畠山入道道誓謀叛の事 附 楊国忠が事
「畠山入道道誓、舎弟尾張守義深、同式部大輔{*1}、兄弟三人は、その勢五百余騎にて伊豆国に逃げ下り、三津、金山、修禅寺の三つの城を構へて楯篭りたり。」と聞こえければ、鎌倉の左馬頭基氏、まづ平一揆の勢三百余騎{*2}を差し向けらる。
その勢、已に伊豆府に著きて、近辺の荘園に兵粮をかけ、人夫を駆り立てける程に、葛山備中守と平一揆と{*3}、所領の事に就いて闘諍を引き出だし、忽ちに、「軍をせん。」とぞひしめきける。畠山が手の者に、遊佐、神保、杉原、これを聞きて、「あはれ、弊えに乗る処や。」と思ひければ、五百余騎を三手に分けて、三月二十七日の夜半に、伊豆府へ逆寄せにぞ寄せたりける。葛山は、「平一揆の者ども、畠山と成り合つて、夜討ちに寄せたり。」と騒ぎ、平一揆は、「葛山と引き合ひて、畠山、御方を討たんとするものなり。」と心得て、共に心を置き合ひければ、矢の一つをもはかばかしく射出ださず、寄せ手三万騎、いたづらに鎌倉を指して引き退く。児女の嘲り、理なり。
左馬頭、安からず思ひければ、新田、田中を大将として、やがて、武蔵相模伊豆駿河上野下野上総下総、八箇国の勢二十万余騎をぞ向けられける。畠山は、この十余年、左馬頭を妹聟に取つて、栄耀、門戸に余るのみならず、執事の職に居して、天下を掌に握りしかば、東八箇国の者どもの、「命に替はらん。」と昵び近づきけるを、我が身の仁徳と心得て、「何となくとも、我、旗を挙げたらんに、勢四、五千騎も馳せ加はらぬ事はあらじ。」と憑みしに、案に相違して、よその勢一騎もつかず。結句、「一方の大将にも。」と憑みし狩野介も降参しぬ。又、その外相伝譜代の家人、厚恩他に異なる郎従どもも、日にそへ落ち失せて、今は戦ふべしともおぼえざりければ、大勢の重ねて向かふ由を聞きて、二つの城に火をかけて、修禅寺城へ引き篭る。
夢なるかな、昨日は海をはかりし大鵬の、九霄{*4}の雲に羽打つが如く、今日は轍に伏す涸魚の、三升の水を求むるに異ならず。「『我が身、かかるべしと知りたらば、新田左兵衛佐を、まげて討つまじかりけるものを。』と後悔せり。」といへり。早く報ひけるを、かねて知らざるこそ愚かなれ。そもそも畠山入道、去々年、東国の勢を催し立てて、南方へ発向したりし事の企てを聞けば、唯、唐の楊国忠、安禄山が、天威を借つて後に世を奪はんと謀りしに似たり。
昔、唐の玄宗、位に即き給ひしはじめ、四海無事なりしかば、楽しみに誇り、奢りをつつしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心にしめて、五雲の車に召され、左右の侍児人に手を引かれ、殿上を幸して後宮三十六宮を廻り、三千人の后を御覧ずるに、元献皇后、武淑妃、二人にすぐるる容色もなかりけり。君、限りなくこの二人の妃に思し召し移りて、春の花、秋の月、いづれを捨つべしとも思し召さざりしに、色あるものは必ず衰へ、光ある者は終に消えぬる憂世の習ひなれば、この二人の后、幾程なく共に御隠れありけり。玄宗、余りに御歎きあつて、玉体も穏やかならざりしかば、大臣皆、相謀つて、「いづくにか前の皇后淑妃に勝りて、君の御心をも慰め参らすべき美人のある。」と、至らぬ隈もなくぞ尋ねける。
ここに、弘農の楊玄琰が女に、楊貴妃といふ美人あり。これは、その母昼寝して、楊の蔭にねたりけるに、枝より余る下露、婢子に落ち懸かりて胎内に宿りしかば、更々人間の類にてはあるべからず。唯、天人の化してこの土に来る者なるべし。紅顔翠黛は、元来、天のなせるかたちなれば、何ぞ必ずしも瓊粉金膏の仮なる色を事とせん。漢の李夫人を写せし画工も、これを画かば遂に筆の及ばざる事を怪しみ、巫山の神女を賦せし宋玉も、これを讃せば、自ら詞の将に卑しき事を恥ぢなん。その語るを聞きても迷ひぬべし。況んやその色を見ん人をや。かやうにわりなくおぼえし顔色なれば、時の王侯貴人、公卿大夫、媒妁を求め婚礼を厚くして夫婦たらん事を望みしかども、父母、かつて許さず。秘して深窓にありしかば、夭々たる桃の花の暁の露を含んで、垣より余る一枝の霞に匂へるが如くなり。
或る人、これをなかだちして、玄宗皇帝の連枝の宮、寧王の御方へ参らせけるを、玄宗、天威に誇つて、みだりに高将軍を差し遣はして、道より奪ひ取つて後宮へぞかしづき入れ奉りける。玄宗の叡感、寧王の御思ひ、花開く枝の、一方は折れて萎めるに相似たり。されば、「月、前殿に来る事早く、春、後宮に入る事遅し。」と詩人もこれを題せり。尋常の寒梅、樹折れて軍持に上れば、一段の清香、人の心を感ぜしむ。民屋、粛颯たる垂楊柳、移りて宮苑にいれば、千尺の翠條、別に春風長かるべし。さらでだに妙に勝れたる容色の上に、金翠を飾り、薫香を散らせしかば、唯、歓喜園の花の蔭に、舎脂夫人{*5}の粧ひをなして春に和せるに異ならず。
一度君主に面をまみえしより、袖の中の珊瑚の玉、掌の上の芙蓉の花と、見る目もあやに御心迷ひしかば、暫くもその側を離れ給はず。昼は日ねもすに輦を共にして、南内の花に酔ひを勧め、夜は夜もすがら席を同じうして、西宮の月に宴をなし給ふ。玄宗、余りのわりなさに、「世人の、面に紅粉を施し、身に羅綺を帯びたるは皆、仮なる嬋娟にて、真の美質にあらず。同じくは、楊貴妃の顕はしたる肌を見ばや。」と思し召して、驪山宮の温泉に瑠璃の沙を敷き、玉の甃を滑らかにして、貴妃の御衣をぬぎ給へるかたちを御覧ずるに、白く妙なる御はだへに、蘭膏の御湯を引かせければ、藍田、日暖かにして、玉涙を垂れ、庾嶺、雪とほりて、梅香を吐くかとあやしまるるほどなり。牛車の宣旨を被つて宮中を出入りせしかば、光彩の栄耀、門戸に満ちて、服用は皆、大長公主に等しく、富貴、甚だ天子王侯にも越えたり。
この楊貴妃の兄せうとに、楊国忠といふ者あり。元来、家賤しくして、畎畝の中に人となり{*6}しかば、才もなく芸もなく、文にもあらず武にもあらざりしかども、后の兄なりしかば、やがて大臣にぞなされける。この時に、安禄山といひける旧臣、権威爵禄、共に楊国忠に越えられて、安からず思ひけれども、すべき様なければ力及ばず。かかる処に、「天子、色を重んじて政を乱り、小人、高位に登つて、国の弊えを知らざるを見て、吐蕃の国々、皆王命を背く。」と聞こえしかば、「誰をか討手に向くべき。」と議せられけるに、楊国忠、武威をほしいままにせんために、「大将の印を授けられば、罷り向つてたやすくこれを鎮むべき」由を望み申しける間、これに上将軍の宣旨をぞ下されける。楊国忠、則ち五十万騎の勢を率して、大荒峯に陣を取る。
それ、大将となる人は、士卒の志を一つにせんために、「士、未だ食はざれば、将、餐せず。士、野に宿すれば、将、蓋を張らず。一豆の飯を得ても、士と共に喫し、一樽の酒を注ぎても、兵と共に飲む。」とこそ申すに、この楊国忠、明くれば旨酒に浸つて、兵の飢ゑたるを知らず。暮るれば美女に纏はれて、人の誹りをも聞き入れず。唯、長時の楽しみにのみ誇り、軍の事をば忘れてもいはざりけるこそ浅ましけれ。さるほどに、兵疲れ将怠りて、進む勢{*7}無かりければ、吐蕃の戎狄ども、二十万騎の勢を引きて、逆寄せにこそ寄せたりけれ。大将は、元来臆病なり。士卒の心を一つにせざれば、一戦も戦はず、楊国忠が五十万騎、我先にと河を渡して、五日路まで逃げたりければ、大荒の四方七千余里、吐蕃に随ひ靡きにけり。
敵は、さのみ追はざりしかども、楊国忠、ここにも猶たまり得ずして、都を指して引きけるが、今度大将を申し請うて発向したる甲斐もなく、一軍せで帰らん事、上聞、その憚りありければ、御方の勢の中に、馬にも乗らず、物具もせで疲れたる兵を一万人、首を刎ねて、各、鋒に貫き、「これ皆、吐蕃の徒の首なり。」と号して、都へぞ帰りける。罪なくして首を刎ねられたる兵どもの親子兄弟幾千万、悲しみを含みて声を呑み、家々に哭すといへども、楊国忠が漏れ聞かんずる事を恐れて、奏し申す人なければ、御方の兵一万人は、敵の首となして獄門の木にかけられ、大荒の地千里は、討ち平らげたる所と号して、楊国忠にぞ行はれける{*8}。上乱れ下背かずといふ事なれば、世をこぞつて、ただ楊国忠を滅ぼさんずる事をぞ謀りける。
安禄山、この頃、大荒の境に吐蕃を防がんとて居たりけるが、「時、至りぬ。」と悦びて、諸侯に約をなし、士卒に礼をふかくして、「楊国忠を討つべしと、宣旨を賜はりたり。」と披露して兵を催すに、大荒にて楊国忠に討たれたりし一万人の兵どもの親類兄弟、大きに悦びて、我先にと馳せ集まりける程に、安禄山が兵は、程なく七十万騎になりにけり。則ち、崔乾祐を右将軍とし、子思明を左将軍として都へ上るに、路次の民屋をも煩はさず、城郭をも攻めねば{*9}、「安禄山、朝敵になつて長安へ攻め上る。」とは、夢にも人、思ひよらず。箪食壺漿を持ちて、士卒の疲れをぞいたはりける。この勢、既に都より七十里を隔てたる潼関といふ山に打ちあがりて、初めて旗の手を下し、鬨の声をぞ揚げたりける。
玄宗皇帝は、折節、驪山宮に行幸なつて、楊貴妃に霓裳羽衣の舞をまはせて、「大梵高台の楽しみも、これには過ぎじ。」と思し召しける処に、潼関に馬煙おびただしく立つて、漁陽より急を告ぐる鼙鼓の、雷のごとくに打ちつづけたり。探使、度々馳せ帰つて、「安禄山が徒、崔乾祐、子思明等、百万騎にて寄せたり{*10}。」と騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、歌舒翰に三十万騎を相添へて、咸陽の南へ差し向けらる。
安禄山、既に潼関の山に打ち上がりて、歌舒翰、麓に馳せ向ひたれば、かさよりまつくだりに懸け落とされて、官軍十万余騎、河水に溺れて死ににけり。歌舒翰、僅かに討ちなされて、一日猶、長安に支へて居たりけるが、使を馳せて、「幾度戦ふとも勝つ事を得難し。急ぎ竜駕を廻らされて、蜀山へ落ちさせ給ふべき」由を申したりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未だ終はらざるに、玄宗皇帝と楊貴妃と、同じく五雲の車に召されて、都を落ち給へば、楊国忠を始めとして、諸王千官悉く、かちはだしなる有様にて、泣く泣く六軍の後に相従ふ。歌舒翰、長安の軍にも打ち負けて、鳳翔県へ落ちければ、安禄山が兵、君を追つ懸け参らせて、旗の手五十町ばかりの後に連なりたり。
竜駕、既に馬嵬の堤を過ぎさせ給ひける時、供奉仕る官軍六万余騎、道を遮つて君を通し参らせず。「これは、何事ぞ。」と御尋ねありければ、兵皆、戈をふせ地に跪いて、「この乱れ、俄に出で来て、天子、宮闕を去らせ給ふ事、ひとへに楊国忠が驕りを極め、罪なき人を切りたりし故なり。然れば、楊国忠を官軍の中へ賜はりて首を刎ね、天下の人の心を休め候べし。然らずば、たとひ安禄山が鋒には死すとも、天子の竜駕をば通し参らすまじ。」とぞ申しける。後より敵は追つ懸けたり。「惜しむとも叶ふべからず。」と思し召しければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ仰せられける。
官軍、大きに喜びて、楊国忠を馬より引き落とし、戈の先にさし貫き、一同にどつとぞ笑ひける。これを御覧じける楊貴妃の御心の内こそ悲しけれ。かくても官軍、猶あき足らざる気色ありて、竜駕を通し参らせざりければ、「この上の憤り、何事ぞ。」と尋ねらるるに、兵皆、「后妃の徳たがはば、四海の静まる期、あるべからず。褒娰、周の世を乱り、西施、呉の国を傾けし事、黈纊{*11}、耳を塞がず。君、何ぞ思し召し知らざらん。早く楊貴妃に死を賜はらずば、臣等、忠言のために胸を裂いて、蒼天に血を注ぐべし。」とぞ申しける。玄宗、これを聞こし召して、遁るまじき程を思し召しければ、とかくの御詞にも及ばず。御胸も塞がりて、御心消えて、鳳輦の中に倒れ伏させ給ふ。霞の袖を覆へども、荒き風には散る花の、かくるる方もなかるべきに、楊貴妃、「さてもや遁るる。」と、君の御衣の下へ御身をそばめて隠れさせ給へば、天子自ら御かたちを胸にかきよせて、「先づ朕を失ひて後、彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、さしも怒れる武士どもも、皆戈を捨てて地に倒る。
その中に、邪見放逸なる戎{*12}のありけるが、「かくては叶ふべからず。」とて、玉体に取りつかせ給ひたる楊貴妃の御手を引き放して、轅の下へ引き落とし奉り、やがて馬の蹄にぞ懸けたりける。玉の簪、地に乱れて、行人、道を過ぎやらず。雪の肌、泥にまみれて、見る人、袖をほしかねたり。玄宗は、力なくして、御かたちをももたげさせ給はず、臥し沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様をまのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶えぬ玉の緒の、長き恨みとはなりにけれ{*13}。
その後に、二陣の兵、ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀へ落ちつかせ給ひけり。即ち、回紇{*14}、十万騎の勢を率して馳せ参る。厳武、歌舒翰、又国々の兵を催し立てて{*15}五十万騎、蜀の行在へぞ参りける。安禄山が勢は、始め、楊国忠を討たんとする由を聞きてこそ、我も我もと馳せ集まりしが、「今の如きは、唯、天下を奪はんとするものなりけり。」とて、兵多く落ち失せける間、安禄山が栄花、唯、春一時の夢とぞ見えたりける。
かやうに都の敵は日々に減じ、蜀の官軍は国々より参りけれども、玄宗皇帝は、楊貴妃の事に思ひ沈ませ給ひて、万機の政にも御心をかけられず。唯、「死しても生まれあふべくは、生きて命も何かせん。」と思し召す外は、他事もなし。厳武、歌舒翰、回紇等、「かくては叶ふまじ。」と思ひければ、玄宗皇帝の第二の御子粛宗の、鳳翔県といふ所に隠れておはしけるを、天子と仰ぎ奉つて、四海に宣旨を下し、諸国の兵を催して八十万騎、まづ長安へぞ寄せたりける。安禄山、崔乾祐、子思明を大将にて、これも八十万騎、長安に馳せ向ふ。両陣、相挑んで未だ戦はざる処に、祖廟の神霊、百万騎の兵に化し、黄なる旗を差して歌舒翰が勢に加はり、崔乾祐と戦ひける間、安禄山が兵どもは破れ立ちて、一時に皆亡びにけり。
朝敵、忽ちに誅せられて、洛陽、則ち静まりければ、粛宗、位を辞して、又、玄宗を位に即け奉らんために、官軍皆、蜀へ御迎ひにぞ参りける。玄宗は、かく天下の程なく静まりぬるにつきても、ただ楊貴妃の世におはせぬ事のみ思し召して、再び天子の位を践ませ給はんことも御本意ならねども、「馬嵬の昔の跡をも御覧ぜばや。」と思し召す御心に急がれて、やがて遷幸の儀則を促されける。
馬嵬の道のほとりに鳳輦を留められて、「これぞ去年の秋、楊貴妃の武士に殺されて、はかなくなりし跡よ。」とて御覧ずれば、長堤の柳の風にしなへるも、枕に懸かりし寝乱れ髪の朝の面影、御涙に浮かび、池塘の草の、露にしをれたるも、落ちて地に乱れけん玉の簪、かくやと思し召し知られて、いとど御心を悩まされ、うかれて迷ふその魂の跡までも、猶なつかしければ、唯、日暮れ夜明くれども、「ここにて思ひ消えばや。」と思し召しけれども、「翠花{*16}、揺々として東に帰れば、ここをさへ亦別れぬる事よ。」と、御涙、更にせきあへず。遥かに後を顧みさせ給ふに、蜀江水緑にして蜀山青し。聖主、朝な朝な夕べ夕べの心{*17}、譬へていはん方もなし。
日を経て長安に遷幸成つて、楊貴妃の昔の住み給ひし驪山の華清宮の荒れたる跡を御覧ずるに、楼台池苑、皆、旧に依る{*18}。太掖の芙蓉、未央の柳、芙蓉は面の如く、柳は眉の如し。君王、これに対して、いかでか涙なからん。春風桃李、花の開く日、秋露梧桐、葉の落つる時、西宮南苑、秋草多し。落葉、階に満ちて、紅払はず。行宮に月を見て、心を傷ましむる色。夜の雨に猿を聴いて腸を断つの声。夕殿、蛍飛んで、思ひ悄然たり。孤灯挑げ尽くして、未だ眠りを成さず。遅々たる鐘鼓、初めて長夜。耿々たる星河、明けんと欲する天。鴛鴦、瓦すさまじうして、霜花重し。翡翠の衾寒うして、誰と共にせん。物ごとに堪へぬ御悲しみの深くなり行きければ、今は四海の安危をも叡慮に懸けられず。御位をさへ粛宗皇帝に譲り奉り、玄宗は、ただいつとなく御涙にしをれて、仙院の故宮にぞおはしける。
ここに、臨卭の道士、楊通幽、玄宗の宮にまゐつて、「臣は、神仙の道を得たり。遥かに君王展転の御思ひ{*19}を知れり。楊貴妃のおはする所を尋ねて帰りまゐらん。」と申しければ、玄宗、限りなく叡感あつて、即ち高官を授けて大禄を与へたまふ。方士、即ち天に登り地に入りて、上は碧落{*20}を極め、下は黄泉の底まで尋ね求むるに、楊貴妃、更におはしまさず。遥かに飛び去つて、天海万里の波涛を凌ぐに、あはひ七万里を隔てて、蓬莱、方丈、瀛州の三つの島あり。一つの亀、これを戴けり。中に五城そばだちて、十二の楼閣あり。その宮門に金字の額あり。立ち寄つてこれを見れば、玉妃太真院とぞ書きたりける。
「楊貴妃、さてはこの中におはしけり。」と嬉しく思ひて、門を荒らかに敲きければ、内より双鬟の童女出でて、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問ふに、方士、手を収めて、「これは、漢家の天子の御使に、方士と申す者にて候が、楊貴妃のこれに御座あると承つて、尋ね参つて候。」と答へ申しければ、双鬟の童女、「楊貴妃は、未だ大殿篭りて候。この由を申して帰り侍らん。」とて、玉の扉を押し立てて内へ入りぬ。方士、門の傍らに立ちて、「今や出づる。」とこれを待つに、雲海沈々として、洞天に日暮れぬ{*21}。瓊戸重ねて閉ぢて、悄然として声なし。ややあつて、双鬟の童女出でて、方士を内へ誘ひ入る。方士、手を揖して、金闕の玉の廂に跪く。
時に玉妃、夢さめて、枕を押し退けて起き給ふ。雲鬟かいつくろはずして、羅綺にだも堪へざる体、譬へて言ふに比類なし。左右の侍児七、八人皆、金蓮を冠にし、鳳舄{*22}を著して相随ふ。五雲飄々として、玉妃、堂より出で給ふ。雲頭艶々として、暁月の海を出づるに異ならず。方士、涙を抑へて、君王、展転の御思ひを語るに、玉妃、つくづくと聞き給ひて、情を含み、まなじりを凝らして君王に謝す。「一別、音容二つながら渺茫たり。昭陽殿裏、恩愛絶え{*23}、蓬莱宮中、日月長し。」となん恨み給ひて、中々御言葉もなければ、玉容寂寞として、涙欄干たり。唯、梨花一枝、春雨を帯ぶる如し。
将に方士、帰り去りなんとするに及びて、「玉妃の御形見を賜はり候へ。訪ね奉るしるしに献ぜん。」と申しければ、玉妃、手づから玉の簪を半ば裂きて、方士にたぶ。方士、簪を賜はりて、「これは尋常、世にある物なり。何ぞこれを以てしるしとするに足らんや。願はくは玉妃、君王に侍りし時、人のかつて知らざる事あらば、それを承りてしるしとせん。然らずば臣、忽ちに新垣平が偽りを負ひて、身、斧鉞の罪に当たらん{*24}事を恐る。」と申しければ、玉妃、重ねて宣はく、「我、七月七日、長生殿夜半、人なく上の傍に侍りし時、牽牛織女のたえぬ契りを羨みて、『天にあらば、願はくは比翼の鳥とならん。地に在つては願はくは連理の枝とならん。』と誓ひき。これは、君王と我とのみ知れり。これを以てしるしとすべし。」とて、泣く泣く玉の台を登り給へば、音楽、雲に隔たり、団扇、天に隠れて、夕陽の影の裏に漸々として消え去りぬ。
方士、簪の半ばと詞の形見とを受けて、宮闕に帰参し、つぶさにこれを奏するに、玄宗、思ひに堪へかねて、伏し沈ませ給ひけるが、その年の夏、未央宮の前殿にして遂に崩御なりにけり。「一念五百生、繋念無量劫。」といへり。況んや、知らぬ世までの御契り浅からざりしかば、「ここに死し、かしこに生まれて、天上人間禽獣魚虫に生を替へて、愛著の迷ひを離れ給はじ。」と、罪深き御契りなり。
そもそも天宝の末の世の乱れ、唯、安禄山、楊国忠が、天威を借つて功に誇り、人を猜みし故なり。今、関東の軍、道誓が隠謀より事起こつて、傾廃、古に相似たり。天、奢りを憎み、満てるを欠く。責め、遁るる処なければ、道誓の運命も憑みがたしとぞ見えたりける。
校訂者注
1:底本は、「義凞」。
2:底本は、「勢三万余騎」。底本頭注及び『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
3:底本は、「平(へい)一揆の所領(しよりやう)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本は、「九霄(せう)」。底本頭注に、「大空。」とある。
5:底本は、「舎脂夫人(しやしふじん)」。底本頭注に、「帝釈天王の妃。」とある。
6:底本は、「畎畝(けんぽ)の中(うち)に長(ひととな)り」。底本頭注に、「畎は深さ尺広さ尺の地、畝は百歩の地。卑賎の間に生長しの意。」とある。
7:底本は、「樽む勢」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「賞として行はれた。」とある。
9:底本は、「攻めず。」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
10:底本は、「寄せたりけりと」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
11:底本は、「旒纊(りうくわう)」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
12:底本は、「戎(ゑびす)」。底本頭注に、「兵士のこと。」とある。
13:底本は、「なりにけり。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
14:底本は、「回糸(くわいこつ)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
15:底本は、「立て、」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
16:底本は、「翠花(すゐくわ)」。底本頭注に、「天皇の旗。」とある。
17・18・21:底本頭注に、「長恨歌の句。」とある。
19:底本は、「展転(てんてん)の御思(おんおも)ひ」。底本頭注に、「寝返り打つて思ひ悩むこと。詩経に『悠哉悠哉展転反側。』。」とある。
20:底本は、「碧落(へきらく)」。底本頭注に、「大空。」とある。
22:底本は、「鳳舄(ほうせき)」。底本頭注に、「立派な履物。」とある。
23:底本は、「絶つ、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)及び『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
24:底本は、「当る事を恐る。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇新垣平 趙の人で詐りを以て君王を迷はして誅せられた。」とある。
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