に補任を書きて、青砥左衛門にぞ賜ひたりける。青砥左衛門、補任を啓き見て、大きに驚いて、『これは、今何事に三万貫に及ぶ大荘、賜はり候やらん。』と問ひ奉りければ、『夢想に依つて、先づ暫く当て行ふなり。』と答へ給ふ。
「青砥左衛門、顔を振つて、『さては、一所をもえこそ賜はり候まじけれ。且は御意の通りも歎き入りて存じ候。物の定相なき喩へにも、如夢幻泡影、如露亦如電とこそ金剛経にも説かれて候へ。もし某が首を刎ねよといふ夢を御覧ぜられ候はば、咎なくとも夢の如く行はれ候はんずるか。報国の忠薄うして、超涯の賞を蒙らん事、これに過ぎたる国賊や候べき。』とて、則ち補任をぞ返し参らせける。自余の奉行どもも、かやうの事を聞きて己を恥ぢし間、これまでの賢才はなかりしかども、いささかも理に背き、賄賂に耽ける事をせず。ここを以て平氏相州、八代まで天下を保ちしものなり。
「それ、政道のために仇なるものは、無礼、不忠、邪欲、功誇、大酒、遊宴、抜折羅{*27}、傾城、双六、博奕、剛縁{*28}、内奏、さては不直の奉行なり。治まりし世には、これを以て誡めとせしに、今の代の体たらく、皆これを肝要とす。我こそ悪しからめ、ちと礼義をも振舞ひ、極信をも立つる人をば、『あら、見られずの延喜式や{*29}。あら、気詰まりの色代や。』とて、目を引き、仰けに倒れ、笑ひ、軽謾す。これは唯、一つの直なる猿が、九つの鼻欠け猿に笑はれて逃げ去りけるに異ならず。
「又、仏神領に天役課役をかけて、神慮冥慮に背かん事を痛まず。又、寺道場に要脚をかけ、僧物施料を貪る事を業とす。これ、しかしながら、上方御存知なしといへども、責め一人に帰する謂はれもあるか。かくてはそもそも、世の治まるといふ事の候べきか。せめては宮方にこそ君も久しく艱苦を嘗めて、民の愁へを知ろし召し候。臣下もさすが、知恵ある人多く候なれば、世を治めらるべき器用も御渡り候らんと、心憎く存じ候へ。」と申せば、鬢帽子したる雲客、うちほほ笑みて、「何をか心にくく思し召し候らん。宮方の政道も、唯これと重二重一{*30}にて候ものを。某も、今年の春まで南方に伺候して候ひしが、天下を覆へさん事も守文の道も、叶ふまじきほどを至極見透かして、さらば、道広くなつて遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷り出で候あひだ、宮方の心にくき所は、つゆばかりも候はず。
「先づ、古を以て思ひ候に、昔、周の大王と申しける人、豳といふ所におはしけるを、隣国の戎ども、起つて討たんとしける間、大王、牛馬珠玉等の宝を贈つて礼をなしけれども、尚止まず。早く国を去つて出でずんば、大勢を以て攻むべき由をぞ申しける。万民百姓、これを怒つて、『その儀ならば、よしや我等、身命を捨てて防ぎ戦はんずる上は、大王、戎に向つて和を請ふこと、おはすべからず。』と申しけるを、大王、『いやいや、我が国を惜しく思ふは、人民を養はんがためばかりなり。我、もし彼と戦はば、若干の人民を殺すべし。そを養はんための地を惜しみて、養ふべき民を失はん事、何の益かあるべき。又、知らず、隣国の戎ども、もし我より政道よくば、これ、民の悦びたるべし。何ぞあながちに我を以て主とせんや。』とて、大王、豳の地を戎に与へ、岐山の麓へ逃げ去つて、悠然として居給ひける。豳の地の人民、『かかるあり難き賢人を失つて、豈礼義をも知らず仁義もなき戎に随ふべしや。』とて、子弟老弱引き連れて、同じく岐山の麓に来て、大王に附き従ひしかば、戎は己と皆亡びはてて、大王の子孫、遂に天下の主となり給ふ。周の文王、武王、これなり。
「又、忠臣の君を諌め、世を助けんとする振舞を聞くに、皆、今の朝廷の臣に似ず。唐の玄宗は、兄弟二人おはしけり。兄の宮をば寧王と申し、御弟をば玄宗とぞ申しける。玄宗、位に即かせ給ひて、好色の御心深かりければ、天下に勅を下して、容色、華の如くなる美人を求め給ひしに、後宮三千人の顔色、我も我もと金翠を飾りしかども、天子、再びと御眸を廻らされず。ここに弘農の楊玄琰が女に楊貴妃といふ美人あり。養はれて深窓にあり、人未だこれを知らず。天の成せる麗質なれば、更に人間の類とは見えざりけり。或る人、これをなかだちして、寧王の宮に参らせけるを、玄宗聞こし召して、高力士といふ将軍を差し遣はし、道よりこれを奪ひ取つて、後宮へぞかしづき入れ奉りける。
「寧王、限りなく本意なき事に思し召しけれども、御弟ながら、時の天子として振舞はせ給ふ事なれば、力及ばず。寧王も、同じ内裏の内に御座ありければ、御遊などのある度毎に、玉の几帳の外、金鶏障の隙より楊貴妃のかたちを御覧ずるに、一度笑める眸には、金谷千樹の花、匂ひを恥ぢて四方の嵐に誘はれ、仄かに見たる容貌は、銀漢{*31}万里の月、粧ひを妬みて五更の霧に沈みぬべし。雲居遥かに鳴神の中を裂けずば、何故か外には人を水の泡の哀れとは思ひ消ゆべきと、寧王、思ひに堪へかねて、臥し沈み歎かせ給ひける御心の中こそ哀れなれ。
「天子の御傍らには、太史の官とて八人の臣下、長時に伺候して、君の御ふるまひを善悪につけて註し留め、官庫に収むる習ひなり。この記録をば{*32}、天子も御覧ぜられず、かたへの人にも見せず、ただ史書に書き置いて、前王の是非を後王の誡めに備ふるものなり。玄宗皇帝、今寧王の夫人を奪ひ取り給へること、いかさま、史書に註されぬと思し召しければ、ひそかに官庫を開かせて、太史の官が註す所を御覧ずるに、果たしてこの事をありのままに註し附けたり。玄宗、大きに逆鱗あつて、この記録を引き破つて捨てられ、史官をば召し出だして、則ち首をぞ刎ねられける。それより後、太史の官闕けて、この職に居る人なかりければ、天子、非を犯させ給へども、敢へて憚る方もおはせず。
「ここに、魯国に一人の才人あり。宮闕に参つて太史の官を望みける間、則ち左太史になして、天子の傍に慎しみ随ふ。玄宗、又この左太史も、楊貴妃の事をや記し置きたるらんと思し召して、ひそかに又、官庫を開かせ記録を御覧ずるに、『天宝十年三月に、弘農楊玄琰が女、寧王の夫人と為す。天子、容色の媚を聞きて、漫りに高将軍を遣はして、奪つて後宮に容れらる。時に太史の官、これを記して史書に留むと云々。ひそかに天覧に達するの日、天子、これを怒つて史官を誅せられ訖んぬ。』とぞ記したりける。玄宗、いよいよ逆鱗あつて、又この史官を召し出だして、則ち車裂きにぞせられける。
「かくては太史の官になる者あらじとおぼえたる処に、又、魯国より儒者一人来つて、史官を望みける間、やがて左太史になさる。これが註す処を又召し出だして御覧ずるに、『天宝の年の末、泰階平安にして、四海無事なり。政行漸く怠り、遊歓益々甚だし。君王、色を重んじて、寧王の夫人を奪ふ。史官、これを記して、或いは誅せられ、或いは車裂きにせらる。臣、苟くもその非を正さんために、死を以て史職に居す。後来の史官、たとひ死を賜ひ、継ぐに万死を以てすとも、史官たる者、これを記さざるべからず。』とぞ記したりける。己が命を軽んずるのみに非ず、後の史官に至るまで、たとひ万人死するとも、記さずんばあるべからずと、三族の刑をも恐れず註し留めし左太史が忠心の程こそあり難けれ。
「玄宗この時、自らの非を知ろし召し、臣の忠義を叡感あつて、その後よりは、史官を誅せられず、かへつて大禄をぞ賜はりける。人として死を痛まずといふ事なければ、三人の史官、全く誅を悲しまざるにはあらず。もし天威を恐れて君の非を註さずんば、叡慮、憚る所無く、悪しき御振舞、なほ{*33}ありぬと思ひし間、死罪に行はるるをも顧みず、これを註し留めける太史官の心の中、想ひやるこそあり難けれ。国に諌臣あれば、その国必ず安く、家に諌子あれば、その家必ず正し。されば、かくのごとき君も、誠に天下の人を安からしめんと思し召し、臣も私なく君の非を諌め申す人あらば、これ程に払ひ棄てつる武家の世を、宮方に拾ひて取らざらんや。か程に安き世を取り得ず、三十余年まで南山の谷の底に、埋もれ木の花咲く春を知らぬ様にておはしますを以て、宮方の政道をば思ひやらせ給へ。」と、爪弾きをしてぞ語りける。
両人の物語、実にもと聞きゐて耳を澄ます処に、又、これは内典の学匠にてぞあるらんと見えつる法師、つくづくと聞きて、帽子を押し除け、菩提子の念珠爪繰りて申しけるは、「つらつら天下の乱れを案ずるに、公家の御咎とも武家の僻事とも申し難し。唯、因果の感ずる所とこそ存じ候へ。その故は、仏に妄語なしと申せば、仰いで誰か信を取らで候べき。
「仏説の述ぶる所を見るに、増一阿含経に、昔、天竺に波斯匿王と申しける小国の王、浄飯王の聟にならんと請ふ。浄飯王、御心には嫌はしく思し召しながら、辞するに詞やなかりけん、召し仕はれける夫人の中に、みめかたち殊に類なく勝れたるを選んで、これを第三の姫宮と名づけ給ひて、波斯匿王の后にぞなされける。やがて、この后の御腹に、一人の皇子出で来させ給ふ。これを瑠璃太子とぞ申しける。
「七歳にならせ給ひける年、浄飯王の城へおはして遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞおはし給ひたりける。釈氏の諸王大臣、これを見て、『瑠璃太子は、これ実の御孫にはあらず。何故にか大王と同位におはし給ふべき。』とて、則ち玉の床の上より追ひ下し奉る。瑠璃太子、幼き心にも安からざる事に思し召しければ、『我が年長ぜば{*34}、必ず釈氏を滅ぼして、この恥をすすぐべし。』と深く悪念をぞ起こされける。
「さて、二十余年を経て後、瑠璃太子、人となり、浄飯王は崩御なりしかば、瑠璃太子、三百万騎{*35}の勢を率して、摩竭陀国の城へ寄せ給ふ。摩竭陀国は大国たりといへども、俄の事なれば、兵、未だ国々より馳せ参らで、王宮、已に攻め落とさるべく見えける処に、釈氏の刹利種{*36}に強弓ども数百人あつて、十町二十町を射越しける間、寄せ手、かつて近づき得ず。山に上り河を隔てて、いたづらに日をぞ送りける。
「かかる処に、釈氏の中より時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へ返り忠をして{*37}申しけるは、『釈氏の刹利種は、五戒を保ちたる故に、かつて人を殺す事をせず。たとひ弓強くして遠矢を射るとも、人に射あつる事は、あるべからず。唯寄せよ。』とぞ教へける。寄せ手、大きに悦びて、今は楯をも突かず、鎧をも著ず、鬨の声を作りかけて寄せけるに、実にも釈氏どもの射る矢、更に人に当たらず。鉾を使ひ剣を抜いても、人を斬る事なかりければ、摩竭陀国の王宮、忽ちに攻め落とされ、釈氏の刹利種、悉く一日が中に滅びんとす。
「この時、仏弟子目連尊者、釈氏の残る所なく討たれなんとするを悲しみて、釈尊の御所に参つて、『釈氏、已に瑠璃王のために亡ぼされて、僅かに五百人残れり。世尊、何ぞ大神通力を以て五百人の刹利種を助け給はずや。』と申されければ、釈尊、『止みなん、止みなん。因果の感ずる所、仏力にも転じ難し。』とぞ宣ひける。目連尊者、尚も悲しみに堪へず、『たとひ定業なりとも、通力を以てこれを隠蔽せんに、などか助からざらんや。』と思し召して、鉄の鉢の中にこの五百人を隠し入れて、忉利天にぞ置かれける。摩竭陀国の軍はてて、瑠璃王の兵ども、皆本国に帰りければ、今は仔細あらじとて、目連、神力の御手を伸べて、忉利天に置かれたる鉢を仰のけて御覧ずるに、神通を以て隠さるる五百人の刹利種、一人も残らず死にけり。
「目連悲しみて、その故を仏に問ひ奉る。仏、答へて宣はく、『これ皆、過去の因果なり。いかでか助くる事を得ん。その故は、往昔に天下三年日照りして、無熱池の水乾けり。この池に摩羯魚とて、尾頭五十丈の魚あり。又、多舌魚とて、人の如くもの言ふ魚あり。ここに、数万人の漁夫ども集まつて、水をかへ尽くし、池を干して魚を捕らんとするに、魚、更になし。漁父ども、求むるに力なく、空しく帰らんとしける処に、多舌魚、岩穴の中より這ひ出でて、漁父どもに向つて申しけるは、「摩羯魚は、この池の艮の角に大きなる岩穴を掘つて水を湛へ、無量の小魚どもを伴ひて隠れ居たり。早くその岩を引き除けて、隠れ居たる摩羯魚を殺すべし。かやうに告げ知らせたる報謝に、汝等、我が命を助けよ。」と委しくこれを語つて、多舌魚は岩穴の中へぞ入りにける。
「『漁父ども、大きに悦びて、くだんの岩を掘り起こして見るに、摩羯魚を始めとして、五丈六丈ある大魚ども、その数を知らず集まり居たり。小水にいきづく魚どもなれば、いづくにか逃げ去るべきなれば、残らず漁父に殺され、多舌魚ばかりを生けたりけり。されば、この漁父と魚と、もろともに生を替へて後、摩羯魚は瑠璃太子の兵どもとなり、漁父は釈氏の刹利種となり、多舌魚は今返り忠の大臣となりて、摩竭陀国を滅ぼしける。』
「又、舎衛国に一人の婆羅門あり。その妻、一人の男を産めり。名をば梨軍支とぞ号しける。かたち醜く舌こはくして、母の乳をのまする事を得ず。僅かに酥蜜といふ物を指に塗り、ねぶらせてぞ命を活けたりける。梨軍支年長じて、家貧しく食に飢ゑたり。ここに、諸々の仏弟子達、城に入りて食を乞ひ給ふが、悉く鉢に満ちて帰り給ふを見て、さらば、我も沙門となつて、食に飽かばやと思ひければ、仏の御前に詣でて、出家の志ある由を申すに、仏、その志を随喜し給ひて、『善来比丘、於我法中、快修梵行、得尽苦際。』と宣へば、鬢髪自ら落ちて、沙門の形になりにけり。
「かくて精勤修習せしかば、やがて阿羅漢果をぞ得たりける。さても尚、貧窮なる事は替はらず。長時に鉢を空しくしければ、仏弟子達、これを憐れみて、梨軍支比丘に宣ひけるは、『宝塔の中に入りて坐せよ。参詣の人の奉らんずる仏供を請けて食はんに、不足あらじ。』とぞ教へられける。梨軍支悦びて、塔の中に入りて眠り居たるその間に、参詣の人、仏供を奉りたれども、更にこれを知らず。時に舎利弗、五百人の弟子を引きて、他邦より来つて仏塔の中を見給ふに、参詣の人の奉る仏供あり。これを払ひ集めて、乞丐人に与へ給ふ。その後梨軍支、眠り醒めて食せんとするに、物なし。足摺りをしてぞ悲しみける。
「舎利弗、これを見給ひて、『汝、あながちに愁ふる事なかれ。我、今日汝を具して城に入り、檀那の請を受くべし。』とて、伽耶城に入りて、檀那の請を受け給ふ。二人の沙門、已に鉢を挙げて飯を請けんとし給ひける処に、檀那の夫婦、俄に喧嘩をし出だして、共に打ち合ひける間、心ならず飯を打ちこぼして、舎利弗、梨軍支、共に餓ゑてぞかへり給ひける。その翌日、又舎利弗、長者の請を得て行き給ひけるが、梨軍支比丘を伴ひ連れたまふ。長者、五百の阿羅漢に飯を引きけるが{*38}、如何して見はづしたりけん、梨軍支一人には引かざりけり。梨軍支、鉢を捧げて高声に告げけれども、人、終に聞き附けざりければ、その日も飢ゑて帰りにける。
「阿難尊者、このことを憐れみて、『今日我、仏に随ひ奉つて請を受くるに、汝を伴ひて飯に飽かしむべし。』と約したまふ。阿難、既に仏に随つて出で給ふ時に、梨軍支に約束し給ひつる事を忘れて、連れ給はざりければ、今日さへ鉢を空しくして、徒然としてぞ暮らしける。第五日に阿難、又昨日、梨軍支を忘れたりし事を浅ましく思し召して、これに与へんために、或る家に行きて飯を乞ひて帰り給ふ。道に荒犬数十匹、走り追ひける間、阿難、鉢を地に棄てて、這ふ這ふ帰り給ひしかば、その日も梨軍支、餓ゑにけり。第六日に目連尊者、梨軍支がために食を乞ひて帰り給ふに、金翅鳥、空中より飛び下がりて、その鉢を取つて大海に浮かべければ、その日も梨軍支、餓ゑにけり。第七日に舎利弗、又食を乞ひて、梨軍支がために持つて行き給ふに、門戸、皆堅く鎖して開かず。舎利弗、神力を以てその門戸を開いて内へ入り給へば、俄に地裂けて、御鉢、金輪際へ落ちにけり。舎利弗、神力の手を伸べて、御鉢を取り上げ飯を食はせんとし給ふに、梨軍支が口、俄につぐみて歯を開く事を得ず。とかくする程に、時已に過ぎければ、この日も食らはで餓ゑにけり。ここに梨軍支比丘、大きに慚愧して、四衆の前にして、『今は、これならでは食ふべきものなし。』とて、砂をかみ水を飲みて、即ち涅槃に入りけるこそ哀れなれ。
「諸々の比丘、怪しみて、梨軍支が前生の所業を仏に問ひ奉る。時に世尊、諸々の比丘に告げて宣はく、『汝等、聞け。乃往過去に、波羅奈国に一人の長者あつて、名をば瞿弥といふ。供仏施僧の志、日々に止まず。瞿弥、已に死して後、その妻、相続いて三宝に施しする事、同じ。『長者が子、これを怒つて、その母を一室の内に置き、門戸を堅く閉ぢて出入を許さず。母、泣涕する事七日、飢ゑて死なんとするに臨んで、母、子に向つて食を乞ふに、子、怒れる眼を以て母を睨みて曰く、「宝を施行にし給はば、何ぞ砂を食ひ水を飲んで、飢ゑを止めざる。」というて、遂に食物を与へず。食絶えて七日に当たる時、母は遂に食に飢ゑて死しぬ。その後、子は貧窮困苦の身となつて、死して無間地獄に堕ちぬ。多劫の苦しみを受くる事終はつて、今、人中に生まる。この{*39}梨軍支比丘、これなり。沙門となり、即ち阿羅漢の果を得る事は、父の長者が三宝を敬ひし故なり。その身、食に飢ゑて、砂を食らひて死せし事は、母を飢やかし殺したりし、その因果に依つてなり。』と釈尊、正に梨軍支が過去の所業を説き給ひしかば、阿難、目連、舎利弗等、礼をなして去り給ふ。
「かやうの仏説を以て思ふにも、臣、君をなみし、子、父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽き満ちて、公家は餓死に及ぶ事も皆、過去の因果にてこそ候らめ。」と、典釈の所述、明らかに語りければ、三人共にからからと笑ひけるが、漏箭、頻りに移つて、晨朝にもなりければ、夜も已に朱の瑞籬を立ち出でて、己が様々に帰りけり。
これを以て案ずるに、「かかる乱れの世の中も、又、静かなる事もや。」と、憑みを残すばかりにて、頼意は帰り給ひにけり。
校訂者注
1:底本は、「月の松より西に傾(かたぶ)き、」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
2:底本は、「外典(げてん)」。底本頭注に、「仏教(内典)以外の書籍。」とある。
3:底本は、「見つる」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本は、「申しけれるは」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
5:底本は、「用ふれば」。
6:底本は、「乱るれば、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
7:底本は、「地勢(ちせい)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本は、「王者(わうしや)憂楽(いうらく)は」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
9:底本頭注に、「醍醐帝。」とある。
10:底本は、「業果法然(ごふくわほふねん)の理(ことわり)」。底本頭注に、「〇業果 因果。」「〇法然の理 自然の理。」とある。
11:底本頭注に、「宇多法皇。」とある。
12:底本頭注に、「菅原道真を指すか。」とある。
13:底本は、「耳に留まる事も侍るやらん。」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
14:底本は、「貞応(ぢやうおう)に武蔵(の)前司入道(ぜんじにふだう)、日本国の大田文(だいでんぶん)を作つて荘郷(しやうがう)を分ちて、」。底本頭注に、「〇武蔵前司入道 北條泰時。」「〇大田文 全国の田地の目録。」とある。
15:底本は、「用ひ、」。
16:底本頭注に、「法名は覚了房道崇。時氏の子。」とある。
17:底本は、「抖擻(とそう)」。底本頭注に、「行脚。」とある。
18:底本は、「隠しても」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
19:底本頭注に、「時宗の子。」とある。
20:底本は、「棲墀(せいち)」。底本頭注に、「貴顕紳士の住処。」とある。
21:底本は、「失して帰る。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
22:底本頭注に、「〇報光寺 時宗を指す。時頼の子。」「〇最勝園寺 貞時を指す。」「〇引附 引附衆。政所に出仕して日記を記し例証等を書き留める役。」「〇青砥左衛門 藤綱。」とある。
23:底本は、「過差(くわさ)」。底本頭注に、「華奢。」とある。
24:底本は、「訴陣(そぢん)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇徳宗領 北條家の家督たる者の所領。」「〇地下の公文 平人の文書を掌る所の役人。」とある。
25:底本は、「用(もち)ひず、」。
26:底本は、「滑河(なめりがは)」。底本頭注に、「鎌倉にある。」とある。
27:底本は、「抜折羅(ばさら)、」。底本頭注に、「風流。」とある。
28:底本は、「剛縁(がうえん)、」。底本頭注に、「勢力の縁者より頼み込むこと。」とある。
29:底本頭注に、「延喜式の本文を頑固に守り居る律義者の見苦しさよ。」とある。
30:底本は、「重(ぢう)二重(ぢう)一」。底本頭注に、「五十歩百歩といふに同じで大差ない意。」とある。
31:底本は、「銀漢(ぎんかん)」。底本頭注に、「天の川。」とある。
32:底本は、「記録(きろく)を天子(てんし)も」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
33:底本は、「御挙動(おんふるまひ)ありぬ」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
34:底本は、「長せば、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
35:底本は、「三百余騎」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
36:底本は、「刹利種(せつりしゆ)」。底本頭注に、「天竺で王の種姓を云ふ。」とある。
37:底本は、「返忠(かへりちう)をぞ申しけるは、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
38:底本頭注に、「贈与したが。」とある。
39:底本は、「此の事梨軍支比丘(りぐんしびく)」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
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