尾張小河東池田が事

 さるほどに、小河中務丞と土岐の東池田と引き合うて、仁木と同心し、尾張の小河荘に城をかまへて楯篭りたりけるを、土岐宮内少輔、三千余騎にて押し寄せ、城を七重八重に取り巻きて、二十日あまり攻めけるが、俄に拵へたる城なれば、兵粮忽ちに尽きて、小河も東池田も共に降人に出でたりけるを、土岐、日頃所領を論ずる事ありし宿意に依つて、小河中務をば則ち首を刎ねて京都へ上せ、東池田をば一族たるに依つて、尾張の幡豆崎城へぞ送りける。
 吉良治部大輔も仁木が語らひを得て、三河国の守護代西郷兵庫助と一つになつて、矢矧の東に陣を張り、海道を差し塞ぎ、畠山入道が下向を支へたりけるが、大島左衛門佐義高、当国の守護を賜はりて、星野、行明等と引き合ひ、国へ入りける路次の軍に打ち負けて、西郷、伊勢へ落ち行きければ、吉良治部大輔は御方になつて、都へぞ出でたりける。
 これのみならず、石堂刑部卿頼房、仁木三郎を大将として、伊賀、伊勢の兵を起こし、二千余騎にて近江国に打ち越え、葛木山に陣を取る{*1}。佐々木大夫判官入道崇永、舎弟山内判官、国中の勢を集めて飯守岡に陣を張り、数日を経ける処に、九月二十八日の早旦に、仁木三郎、兵を語らうて申しけるは、「当国に打ち越えて、数日合戦に及ばずして、いたづらに里民を煩はす事、本意にあらざる上、伊勢の京兆も定めて未練にぞ思ひ給ふらん。今日吉日なれば、敵を一当てあてて散らすべし。但し、佐々木治部少輔高秀が、手の者を分けて守るなる市原城を攻め落とし、敵を一人も後に残さず、心安く合戦を致すべし。」とて打つ立ちければ、石堂刑部卿も、伊賀の名張が一族、当国の大原、上野の者ども附き従ひける間、手勢三百余騎、これも同じく打つ立ちて、旗を靡け兵を進めければ、この勢を見て佐々木大夫判官入道、「すはや、敵こそ陣を去つて色めきたれ。打つ立てや、者ども。」とて兵を集めける。譜代恩顧の若党三百余騎の外は、相従ふ勢もなかりけり。
 敵は、「これが天下の要なるべし。」とて、仁木京兆{*2}の憑みたる桐一揆を始めとして、宗徒の勇士五百余騎に、伊賀の服部、河合の一揆馳せ加はつて、廻天の勢を振ふ。その様を見るに、五百騎{*3}に足らぬ佐々木が勢、叶ふべしとは見えざりけり。されども佐々木大夫判官入道、その気、勇健なる者なりければ、「この軍、天下の勝負を計るのみにあらず。今日打ち負けなば、弓矢の名を失ふべし。」とて、「僅かの勢をあまたになしては叶ふまじ。」とて、目賀田、楢崎、儀俄、平井、赤一揆を旗頭にて、河端に添うて控へたり。青地、馬淵、伊庭入道、黄一揆を大将として、左手の河原に陣を取る。佐々木大夫判官入道は、吉田、黒田、二部、鈴村、大原、馬杉を始めとして、宗徒の兵を馬廻りに控へさせて、敵の真中を破らんと控へたり。
 尫弱の勢がさ{*4}を見て、大勢の敵、などか勇まであるべき。「三手の小勢を見るに、中なる四目結の大旗は、大将佐々木と見ゆるぞ。討ち取つて勲功に預かれや。」と呼ばはつて、長野が蝿払ひ一揆、一陣に進みて駆け出でたり。元来佐々木は、機変駆け引きを心に得て、死を一時に定めたる気分なれば、何かはちつとも擬議すべき。大勢の真中に駆け入つて、十文字巴の字にかけ散らし、鶴翼魚鱗に連なつて、東西南北に馬の足を悩まさず、敵の勢を懸け靡けて、後ろに小野のありけるに、西頭に馬を立て直し、人馬の息を継がせければ、朱になりたる放れ馬、その数を知らず。蹄の下に切つて落としたる敵ども、算{*5}を散らしてぞ伏したりける。
 これを見て、残りの兵、気を失ひて、さしも深き内貴田井を天満山へと志し、左になだれて引きける間、機に乗りたる佐々木が若党ども、気をもくれず追ひ懸けたり。引き立つたる者どもが、難所に追ひ懸けられて、なじかはよかるべき。矢野下野守、工藤判官、宇野部、後藤弾正、波多野七郎左衛門、同弾正忠、佐脇三河守、高島次郎左衛門、浅香、萩原、河合、服部、宗徒の者ども五十余人、一所にて皆討たれにけり。
 軍散じければ、同じき十一月一日、かの首どもを取つて都に上せしかば、六條河原にぞ懸けられける。これを見ける大名小名、僧俗貴賤、「哀れなるかな。」昨日までも詞をかはし、肩を並べて見馴れし朋友なれば、涙を拭ひて首を見、悲しみの思ひ、散満たり。
 かかりしかば仁木義長も、三千余騎と聞こえし兵、皆落ち失せて、五百余騎にぞなりにける。結句、憑みたる連枝仁木三郎は、今度軍に打ち負けて、そのまま降参して出でたりける。かやうに義長、微々になりしかば、「やがて攻めよ。」とて、佐々木大夫判官入道、土岐大膳大夫入道、両人、討手を承つて、七千余騎にて伊勢国へ発向す。
 義長、さしもの勇士なりしかども、兵減じ気疲れしかば、懸け合うて一度も軍をせず、長野城に楯篭る。要害よければ、寄せ手、敢へて近づき得ず。土岐、佐々木は又大勢なれば、平場に陣を取れども、義長、打ち出でて散らすに及ばず。両陣五、六里を隔てて、玉笥二見浦の二年は、いたづらにのみぞ過ごしける。

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校訂者注
 1:底本は、「取り、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇仁木三郎 義住。」とある。
 2:底本は、「京兆(けいてう)」。底本頭注に、「左右京職の唐名。」とある。
 3:底本は、「五百余騎」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
 4:底本は、「尫弱(わうじやく)の勢(せい)がさ」。底本頭注に、「弱弱しい軍勢の様子。」とある。
 5:底本頭注に、「算木。」とある。