清氏叛逆の事 附 相模守子息元服の事

 これ等をこそ、「すはや、大地震のしるしに、国々の乱れ出で来ぬるは。」と驚き聞く処に、京都に希代のことあつて、将軍の執事細川相模守清氏、その弟左馬助{*1}、猶子仁木中務少輔、三人共に都を落ちて、武家の怨敵となりにけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木佐渡判官入道道誉と細川相模守清氏と、内々、仇を含む事ありしに依つて、遂に君臣、豺狼の心を結ぶとぞ聞こえし。
 まづ、加賀国の守護職は、富樫介、建武の始めより今に至るまで、一度も変ずる事なくして、しかも忠戦他に異に、成敗暗からざるに依つて、恩補、列祖に復せしを、富樫介死去せし刻、「その子、未だ幼稚なり。」とて、道誉、尾張左衛門佐{*2}を聟に取つて、当国の守護職を申し与へんとす。細川相模守、これを聞きて、「さる事やあるべき。」とて、富樫介が子を取り立てて、則ち守護安堵の御教書をぞ申し成しける。これに依つて道誉が鬱憤、その一なり。
 次に、備前の福岡荘は、頓宮四郎左衛門尉が所領なり。然るを、頓宮が軍忠中絶の刻、赤松律師、これを申し賜はる。後、頓宮、細川が手に属して忠ありしかば、細川、これを贔屓して、安堵の御教書を申し与ふ。然れども、則祐は道誉が聟なりければ、国を抑へられ上裁を支へられて、頓宮、所領に還住せず。これ、清氏が鬱憤のその一なり。
 次に、摂津国の守護職をば、道誉、謂はれなく申し賜はりて、嫡孫近江判官秀詮に持たせたりけるを、相模守、本主赤松大夫判官光範に安堵せさせんと、時々異見を献ずる事、憚る所なし。これに依つて道誉が鬱憤、その二なり。
 次に、「今度七夕の夜は、新将軍、相模守が館へおはして、七百番の歌合をして遊ぶべきなり。」と、かねて仰せられければ、相模守、誠に興じ思ひて、様々の珍膳をしたため、歌読みども数十人を誘引して、已に案内を申しける処に、道誉、又我が宿所に七所を飾つて、七番菜を整へ、七百種の掛け物を積み、七十服の本非の茶{*3}を飲むべき由を申して、宰相中将殿を招請し奉りける間、「歌合は、よしや後日にてもありなん。七所の飾りは、珍しき遊びなるべし。」とて、兼日の約束を引き違へ、道誉が方へおはしければ、相模守が用意いたづらになつて、数寄の人も空しく帰りにけり。これ又、清氏が鬱憤のその二なり。かやうの事ども、互に憤り深くなりにければ、両人の確執、止む事を得ず。上にはさりげなき体なれども、下には悪心をさし挟めり。されば、「始終は如何。」と思ひ遣られたり。
 この相模守は、気分飽くまで奢つて、振舞{*4}、尋常ならざりけれども、ひとへに仏神を敬ふ心深かりければ、神に帰服して子孫の冥加を祈らんとや思はれけん、又、我が子の烏帽子親に取るべき人なしとや思ひけん、九つと七つとになりける二人の子を八幡にて元服せさせ、大菩薩の烏帽子子になして、兄をば八幡六郎、弟をば八幡八郎とぞ名づけける。この事、やがて天下の口ずさみとなりければ、将軍、これを聞き給ひて、「これは唯、当家の累祖伊予守頼義、三人の子を八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎と名づけしに異ならず{*5}。心中にいかさま、天下を奪はんと思ふ企てある者なり。」と、所存に違ひてぞ思はれける。
 佐渡判官入道道誉、これを聞きて、「すはや、憎しと思ふ相模守が過失は、一つ出で来にけるは。」とひとり笑みして、薮に目配せし{*6}居たる処に、外法成就の志一上人、鎌倉より上つて、判官入道のもとへおはしたり。様々の物語して、「さても、都はかへつて旅にて、万、さこそ便りなき御事にてこそ候らめ。誰か檀那になり奉つて、祈りなんどの事をも申し入れ候。」と問はれければ、「未だかひがひしき知音檀那等も候はで、いつしか在京叶ひ難き心地して候ひつるに、細川相模殿よりこそ、『この一両日が先に一大事の所願候。とみに成就ある様に祈りてたび候へ。』とて、願書を一通封じて、供具の料足一万疋添へて送られて候ひしか。」と語り給ひければ、道誉、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切に所望せらる。なまじひに語りは出だしつ、さのみ惜しまんこともかなひがたければ、力なくこの願書をぞ取り寄せて披見せさせける。道誉、この願書を内へ持つて入つて、「唯今、ちと急ぐ事候間、外へ罷り出で候。この願書は、閑かに披見候て返し参らすべし。明日これへ御渡り候へ。」とて、後ろの小門より出で違ひければ、志一上人、重ねて云ひ入るるに詞なくして、宿所へぞ帰り給ひける。
 道誉、その翌日、この願書を伊勢入道{*7}がもとへ持つて行きて、「これ、見給へ。相模守が隠謀の企てあつて、志一上人について将軍を呪詛し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上は、疑ふ処にて候はず。急ぎこれを持参して、ひそかに将軍に見せ参らせられ候へ。」とて、爪弾きをして懐よりぞ取り出だしける。伊勢入道、「不思議の事かな。」と思ひて、披いてこれを見るに、三箇條の所願を載せられたり。
    {*k}敬つて白す  吒祇尼天宝前
  一 清氏、四海を管領し、子孫永く栄花に誇るべき事。
  一 宰相中将義詮朝臣、忽ちに病患を受けて死去せらるべき事。
  一 左馬頭基氏、武威を失ひ人望に背き、我が軍門に降らるべき事。
  右この三箇條の所願、一々成就せしめば、永くこの尊の檀度として、真俗の繁昌を専らにすべし。仍つて祈願の状、件の如し。
    康安元年九月三日  相模守清氏{*k}
と書きて、裏判にこそせられけれ。
 伊勢入道、この願書を読み終はつて、眉を顰めて大息をつく事、やや久しうして、手跡は誰とも知らねども、判形どもに於いては疑ひなければ、「宰相中将殿の見参にこそ入れんずらめ。」と思ひけるが、「これを披露申しなば、相模守殿、忽ちに身を失はるべし。その上、かかる事には謀作謀計なんどもあるぞかし。卒爾にはいかが申し入るべき。」と斟酌して、深く箱の底にぞ収めける。
 かかる処に、羽林将軍、俄に邪気の事あつて、有験の高僧、加持し奉れども鎮まらず、頭の痛み、日を追つて増さる由聞こえしかば、道誉、急ぎ参つて、「先日、伊勢入道の進じ候ひし清氏が願書をば、御覧ぜられ候ひけるやらん。」と問ひ奉るに、「未だ披露せず。」と宣ふ。「さては御いたはり{*8}、その故とおぼえ候。」とて、急ぎ伊勢入道を呼び寄せ、くだんの願書を召し出だして、羽林将軍{*9}に見せ奉る。その後、幾程なくして邪気立ち去つて、違例{*10}本復し給ひければ、「道誉が申す処、偽らで、清氏が呪詛、疑ひなかりけり。」と将軍、これを信じ給ふ。
 その後、又心づきて、「八幡に清氏願書を篭めぬ事あるべからず。」とて、内々社務を召して問はれければ、「さる願書は、封じて神馬と送られて候が、やがて神殿にこめて候。」と申しければ、「それ、取り出でて奉るべし。いささか不審あり。」と仰せありければ、やがて取り出だし持参しけり。これを披見し給ふにも、「大樹{*11}の命を奪ひ、我、世を取らん。」との発願なり。いよいよ疑ふ所なし。およそ志一上人を上せられけるも、畠山、「我、奇特の人。」と思ひ、同じ心に、「京、関東を取らん。」とて、その祈祷のために、畠山吹挙にて上せられけり。
 その後よりは、「とやして清氏を討たまし。かくやせまし。」と、道誉一人に談合あつて、案じ煩ひ給ひける処に、道誉、俄に病と称して、湯治のために湯山へ下りぬ。その後、四、五日ありて、相模守、「普請のため。」とて天竜寺へ参りけるが、例ならず、夜に入つて物具したる兵ども三百余騎、召し具したり。将軍、これを聞き給ひて、「さては、道誉に評定せし事、はや清氏に聞こえてげり。さらんに於いては、かへつていかさま、寄せられぬとおぼゆるぞ。京中の戦ひは、小勢にて叶ふまじ。要害に篭つて防ぐべし。」とて、九月二十一日の夜半ばかりに今熊野に引き篭り、一の橋引き落として、所々垣楯掻き、車引き並べて、逆茂木轅門を堅めて待ち懸け給へば、今川上総守{*12}、宇都宮参河入道以下、我も我もと馳せ参る。俄の事なれば、何事のひしめきと聞き定めたる事はなけれども、武士、東西に馳せ違ひ、貴賤、四方に逃げさまよふ。
 相模守は、天竜寺にて京中のひしめきを聞きて、「何條、今時洛中に、何事の騒ぎあるべき。告ぐる者の誤りにてぞあらん。」とて、騒ぐ気色もなかりけるが、我が身の上と聞き定めてければ、三百余騎にて天竜寺より打ち帰り、弟の僧、璵侍者を今熊野へ参らせて、「洛中の騒動、何事とも存知仕り候はで、急ぎ馳せ参つて候へば、清氏が身の上にて候ひける。罪科、何事にて候やらん。もし無実の讒に依つて死罪を行はれ候はば、政道の乱れ、御敵の嘲り、これに過ぐべからず。暫く御糺明の後に、罪科の実否を定めらるべきにて候はば、頭を延べて軍門に参り候べし。」とぞ申し入れたりけれども、「清氏が多日の隠謀、事已に露顕の上は、とかくの沙汰に及ぶべからず。」とて、使僧に対面もなく、一言の返事にも及び給はねば、色を失つて退出す。
 清氏、「この上は、陳じ申すに詞なし。今は定めて討手をぞ向けらるらん。一矢射て腹切らん。」とて、舎弟左馬助頼和、大夫将監家氏、兵部大輔将氏、猶子仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひしひしと堅め、旗竿取り出だし、馬の腹帯を堅めさすれば、重恩新参の郎従ども、ここかしこより馳せ参つて、七百余騎になりにけり。
 今熊野には、始め五百余騎参じて、「あはれ、我、討手を承つて向かはばや。」と擬勢しける者ども、「相模守、七百余騎にて控へたり。」と聞こえしかば、興醒め顔になりて、ここの坊中、かしこの在家に引き入り、荒く物をもいはず。唯、「いづ方に落ち場ある{*13}。」と、山の方をぞ目守りける。
 相模守は、「今や討手を賜はる。」と、兜の緒を締め、二日まで待ちけれども、向ふ敵なかりければ、「洛中にて兵を集め、戦ひを致さんと用意したるも、且は狼籍なり。陣を去り都を落ちてこそ猶陳じ申さめ。」とて、二十三日の早旦に、若狭を指して落ちて行く。仁木中務少輔、細川大夫将監二人は、京に落ち留まりぬ。
 相従ふ勢、次第に減じぬと見えけるに、辺土洛外の郎等ども、少々路に追つつきて、「将軍の御勢は、僅かに五百騎に足らじとこそ承り候に、などやこの大勢にて都をば落ちさせ給ひ候やらん。」と申せば、相模守、馬を控へて、「元来、将軍に向ひ奉りて合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一の取り集め勢四、五百騎、震ひわななき居たるを、清氏、物の数とや思ふべき。君臣の道、死すれども上に逆らはざる義を思ふ故に、一まども落ちてや陳じ申すと存じて、いふかひなき体を人に見えつる悲しさよ。身不肖なれば、罪なく討たれ参らすとも、世のために惜しむべき命にあらず。唯、讒人、事を乱りて、将軍、天下を失はせ給はんずるを、草の蔭にても見聞かん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に涙を浮かべ給へば、相従ふ兵ども、皆鎧の袖をぞぬらしける。
 千本を打ち過ぎて、長坂へ懸かる処にて、舎弟兵部大輔と従兄弟の兵部少輔、二人を近づけて、「御辺達、兄弟骨肉の義浅からざるによりて、我が安否を見はてんと、これまで附き纏ひ給ふ志、千顆万顆の玉よりも重く、一しほ二しほの紅よりも猶深し。然りといへども、清氏は佞人の讒に依つて、不慮の刑に沈む上は、力なし。御辺達両人は、讒を負ひたる身にてもあらず。又、将軍の御不審を蒙つたる事もなき者が、何といふ沙汰もなく我と共に都を落ちて、路径に骸を曝さん事、後難なきにあらず。早くこれより将軍へ帰参して、清氏が所存をも申し開き、父祖の跡をも失はぬ様に計らひ給へ。これ、我を助くる謀りごと、又、身を立つる道なるべし。」と涙を流して宣へば、両人の人々、抑ふる涙に咽んで、暫しは返事にも及ばず。
 やや暫くありて、「心憂き事をも承り候ものかな。たとひこれより罷り帰つて候とも、讒人、君の傍らにありて、憑む影なき世に立ち紛れ候はば、いつまで身をか保ち候べき。将軍には心を置かれ参らせ、かたへの人には指を指され候はんこと、恥の上の不覚{*14}たるべきにて候へば、いづくまでも伴ひ奉つて、安否を見はて参らせん事こそ本意にて候へ。」と再三申されけれども、相模守、「さては、いよいよ我に隠謀ありけりと、世の人の思はんずる処が悲しく候へば、まげてこれよりかへられ候て、真実の志あらば、後日に又音信も候へ。」と、しひて申されければ、二人の人々、「この上の事は、ともかくも仰せにこそ随ひ候はめ。」とて、泣く泣く千本より打ち別れて、元の宿所へぞ帰りにける。
 京中には、「合戦あらば、在家は一宇も残らじ。」と、上下万人、あわて騒ぎけるが、相模守、事ゆゑなく都を落ちにければ、二十四日、将軍、やがて今熊野より元の館へ帰り給ふ。いつしか相州被官{*15}の者ども、宿所を替へ身を隠したる有様、昨日の楽しみ今日の夢と、哀れなり。有為転変の世の習ひ、今に始めぬ事なれども、不思議なりし事どもなり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「頼和。」とある。
 2:底本頭注に、「氏頼。」とある。
 3:底本は、「本非(ほんひ)の茶」。底本頭注に、「本場から出た茶でないもの。茶はもと栂尾が本場なればこゝは宇治産の茶などを云ふか。」とある。
 4:底本は、「行跡(ぎやうせき)」。
 5:底本頭注に、「〇当家 源氏。」「〇八幡太郎 義家。」「〇賀茂次郎 義綱。」「〇新羅三郎 義光。」とある。
 6:底本頭注に、「藪にらみ。見ても見ないふりして隙を窺ひ居ること。」とある。
 7:底本頭注に、「左衛門尉盛綱の子。」とある。
 8:底本頭注に、「御病気。」とある。
 9:底本頭注に、「義詮。」とある。
 10:底本頭注に、「不例。病気。」とある。
 11:底本頭注に、「将軍。」とある。
 12:底本は、「今川上総(の)介」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「範氏。」とある。
 13:底本は、「落場(おちば)あり」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇落場 逃るべき場所。」とある。
 14:底本頭注に、「恥辱。」とある。
 15:底本頭注に、「相模守の所属の官。」とある。
 k:底本、この間は漢文。