頓宮心変はりの事 附 畠山道誓が事
若狭国は、相模守、近年管領の国にて、頓宮四郎左衛門{*1}、かねて在国したりければ、小浜に究竟の城を構へて、兵粮数万石積み置きたり。相模守、ここに落ちつきて、城の構へ、勢の程を見るに、「懸け合ひの合戦をするとも、又、城に篭つて戦ふとも、一年二年の内にはたやすく落とされじものを。」とぞ思はれける。さる程に、「尾張左衛門佐氏頼、討手の大将を承つて、北陸道の勢三千余騎を率して、越前より椿峠へ向ふ。仁木三郎、搦手の大将を承つて、山陰道の勢二千余騎を率して、丹波より逆谷へ向ふ。」と聞こえければ、相模守、大きに笑ひて、「あな、哀れの者どもや。これ等を敵に受けては、力者二、三人に杉材棒突かせて差し向けたらんに、不足あるまじ。先づ敦賀に朝倉某が先打ちにて陣を取りたるを打ち散らせ。」とて、中間を八人差し遣はさる。
八人の中間ども、敦賀津へ紛れ入り、浜面の在家十余箇所に火をかけて、鬨の声をぞ揚げたりける。朝倉が兵三百余騎、鬨の声に驚いて、「すはや、相模守の寄せたるは。定めて大勢にてぞあるらん。引いて後陣の勢に加はれ。」とて、矢の一つをも射ず、朝倉、敦賀を引きければ、相伴ふ兵三百余騎、馬、物具を取り捨てて、越前の府へぞ逃げたりける。
「『さればこそ思ひつることよ。』と、人毎に言ひ弄ぶ。」と沙汰せしかば、尾張左衛門佐、大きに怒つて、やがて大勢を率して十月二十九日、椿峠へ打ち向ふ。相模守、これを聞きて、「今度は一人も敵といふ者を生けて遣るまじければ、自身向はでは叶ふまじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門尉を残し置き、舎弟左馬助相共に、五百余騎にて追手の敵に馳せ向ふ。敵陣、難所なれば、「待つてや戦ふ。懸かりやする。」と思案して、未だ戦ひ決せざる処に、重恩他に異なれば、「これぞ弐心あるまじき者。」と憑まれける頓宮四郎左衛門、俄に心変はりして、旗を挙げ、城戸を打つて、寄せ手の勢を後ろより城へ引き入れける間、相模守に相従ふ兵ども、戦ふべき力尽きはてて、右往左往に落ちて行く。朽ちたる縄を以て六馬をば繋ぎて留むるとも、唯憑み難きはこの頃の武士の心なり。
清氏、さしもの勇士なりしかども、かくては叶はじとや思はれけん、舎弟左馬助と唯二騎打ち連れて、篠峯越に忍びて都へ紛れ入る。「一夜の程も、洛中には隠れ難し。」と思はれければ、兄弟別々になりて、相模守は東坂本へ打ち越え、一日馬の足を休めて天王寺へ落ちければ、左馬助は、夜半に京中を打ち通り、大渡を経て、かねての相図を違へず天王寺へぞ落ち著きける。
相模守、やがて石堂刑部卿{*2}のもとへ使者を立て、「清氏、已に讒者の訴へにより、罪なきに死罪を行はれんと候ひつる間、身の置き所なき余りに、天恩を戴いて軍門に降参仕つて候。旧好、その故も候へば、ひたすら貴方を憑み申すにて候。ともかくも然るべき様に御計らひ候へ。」とぞ言ひ遣はされける。石堂刑部卿、急ぎ使者に対面して、先づ、とかくの返事に及ばず。「こは、そも夢か、現か。」とて、やや久しく涙を袖に抑へらる。やがて参内して、事の仔細を奏聞せられけるに、左右の大臣、相議して曰く、「敵軍、頭を延べて帝徳に降る。天恩、何ぞこれを恵まれざらん。早く軍門に慎しみ仕へて、征伐の忠を専らにすべし。」と、恩免の綸旨を下されしかば、石堂、限りなく悦びて、則ち細川に対面し給ふ。互に詞はなくして、涙に咽び給ふ。暫くありて、「世の転変、今に始めぬ事にて候へども、不慮の参会こそ多年の本意にて候へ。」とばかり色代{*3}してぞ帰られける。唯、秦の章邯、趙高が讒を恐れ、楚の項羽に降りし時、面を垂れ涙を流して、詞には出ださざれども、讒者の世を乱る恨みを含みし気色に異ならず。
さる程に、「仁木中務少輔は、京より伊勢へ落ちて、相模守に相従ふ。」と聞こえ、「兵部少輔氏春は、京より淡路へ落ちて、国中の勢を相附けて、相模守に力を合はせ、兵船を調へて境浜へ著くべし。」と披露あり。「摂津国源氏松山は、香下城を拵へて南方に牒じ合はせ、播磨路を差し塞いで、人を通さず。」聞こえければ、一方ならぬ蜂起に、京都、以ての外に周章して、「すはや、世の乱れ出で来ぬ。」と危ぶまぬ人もなかりけり。宰相中将殿は、畿内の蜂起を聞きて、「近国はたとひ起こるとも、坂東静かなれば、東八箇国の勢を召し上せて退治せんに、何程の事かあるべき。」とて、あながちに{*4}騒ぐ気色もなかりける処に、康安元年十一月十三日、関東より飛脚到来して、「畠山入道道誓、舎弟尾張守、御敵になつて、伊豆国に楯篭り候間、東国の路塞がつて、官軍、催しに応ぜず。」とぞ申しける。
「その濫觴、何事ぞ。」と尋ぬれば、去々年の冬、畠山入道、南方退治の大将として上洛せし時、東八箇国の大名小名、数を尽くしてぞ上りける。この軍勢、長途に疲れ、数月の在陣にくたびれて、馬物具を売る位になりしかば、こらへかねて、畠山に暇をも乞はず、抜け抜けに大略本国へ下りける。遥かに程経て、畠山、関東に下向して、彼等が一所懸命の所領どもを没収して、歎けども耳にも聞き入れず。たまたま披露する奉行あれば、大きに鼻をつかせ{*5}追ひ込みける間、訴人、いたづらに群集して、愁へを抱かずといふ者なし。暫くは訴訟を経て廻りけるが、余に事興盛しければ、宗徒の者ども千余人、神水を呑んで、「所詮、畠山入道を執権に召し仕はれば、毎事御成敗に随ふまじき」由を、左馬頭{*6}へぞ訴へ申しける。
「下として上を退くる嗷訴、下剋上の至りかな。」と、心中には憤り思はれけれども、「この者どもに背かれなば、東国は一日も無為なるまじ。」とおぼして、やがて畠山がもとへ使を立てて、「去々年上洛の時、南方退治の事は次になりて、専ら仁木右京大夫を討たんと謀られ候ひし事、隠謀のその一にて非ずや。その後、関東に下向して、さしたる罪科なき諸人の所帯を没収せられ候ひける事、唯、世を乱して、基氏を天下の人に背かせんとの企てにてぞ候らん。叛逆、かたがた露顕の上は、一日も門下に跡を留めらるべからず。退出、遅々に及ばば、速やかに討手を差し遣はすべし。」とぞいひ送られける。
畠山は、その頃鎌倉にありけるが、「この上は、陳じ申すともかなふまじ。」とて、兄弟五人並びに郎従已下引き具して三百余騎、伊豆国を指して落ちて行く。この勢、小田原宿に著きたりける夜、土肥掃部助、「御敵になつて落つる者に、矢一つ射懸けずといふ事やあるべき。」とて、主従唯八騎にて小田原宿へ押し寄せ、風上より火をかけ、煙の下より切つて入る。畠山が方に、遊佐、神保、斎藤、杉原、出で向つて散々に追ひ払ふ。「これほど小勢なりけるものを。」とて、時の興にぞ笑ひ合ひける。
さて{*7}その後は、後陣に防ぎ矢少々射させて、その夜、小田原宿を落ちて、伊豆の修禅寺に楯篭る。その後、「畠山が舎弟尾張守義深、信濃へ越えて、諏訪の祝部と引き合ひて、敵になる。」と聞こえしかば、「東国西国東山道、一度にいかさま、起こり合ひぬ。」と、洛中の貴賤、さわぎあへり。
校訂者注
1:底本頭注に、「名は藤康。」とある。
2:底本頭注に、「頼房。」とある。
3:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
4:底本は、「強(あなが)ち騒ぐ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「手強くやりこめ。」とある。
6:底本頭注に、「足利基氏。」とある。
7:底本は、「笑ひ合ひける。其の後は」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
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