巻第三十七

清氏正儀京へ寄する事

 相模守{*1}は、石堂刑部卿を奏者にて、「清氏、不肖の身にて候へども、御方に参ずる故に依つて、四国東国山陰東山、大略義兵を挙げ候なる。京都は元来、はかばかしき兵一人も候はぬ上、細川右馬頭頼之、赤松律師則祐は、当時、山名伊豆守と{*2}陣を取り向うて、相戦ふ最中にて候へば、皆我が国を立ち離れ候まじ。土岐、佐々木{*3}等は又、仁木右京大夫義長と戦つて、両陣相支へて、上洛仕る事候まじ。防ぐべき兵もなく、助けの勢もあるまじき時分にて候へば、急ぎ和田、楠以下の官軍に、合力を致し候へと仰せ下され候へ。清氏、真先を仕つて、京都を一日が中に攻め落として、臨幸を正月以前に成し参らせ候べし。」とぞ申しける。
 主上、「実にも。」と思し召しければ、やがて楠を召して、「清氏が申す所、いかがあるべき。」と仰せらる。正儀、暫く思案して申しけるは、「故尊氏卿、正月十六日の合戦に打ち負けて、筑紫へ落ちて候ひしより以来、朝敵、都を落つること、已に五箇度に及び候。然れども、天下の士卒、猶、皇天{*4}を戴く者少なく候間、官軍、洛中に足を留むる事を得ず候。然も{*5}、一旦京都を落とさんことは、清氏が力を借るまでも候まじ。正儀一人が勢を以ても、たやすかるべきにて候へども、又、敵に取つて返されて、攻められ候はん時、いづれの国か官軍の助けと成り候べき。もし退く事を恥ぢて、洛中にて戦ひ候はば、四国西国の御敵、兵船を浮かべて後を襲ひ、美濃、尾張、越前、加賀の朝敵ども、宇治、勢多より押し寄せて戦ひを決せば、又、天下を朝敵に奪はれん事、掌の中にありぬとおぼえ候。但し、愚案短才の身、公議をさみし申すべき{*6}にて候はねば、ともかくも綸言に従ひ候べし。」とぞ申しける。
 主上を始めまゐらせて、竹園椒房{*7}、諸司諸衛に至るまで、住み馴れし都の恋しさに、後の難儀をば顧みず。「一夜の程なりとも、雲居の花に旅ねしてこそ、のちはその夜の夢を偲ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉議一同して、「明年よりは、三年北塞がりなり。節分以前に洛中の朝敵を攻め落として、臨幸を成し奉るべき」由、議定まりて、兵どもをぞ召されける。

新将軍京落ちの事

 公家の大将には二條殿{*8}、四條中納言隆俊卿。武将には、石堂刑部卿頼房、細川相模守清氏、舎弟左馬助、和田、楠、湯浅、山本、恩地、牲川。その勢二千余騎にて、十二月三日、住吉、天王寺に勢ぞろへをすれば、細川兵部少輔氏春、淡路の勢を率して、兵船八十余艘にて境浜へつく。赤松彦五郎範実、「摂津国兵庫より打つ立ちて、すぐに山崎へ攻むべし。」と相図を差す。
 これを聞きて京中の貴賤、財宝を鞍馬、高雄へ持ち運び、蔀、遣戸を放し取る{*9}。京白河の騒動、ななめならず。宰相中将殿は、二日より東寺に陣取つて著到をつけられけるに、「御内、外様の勢、四千余騎。」と註せり。「さては、敵の勢よりも、御方は尚多かりけり。外都に向つて防ぐべし。」とて、「時の侍所なれば。」とて、佐々木治部少輔高秀を摂津国へ差し下さる。当国は、親父道誉が管領の国なれば、国中の勢を相催して五百余騎、忍常寺に陣を取つて、敵を目の下に待ちかけたり。今川伊予守に三河遠江の勢を附けて七百余騎、山崎へ差し向けらる。吉良治部大輔、宇都宮三河三郎、黒田判官を大渡へ向けらる。自余の兵千余騎、淀、鳥羽、伏見、竹田へ控へさせ、羽林の兵千余騎{*10}をば、東寺の内にぞ篭められける。
 同じき七日、南方の大将、河を越えて軍評定のありけるに、細川相模守、進み出でて申されける様は、「京都の勢の分際をも、兵の気色をも、皆見透かしたる事にて候へば、この合戦に於いては、まげて清氏が申す旨に任せられ候へ。先づ清氏、後陣に控へて、山崎へ打ち通り候はんに、忍常寺に候なる佐々木治部少輔、何千騎候といふとも、よも一矢も射懸け候はじ。山崎を今川伊予守が堅めて候なる。これ又、一軍までもあるまじき者にて候。洛中の合戦になり候はば、大和河内和泉紀伊国の官軍は、皆かち立ちになりて、一面に楯をつきしとみ{*11}、楯の蔭に槍長刀の打物の衆を五、六百人づつそろへて、敵懸からば、馬の草脇太腹ついては{*12}跳ね落とさせ、一足も前へは進むとも、一歩も後ろへ引く気色なくば、敵、重ねて駆け入る者候べからず。その時、石堂刑部卿、赤松彦五郎、清氏、一手になりて敵の中を駆け破り、義詮朝臣を目に懸け候程ならば、いづくまでか落とし候べき。天下の落居、一時が中に定まり候べきものを。」と申されければ、「この議、誠に然るべし。」とて、官軍、中島を打ち越えて、都を指して攻め上る。
 実にも、相模守のいひつるに少しもたがはず、忍常寺の麓を打ち通るに、「佐々木治部少輔は、時の侍所なり。甥二人まで当国にて楠に討たれぬ。ここにて先日の恥をもすすがんとて、手痛き軍をせんずらん。」と思ひ儲けて通りけるに、高秀、相模守に機を呑まれて臆してやありけん、矢の一つをも射懸けず、をめをめとこそ通しけれ。「さては、山崎にてぞ一軍あらんずらん。」と思ふ処に、今川伊予守も、叶はじとや思ひけん、一戦ひも戦はで、鳥羽の秋山へ引き退く。これを見て、ここかしこに陣を取りたる勢ども、未だ敵の近づかざるに、落ち支度をのみぞし居たりける。
 「かくては合戦、はかばかしからじ。先づ京を落ちてこそ、東国北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上{*13}をば警固し奉り、同じき八日の暁に、宰相中将殿、苦集滅道を経て勢多を通り、近江の武佐寺へ落ち給ふ。「君は船、臣は水、水能く船を浮かぶ。水又船を覆すなり。臣能く君を保つ、臣又君を傾く。」といへり。去々年の春は、清氏、武家の執事として相公を扶持し奉り、今年の冬は、清氏、忽ちに敵となりて相公を傾け奉る。魏徴が太宗を諌めける貞観政要の文、実にもと思ひ知られたり。同日の晩景に、南方の官軍、都に打ち入りて、将軍の御屋形を焼き払ふ。思ひの外に洛中にて合戦なかりければ、落つる勢も入る勢も、共に狼籍をせず。京白川は中々にこの間よりも閑かなり。
 ここに佐渡判官入道道誉、都を落ちける時、「我が宿所へは定めて、さもとある{*14}大将を入れ替へんずらん。」とて、尋常に取りしたためて、六間の会所には大紋の畳を敷き並べ、本尊、脇絵、花瓶、香炉、鑵子、盆に至るまで、一様に皆置きそろへて、書院には羲之が草書の偈、韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に緞子{*15}の宿直物を取り添へて置く。十二間の遠侍には、鳥{*16}、兔、雉、白鳥、三竿に懸け並べ、三石入りばかりなる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留め置きて、「誰にても、この宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申し置きにけり。
 楠、一番に打ち入りたりけるに、遁世者二人出で向つて、「定めてこの弊屋へ御入りぞ候はんずらん。『一献を進め申せ。』と道誉禅門、申し置かれて{*17}候。」と、色代してぞ出で迎へける。「道誉は相模守の当敵なれば、この宿所をば、定めてこぼち焼くべし。」と憤られけれども、楠、この情を感じて、その儀を止めしかば、泉水の木一本をも損ぜず、客殿の畳の一帖をも失はず。あまつさへ、遠侍の酒肴、以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白幅輪の太刀一振置きて、郎等一人止め置きて、道誉に交替して、又都をぞ落ちたりける。
 「道誉が今度の振舞、なさけ深く風情あり。」と、感ぜぬ人もなかりけり。「例の古博奕{*18}に出しぬかれて、幾程なくて、楠、太刀と鎧を取られたり。」と、笑ふ族も多かりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「細川清氏。」とある。
 2:底本は、「山名伊豆(の)守の陣を」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「〇土岐 名は善忠。」「〇佐々木 名は崇永。」とある。
 4:底本頭注に、「天子。」とある。
 5:底本は、「然りと雖も、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「蔑如し申しませうや。」とある。
 7:底本頭注に、「〇竹園 親王。」「〇椒房 後宮。」とある。
 8:底本頭注に、「師基。」とある。
 9:底本は、「放ち取り、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 10:底本は、「羽林(うりん)の兵(つはもの)六千余騎」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 11:底本頭注に、「隙間なく楯を突き並べ。」とある。
 12:底本は、「太腹(ふとばら)ついて跳(は)ね」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 13:底本頭注に、「後光厳院。」とある。
 14:底本頭注に、「さも立派だと評判のある。」とある。
 15:底本は、「純子(どんす)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇眠蔵 寝所。」とある。
 16:底本は、「烏」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇遠侍 中門の側にある番侍の詰所。」とある。
 17:底本は、「置かれ候。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 18:底本は、「古博奕(ふるばくち)」。底本頭注に、「老獪な博奕うちの意で、嘲罵の語。」とある。