巻第三十八
彗星客星の事 附 湖水乾く事
康安二年二月に、「都には、彗星客星、同時に出でたり。」とて、天文博士ども、内裏へ召されて吉凶を占ひ申しけり。
「客星は。用明天皇の御宇に、守屋、仏法を亡ぼさんとせし時、始めて見えたりけるより、今に至るまで十四箇度。その内、二度は祥瑞にて、十二度は大凶なり。彗星は、皇極天皇の御宇に、豊浦大臣の子、蘇我入鹿が乱を起こして、中臣大兄皇子並びに中臣鎌子{*1}と合戦をしたりし時、始めてこの星出でたりしより、今に至るまで八十六箇度、一度も未だ災難ならずといふことなし。尤も天下の御慎しみにて候べし。」と、博士一同に考へ申しければ、諸臣皆、色を失うて、「さればよ。この乱世の上には、実にも世界国土が金輪際の底へ落ち入るか、然らずば、異国の蒙古寄せ来つて、日本国を打ち取るかにてこそあらめ。さる事あるまじき世ともおぼえず。」と、面々に申し合はれけり{*2}。誠に、「天地人の三災、同時に出で来ぬ。」とおぼえて、去年の七月より、日々に二、三度の地震も未だ止まず。又、今年の六月より同じき十一月の始めまで旱魃して、五穀も実らず、草木も枯れ萎みしかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥にいきづくのみならず、人民どもの飢死する事、所々に数を知らず。
この時、近江の湖も三丈六尺干たりけるに、様々の不思議あり。白髭明神の前にて、沖に二人して抱くばかりなる桧木の柱を、あはひ一丈八尺づつ立て並べて、二町余に渡せる橋、見えたり。「古人の語り伝へたる事もなし。古き記録にも載せず。これは、いかさま、竜宮城の道にてぞあるらん。」といひ沙汰して、見る人、日々に群集せり。又、竹生島より箕浦まで水の上三里、瑪瑙の如くなる切石を、広さ二丈ばかりに平らに畳み連ねて、二河白道もかくやとおぼえたる道、一通り顕はれ出でたり。「これも、いかさま、竜神の通ひ路にてぞあるらん。」とて、踏んでは渡る人なし。唯、辺りの浦に船を浮かべて見る人、市の如くなり。「『この湖、七度まで桑原に変ぜしを、我、見たり。』と白髭明神、大宮権現に向つて仰せられけるといふ古の物語あれば、左様の桑原にやならんずらん。」と、見る人、怪しみ思へり。
「天地の変は、既にかくの如く、人事の変、又、さてこそあらんずらめ。」と思ふ処に、国々より早馬を打つて、「宮方、蜂起したり。」と告ぐる事、かつて止む時なし。
諸国宮方蜂起の事 附 備前軍の事
山陽道には、同じき年六月三日に、山名伊豆守時氏、五千余騎にて伯耆より美作の院荘へ打ち越えて、国々へ勢を差し分かつ。先づ一方へは、時氏子息、左衛門佐師義を大将にて二千余騎、備前備中両国へ発向す。
一勢は、備前の仁堀に陣を取つて敵を待つに、その国の守護、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出で合うては叶はじとや思ひけん、また讃岐より細川右馬頭頼之、近日児島へ押し渡ると聞こゆるをや相待ちけん、皆、城に楯篭つて、未だかつて戦はず。
一勢は、多治目備中守、楢崎を侍大将にて千余騎、備中の新見へ打ち出でたるに、秋庭三郎、多年拵へすまして、水も兵粮も沢山なる松山城へ、多治目、楢崎を引き入れしかば、当国の守護越後守師秀、戦ふべきやうなくして、備前の徳倉城へ引き退く刻、郎従赤木父子二人、落ち止まつて思ふ程戦つて、遂に討死してけり。これに依つて、敵、勝つに乗つて国中へ乱れ入つて、勢を差し向け差し向け攻め出だすに、一議をもいふべき様なければ、国人、一人も従ひ附かずといふ者なし。ただ陶山備前守ばかりぞ、南の端の海に添うて{*3}僅かなる城を拵へて、将軍方とては残りける。
備後へは、富田判官秀貞が子息、弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打ち出でたるに、江田、広沢、三吉の一族馳せつきける間、ほどなく二千余騎になりにけり。富田、その勢を合はせて、宮下野入道が城を攻めんとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎ばかりにて、「富田に力を合はせん。」と、備後の宮内へ出でられたりけるが{*4}、禅僧を一人、宮下野入道のもとへ使に立てて仰せられけるは、「天下の事、時刻到来して、諸国の武士、大略御方に志を通ずる処に、その方よりかつて承る旨なき間、遮つて使者を以て申すなり。天下に人多しといへども、別して憑み思ひ奉る志深し。今もし御方に参じて忠を致され候はば、闕所分已下の事に於いては、毎事所望に随ふべし。」とぞ宣ひ遣はされける。
宮入道道山、まづ城へ使者の僧を呼び入れて、点心{*5}を調へ、礼儀を厚くして対面あれば、使者の僧、「今は、かう。」と嬉しく思ふ処に、かの禅門道山、僧に向つて申しけるは、「天下に一人も宮方といふ人なくなつて、佐殿も、憑む方なくならせ給ひたらん時、『さりとては、憑むぞ{*6}。』と承らば、もし憑まれ参らする事もや候はんずらん。今時、近国の者ども多く佐殿に参りて、勢附かせ給ふ間、当国に陣を召されて、『参れ。』と承らんに於いては、えこそ参り候まじけれ。『憎し。その儀ならば、討つて参らせよ。』とて御勢を向けられば、屍はたとひ御陣の前に曝さるとも、魂は猶、将軍の御方に止まつて、仇を泉下に報ぜん事を計らひ候べし。
「そも、かやうの使などには、御内、外様をいはず、然るべき武士をこそ立てらるる事にて候に、僧体にて使節に立たせ給ふ條、心得難くこそおぼえて候へ。文殊の、仏の御使にて維摩の室に入り、玄奘の、大般若を渡さんとて流沙の難を凌ぎしには様替はつて、これは無慚無愧無道心の御振舞にて候へば、僧、聖とは申すまじ。御首をやがて路頭に懸けたく候へども、今度ばかりは別儀を以て許し申すなり。向後、かかる使をして、生きて帰るべしとなおぼしそ{*7}。御分、誠に僧ならば、かかる不思議の事をば、よもし給はじ。唯、この城の案内見んために、夜討の手引きしつべき人が、かたちを禅僧に作り立てられてぞ、これへは{*8}おはしたるならん。やや、若党ども、この僧連れて、城の有様よくよく見せて後、城戸より外へ追ひ出だし奉れ。」とて、後ろの障子を荒らかに引き立てて内へ入れば、使者の僧、「今や失はるる。」と、肝魂も身にそはで、這ふ這ふ逃げてぞ帰りける。
「この使帰らば、佐殿、定めて寄せ給はんずらん。先んずる時は人を制するに利ありとて、逆寄せに寄せて追ひ散らせ。」とて、子息下野次郎氏信に五百余騎をさし添へ、佐殿の陣を取つておはします宮内へ押し寄せ、懸け立て懸け立て攻めけるに、佐殿の大勢ども、立つ足もなく打ち負けて、散々に皆なりにければ、富田もこれに力を落として、己が本国へぞ帰りにける。直冬朝臣、宮入道と合戦をする事、その数を知らず。然れども、直冬、一度も未だ打ち勝ち給ひたる事なければ、いふがひなしと思ふ者やしたりけん、落書の歌を札に書きて、道のちまたにぞ立てたりける。
直冬はいかなる神の罰にてか宮にはさのみ怖ぢてにぐらむ
「侍大将と聞こえし森備中守も、佐殿より先に逃げたり。」と披露ありければ、高札の奥に、
楢の葉のゆるぎの森にゐる{*9}鷺は深山颪に音をや鳴くらむ
但馬国へは、山名左衛門佐、舎弟治部大輔、小林民部丞を侍大将にて二千余騎、大山を経て播磨へ打ち越えんとて出でたりけるが、但馬国の守護仁木弾正少弼{*10}、安良十郎左衛門、将軍方にて楯篭りたる城、未だ落ちざりける間、長九郎左衛門尉、安保入道信禅已下の宮方ども、我が国を差し置いて他国へ越えん事を心得ず{*11}。「さらば、小林が勢ばかりにても播磨へ打ち越えん。」と企つる処に、赤松掃部助直頼、大山に城を構へて、但馬の通路を差し塞ぎけるほどに、小林、難所を支へられ、丹波へぞ打ち越えける。
丹波には、当国の守護仁木兵部大輔義尹{*12}、かねて在国して待ちかけたる事なれば、「やがて合戦ありぬ。」とこそおぼえけるに、楚忽に軍しては中々悪しかりぬとや思はれけん、和久郷に陣を取つて、互に敵の懸かるをぞ相待ちける。「丹波は京近き国なれば、暫くも差し置くべきにあらず。いそぎ大勢を下して、義尹に力を合はせよ。」とて、若狭の守護尾張左衛門佐入道心勝、遠江の守護今川伊予守、三河守護大島遠江守三人に、三箇国の勢を相添へて三千余騎、京都より差し下さる。その勢、已に丹波の篠村に著きしかば、当国の兵ども、心を両方に懸けて、「いづ方へか附かまし。」と思案しける者ども、「今は将軍方ぞ強からんずらん。」と見定めて、我先にと馳せ付きける{*13}程に、篠村の勢は日々に勝りて、程なく五千余騎になりにけり。
山名が勢は、僅かに七百余騎、国遠くして兵粮乏しく、馬人疲れて、城の構へ厳しからず。「かくては如何こらふべき。聞き落ちにぞせんずらん。」とおぼえける処に、「小林右京亮、伯耆国を出でしより、今度、天下を動かす程の合戦をせずば、生きて再び本国へ帰らじと申し切つて出でたりしかば、少しも騒ぐべきにあらず、一所にて討死せんと、気を励まし心を一つにする兵ども、神水を飲みて、已に篠村を立つ。」と聞きしかば、「いづくにても、広みへ懸け合はせて、組み打ちに討たん。」と議しける間、篠村の大勢、これを聞きて、「かへつて寄せられやせんずらん。」と、二日路を隔てたる敵に恐れて、一足も先へは進まず。城戸を構へ逆茂木を引きて、用心厳しくては居たりけれども、小林、兵粮に詰まりて、又伯耆へ引き退きければ、「御敵をば早、追ひ落として候。」とて、気色ばうてぞ帰洛しける。
越中には、桃井播磨守直常、信濃国より打ち越えて、旧好の兵どもを相語らふに、当国の守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が、国の成敗みだりなるに依つて、国人こぞつてこれを背きけるにや、野尻、井口、長沢、倉満の者ども、直常に馳せつきける程に、その勢千余騎になりにけり。桃井、やがて勢ひに乗つて国中を押すに、手に障る者なければ、「加賀国へ発向して富樫を攻めん。」とて打ち出でける。能登、加賀、越前の兵ども、これを聞きて、「敵に先をせられじ。」と相集まつて三千余騎、越中国へ打ち越えて、三箇所に陣を取る。桃井は、いつも敵の陣未だ取りおほせぬ所に駆け散らすを以て利とする者なりければ、逆寄せに押し寄せて攻め戦ふに、越前の勢、一陣先づ破れて、能登、越中の両陣も全からず、十方に散りてぞ落ち行きける。
日暮るれば、桃井、元の陣へ打ち帰つて、物具脱ぎて休みけるが、夜半ばかりに、ちと評定すべき事ありとて、この陣より二里ばかり隔てたる井口が城へ、誰にもかくとも知らせずして、唯一人ぞ行きたりける。この時しも、能登、加賀の者ども三百余騎、打ち連れて降人に出でたりける。執事に属して、「大将の見参に入らん。」と申す間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習の人に尋ぬれども、「いづくへか御入り候ひぬらん。未だ宵より大将は見えさせ給はぬなり。」とぞ答へける。陣を並べたる外様の兵ども、これを聞きて、「さては桃井殿、落ちられにけり。」と騒いで、「我もいづくへか落ち行かまし。」と物具を著るもあり、捨つるもあり。馬に乗るもあり、乗らぬもあり。ひたひしめきにひしめく間、焼き捨てたる火、陣屋に燃え附いて、燎原の炎、盛んなり。
これを見て、降人に出でたりつる三百余騎の者ども、「さらば、いざ、落ち行く敵どもを討ち取つて、我が高名にせん。」とて、箙を敲き、鬨を作つて、追つ懸け追つ懸け討ちけるに、返し合はせて戦はんとする人なければ、ここに追つ立てられ、かしこに切り伏せられ、討たるる者二百余人、生け捕り百人に余れり。桃井は、未だ井口城へも行き著かず、道にて陣に火の懸かりたるを見て、「これは、いかさま、返り忠の者あつて、敵、夜討に寄せたりけり。」と心得て立ち帰る処に、逃ぐる兵ども行き合ひて、息をもつきあへず、「唯引かせ給へ。今は叶ふまじきにて候ぞ。」と申し合ひける間、力及ばず桃井も、共に井口城へ逃げ篭る。
昼の合戦に打ち負けて、御服峯に逃げ上りたる加賀、越前の勢ども、桃井が陣の焼くるを見て、「何とある事やらん。」と怪しく思ふ処に、降人に出でて、心ならず高名しつる兵ども三百余騎、生け捕りを先に追ひ立てさせ、鋒に首を貫いて馳せ来り、「鬼神の如く申しつる桃井が勢をこそ、我等、僅かの三百余騎にて夜討に寄せて、若干の御敵どもを討ち取つて候へ。」とて、仮名実名、事新しくことごとしげに名乗り申せば、大将鹿草出羽守を始めとして、国々の軍勢に至るまで、「あはれ、大剛の者どもかな。この人々なくば、いかでか我等が会稽の恥をばすすがまし。」と、感ぜぬ人もなかりけり。
後に生け捕りの敵どもが委しく語るを聞きてこそ、「さては、降人に出でたる不覚の人どもが、倒るる処に土を掴む{*14}風情をしたりけるよ。」とて、かへつて憎み笑はれける。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇豊浦大臣 蘇我蝦夷。」「〇中臣鎌子 藤原鎌足。」とある。
2:底本は、「面々(めん(二字以上の繰り返し記号))申し合はされけり。」。『太平記 五』(1988年)に従い補い、改めた。
3:底本は、「南海(なんかい)の端(はし)に添うて」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
4:底本は、「出でられけるが、」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
5:底本頭注に、「間食の料。食事と食事との間に食ふ物。お八ツ、茶菓子などを云ふ。」とある。
6:底本は、「憑みぞ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。底本頭注に、「〇佐殿 足利左兵衛佐直冬。」とある。
7:底本は、「帰るべしとは覚(おぼ)しそ。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
8:底本は、「これへおはしたるならん。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
9:底本は、「森にある」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
10:底本頭注に、「〇治部大輔 氏冬。」「〇仁木弾正少弼 頼勝。」とある。
11:底本は、「越ゆる事を得ず。」。『太平記 五』(1988年)に従い改め、補った。
12:底本は、「義尹(よしたか)」。底本頭注に、「頼章の子。」とある。
13:底本は、「馳せ付(つ)けける」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
14:底本頭注に、「転んでも唯は起きぬといふのに同じで利欲に耽る譬。」とある。
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