大地震 並 夏雪の事

 同じき年の六月十八日の巳の刻より、同じき十月に至るまで、大地おびただしく動いて、日々夜々に止む時なし。山は崩れて谷を埋づみ、海は傾いて陸地になりしかば、神社仏閣、倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万といふ数を知らず。すべて山川江河、林野村落、この災ひに遭はずといふ所なし。中にも阿波の雪湊といふ浦には、俄に大山の如くなる潮漲り来つて、在家一千七百余宇、悉く引き潮に連れて海底に沈みしかば、家々にある所の僧俗男女、牛馬鶏犬、一つも残らず底の藻屑となりにけり。
 これをこそ希代の不思議と見る処に、同じき六月二十二日、俄に天掻き曇り、雪降つて、氷寒の甚だしき事、冬至の前後の如し。酒を飲みて身を暖め、火を焼き囲炉裏を囲む人は、自ら寒さを防ぐ便りもあり。山路の樵夫、野径の旅人、牧馬林鹿、悉く氷に閉ぢられ雪に伏して、凍え死ぬるもの、数を知らず。七月二十四日には、摂津国難波浦の沖数百町、半時ばかり乾上がりて、無量の魚ども、沙の上にいきづきける程に、辺りの浦の海人ども、網を巻き釣りを捨てて、我劣らじと拾ひける処に、又、俄に大山の如くなる潮満ち来つて、漫々たる海になりにければ、数百人の海人ども、ひとりも生きて帰るはなかりけり。
 又、阿波の鳴戸、俄に潮去つて陸となる。高くそばだちたる岩の上に、胴のまはり二十尋ばかりなる太鼓の、銀のびやうを打つて、面には巴をかき、台には八竜をひこづらはせたるが顕はれ出でたり。暫しは見る人、これを怖ぢて近づかず。三、四日を経て後、近き辺りの浦人ども数百人、集まつて見るに、胴は石にて、面をば水牛の皮にてぞ張つたりける。「尋常の撥にて打たば鳴らじ。」とて、大きなる鐘木を拵へて、大鐘を撞く様につきたりける。この太鼓、天に響き地を動かして、三時ばかりぞ鳴つたりける。山崩れて谷に答へ、潮湧いて天に漲りければ、数百人の浦人ども、唯今大地の底へ引き入れらるる心地して、肝魂も身に添はず、倒るるともなく走るともなく四角八方へぞ逃げ散りける。その後よりは、いよいよ近づく人なかりければ、天にや上りけん、又海中へや入りけん。潮は元の如く満ちて、太鼓は見えずなりにけり。
 又、八月二十四日の大地震に、雨荒く降り、風烈しく吹いて、虚空暫く掻きくれて見えけるが、難波浦の沖より大竜二つ浮かび出でて、天王寺の金堂の中へ入ると見えけるが、雲の中に鏑矢鳴り響きて、戈の光、四方にひらめきて、大竜と四天と戦ふ体にぞ見えたりける。二つの竜去る時、又、大地おびただしく動いて、金堂、微塵に砕けにけり。されども四天は少しも損ぜさせ給はず。「これは、いかさま、聖徳太子御安置の仏舎利、この堂におはしませば、竜王、これを取り奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜しませ給ひけるか。」とおぼえたり。
 洛中辺土には、傾かぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂けぬ所もなかりけり。旧記の載する所、開闢以来かかる不思議なければ、「この上に又、いかやうなる世の乱れや出で来らんずらん。」と、怖ぢ恐れぬ人は更になし。

天王寺造営の事 附 京都御祈祷の事

 南方には、この大地震に諸国七道の大伽藍どもの破れたる体を聞くに、天王寺の金堂程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂けたる地もなければ、「これ、外の表事{*1}にはあらじ。」と御慎しみあつて、様々の御祈りどもを始めらる。即ち、般若寺の円海上人、勅を承りて、天王寺の金堂を作られけるに、希代の奇特ども多かりけり。
 先づ大廈高堂の構へなれば、安芸、周防、紀伊国の杣山より大木を取らんずる事、一、二年の間には道行き難く{*2}おぼえけるに、二人して抱き廻す程なる桧木の柱、六、七丈なるかぶき{*3}三百本、いづくより来るとも知らず、難波浦に流れ寄つて、潮の干潟にぞ留まりける。暫くは、「主ある材木にてぞあるらん。」と、尋ねくる人を待ちけれども、求めくる人もなかりければ{*4}、「さては、天竜八部の人力を助け給ふにてぞあるらん。」とて、虹の梁、鳳の甍、品々にこれをぞ用ゐける。
 又、柱立て、已に終はり、棟木を揚げんとしけるに、「轆轤の綱に、信濃皮むき千束要るべし。」と、番匠、麁色を出だせり。たやすく尋ね出づべき物ならねば、上人、「信濃国へ下つて、便宜の人に勧進せん。」と企て給ひける処に、難波の堀江の汀に死蛇の如くなる物、流れ寄りたり。「何やらん。」と近づき見れば、信濃皮むきにて打ちたる大綱、太さ二尺長さ三十丈なるが十六筋まで、水の泡に連なつてぞ寄りたりける。上人、ななめならず悦んで、やがて轆轤の綱に用ゐらる。「これ、第一の奇特なり。」とて、所用の後は、この綱を宝蔵にぞ納め給ひける。
 又、三百余人ありける番匠の中に、肉食を止め酒を飲まぬ番匠、あまたあり。上人、怪しく思ひ給ひて、これがするわざを見給ふに、一人のするわざ、余の番匠十人にも過ぎたり。「さればこそ只人にてはなかりけれ。」と、いよいよ怪しくおぼして、日暮れて帰るを見送り給へば、いづくへ行くとも見えず、かき消す様に失せにけり。「その数、二十八人ありつるは、いかさま、千手観音の御眷属二十八部衆にてぞおはすらん。」と、皆人、信仰の手を合はす。されば、造営、日々に{*5}新たにして、綺麗金銀を鏤めたり。霊仏の威光、上人の陰徳、函蓋共に相応じて、奇特なりし事どもなり。
 都には、東寺の金堂一尺二寸南へのきて、「高祖弘法大師、南天へ飛び去らせ給ひぬ。」と、寺僧の夢に見えければ、「洛中の御慎しみたるべし。」とて、青蓮院の尊道法親王{*6}に仰せられ、伴僧二十口、八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行はる。聖護院覚誉法親王{*7}は、二間に御参りあつて、九月八日より一七日、尊星王の法をぞ修せられける。
 これのみならず、近年絶えてなかりつる最勝講を行はる。初日は問者、叡山の尋源、東大寺の深恵。講師には興福寺の盛深、同寺の範忠。第二日の問者は東大寺の経弁、同良懐。講師は興福寺の実遍、山門の慈俊。第三日の問者は興福寺の円守、山門の円俊。講師は三井寺の経深、興福寺の覚成。第四日の問者は興福寺の孝憲、同寺の覚家。講師は叡山の良憲、三井寺の房深。結日の問者は東大寺の義実、興福寺の教快。講師は山門の良寿、興福寺の実縁{*8}。証義は大乗院の前大僧正孝覚、尊勝院の慈能僧正にてぞおはしける。講問、朝夕に座を替へて、学海に玉を拾へる証義、論談を決択して、詞の林に花咲く。富楼那の弁舌、文殊の智恵も、かくやとおぼゆるばかりなり。

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校訂者注
 1:底本は、「表示(へうじ)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「はかどり難く。」とある。
 3:底本頭注に、「冠木。門などの上に渡す木。」とある。
 4:底本は、「なかりければ、さればさては」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
 5:底本は、「日に」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「後伏見天皇の皇子。」とある。
 7:底本頭注に、「花園天皇の皇子。」とある。
 8:底本頭注に、「〇尋源 洞院太政大臣公賢の子。」「〇慈俊 日野中納言資朝の子。」「〇良寿 権大納言為定の子。」「〇実縁 洞院太政大臣公賢の子。」とある。