九州探題下向の事 附 李将軍陣中に女を禁ずる事
筑紫には、少弐、大友以下の将軍方の勢ども、菊池に追ひすゑられて、已に又、九州、宮方の一統になりぬと見えければ、「探題を下して、少弐、大友に力を合はせでは叶ふまじ。」とて、尾張大夫入道の子息、左京大夫氏経を、九州の探題になしてぞ下されける。左京大夫、先づ兵庫に下つて、四国、中国の勢を催しけれども、附き従ふ勢もなかりければ、「さりとては、道より引き返すべきにあらず。」とて、僅かに二百四、五十騎の勢にて、已に纜を解きけるに、左京大夫の屋形船を始めとして、士卒の小船どもに至るまで、傾城を十人二十人載せぬ船はなかりけり。
磯に立ち並んでこれを見物しける者どもの中に、ちと小賢しげなる遁世者のありけるが、かたへの人々に向つて申しけるは、「筑紫九箇国の大敵を亡ぼさんとて、討手の大将を承る程の人の、これほど物を知らでは、何としてか大功を成すべき。それ、大敵に向つて陣を張り、戦ひを決せんとする時、兵気といふ事あり。この兵気、敵の上に覆ひて立つ時は、戦ひ必ず勝つ事を得。もし陣中に女多く交じはつてある時は、陰気、陽気を消す故に、兵気、かつて立ち上がらず。兵気立たざれば、たとひ大勢なりといへども、勝つことを得ずといへり。
「されば、昔、覇陵の李将軍{*1}といひける大将、敵国に赴きて陣を張り、旅をそろへて単于と戦ひを決せんとしけるに、敵、僅かに三万余騎、御方はこれに十倍せり。兵気、定めて敵の上に覆ふらんと思ひて、李将軍、まづ高山の上に打ち上がり、両方の陣を見るに、御方の陣に上がらんとする兵気、陰の気に押されて、立たんとすれども立ち得ず。李将軍、つらつらこれを案ずるに、『いかさま、これは我が方の陣に、女交じはつて隠れ居たればこそ、かやうにはあるらめ。』と推して、陣中を探すに、果たして陣中に女隠れて、三千余人交じはり居たり。『さればこそこれ故に兵気は上がらざりけり。』とて、悉くこの女を捕らへて、或いは水に沈め、或いは追ひ失つて、後又、高き山に打ち上つて御方の陣を見るに、兵気盛んに立ちて、敵の上に覆へり。その後、兵を進めて闘ひを決するに、敵、四方に逃げ散りて、勝つ事を一時に得しかば、李将軍といはれて、武功、天下に聞こえたり。
「智ある大将は、かやうにこそあるに、大敵の国に臨む人の、兵をば次にして、先づ女を先立て給ふ事、心得られず。」と難じ申しけるが、果たして幾程もなく、高崎城にもこらへず、浅ましき体にて上洛し給ひしが、面目なくや思はれけん、尼崎にて出家して、諸国流浪の世捨人となりにけり。
菊池大友軍の事
「左京大夫、已に大友が館に著きぬ。」と聞こえければ、菊池肥後守武光、「敵に勢の附かぬ先に打ち散らせ。」とて、菊池彦次郎、城越前守、宇都宮、岩野、鹿子木民部大輔{*2}、下田帯刀以下、勝れたる兵五千余騎を差し添へて、探題左京大夫を攻めんために、九月二十三日、豊後国へ発向す。
探題左京大夫、これを聞きて、「そもそも我、九州静謐のために下されたるものが、敵の城へ寄せずして、かへつて敵に寄せられたりと京都に聞こえんずること、まづ武略の足らざるに相似たり。されば、敵を城にて相待つまでもあるまじ。路次に馳せ向つて戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未だ幼稚にて今年十一歳になりけるを大将にて、太宰少弐舎弟筑後二郎、同新左衛門尉、宗像大宮司、松浦一党、都合その勢七千余騎にて、筑前国長者原といふ所に馳せ向つて、路を遮つてぞ待ち懸けたる。
同二十七日に、菊池彦二郎、五千余騎を二手に作り、長者原へ押し寄せて戦ひけるに、岩野、鹿子木将監、下田帯刀已下、宗徒の勇士三百余騎討たれて、その日の大将菊池彦次郎、三所まで疵を被りければ、宮方の軍勢、已に二十余町引き退く。「すはや、打ち負けぬ。」と見えける処に、城越前守五百余騎、入り替はつて戦ひけるに、少弐筑後二郎、同新左衛門尉、二人共に一所にて討たれぬ。その外、松浦、宗像大宮司が一族、若党四百余人討たれにければ、探題、少弐、大友、二度目の軍に打ち負けて、皆散り散りになりにけり。
菊池、已に手合はせの軍に打ち勝ちしかば、「探題の勇威も恐るるに足らず。」と侮りて、菊池肥後守武光、新手の兵三千余騎を率して、舎弟彦次郎が勢に馳せ加はつて、豊後府へ発向す。これまでも猶、探題、少弐、大友、松浦、宗像が勢は七千余騎ありけるが、菊池に気を呑まれて、懸け合ひの合戦、叶ふまじとや思ひけん、探題と大友とは豊後の高崎城に引き篭り、太宰少弐は岡城に楯篭り、大宮司は宗像城に篭つて、嶮岨を命に憑みければ、菊池は、豊後府に陣を取り、三方の敵を物ともせず、三つの城の中を押し隔てて、今年は已に三年まで、遠攻めにこそしたりけれ。
そもそも少弐、大友は、大勢にて城に篭り、菊池は小勢にてこれを囲む。菊池が兵、必ずしも皆剛なるべからず、少弐、大友が勢、必ずしも皆臆病なるべきにあらず。唯、士卒の剛臆は大将の心による故に、九国はかやうになりにけるなり。
畠山兄弟修禅寺城に楯篭る事 附 遊佐入道の事
筑紫には、宮方蜂起すといへども、東国は程なく静まりぬ。
去年より畠山入道道誓、舎弟尾張守義深、伊豆の修禅寺に楯篭つて、東八箇国の勢と戦ひけるが、兵粮尽きて、落ち方もなかりければ、皆城中にて討死せんとす。左馬頭殿より使者を以て、先非を悔いて子孫を思はば、頚を延べて降参すべきよし仰せられけるを、誠ぞと信じて、道誓は禅僧になり、舎弟尾張守は、伊豆国の守護職還補の御教書を賜ひて、九月十日、降参したりけるが、道誓は{*3}伊豆の府に居て、まづ舎弟尾張守を鎌倉左馬頭のおはする箱根の陣へぞ参らせける。「旧好ある人は万死を出でて、二度見参に入ることの嬉しさよ。」などいひて一献を勧め、この程情なくあたりつる傍輩は、いつしか媚びをへつらひて、言を卑しくし礼を厚くして、頻りに追従をしける間、門前に鞍置き馬の立ち止む隙もなく、座上に酒肴を置き連ねぬ時もなかりけり。
かくて四、五日経て後、九月十八日の夜、稲生平次、ひそかに来つて道誓にささやきけるは、「降参御免の事は、元来、出だし抜かるる事に候へば、明日討手を向けらるべきにて候なる。実にも、聞くに合はせて豊島因幡守、俄に陣を取り替へて、道を差し塞ぐ体に見えて候。今夜、急ぎいづくへも落ちさせ給ふべし。」とぞ告げたりける。道誓、聞きもあへず、舎弟式部大輔に屹と目くばせしけるが、かりそめに出づるよしにて、中間一人に太刀持たせ、兄弟二人かちにて{*4}、その夜まづ、藤沢の道場までぞ落ちたりける。上人、かひがひしく馬二匹、時衆二人相添へて、夜昼の境もなく馬に鞭を進めて上洛しけるをば、知る人、更になかりけり。
舎弟尾張守義深は、箱根の御陣にありけるが、明けの夜、或る時衆の「かかる事。」と告げけるに驚きて、「さては、我もいづくへか落ちなまし。」と案ずれども、東西南北皆道塞がりて、落つべき方もなかりければ、結城中務大輔が陣屋に来つて、平に憑むべき由をぞ宣ひける。これを隠さんずる事は、至極の難儀なれども、弓矢取る身の習ひ、「人に憑まれて、叶はじといふ事やあるべき。」と思ひければ、長唐櫃の底に穴をあけて気を出だし、その櫃の中に伏させて、数十合舁き連ねたる鎧唐櫃のあとにたて、わざと鎌倉殿の御馬廻りに供奉して、尾張守をば夜に紛れて藤沢の道場へぞ送りける。命ほど惜しむべきものはなかりけり。この人、遂には御免ありて、越前の守護に補せられ、国の成敗穏やかにて、土民を安んぜしかば、鰐の淵を去り、蝗の境を出づるばかりなり{*5}。
遊佐入道性阿は、主の落ちらるる粧ひをやがて知りたりけれども、暫く人にあひしらひて、主をいづくへも落ち延びさせんために、少しも騒ぎたる気色を見せず。碁、双六、十服茶など飲みて、さりげなき体にて笑ひ戯れて居たりければ、郎従どもも外様の人も、思ひ寄るべき様なかりけれども、遂に隠るべき事ならねば、「畠山兄弟、落ちたり。」と沙汰する程こそありけれ、「やがて討手を向けらる。」と聞こえければ、遊佐入道は、禅僧の衣を著て、唯一人京を志してぞ落ち行きける。とかくして湯本まで落ちたりけるが、行き合ふ人に口脇なる疵を隠さんために、袖にて口覆ひして過ぎけるを、見る人中々怪しめて、帽子を脱がせ、袖を引き退けける間、口脇の疵、隠れなく顕はれて、遁るべき様なかりければ、宿屋の中門に走り上つて、自ら喉笛掻き放ち、返す刀に腹切つて、袈裟引き被きて死ににけり。
江戸修理亮は、竜口にて生け捕られて斬られぬ。その外、ここに隠れ、かしこに落ち行きける郎従ども六十余人、或いは捜し出されて斬られ、或いは追つかけられ腹を切る。目も当てられぬ有様なり。
畠山入道兄弟、甲斐なき命助かりて、七條の道場へ夜半ばかりに落ちつきたりけるを、聖、二、三日いたはり奉りて、道の案内者少々相添へて、行路の助けなど様々に用意して、南方へぞ送られける。道誓、暫く宇知郡の在家に立ち寄つて、「楠が方へ降参の綸旨を申してたび候へ。」と宣ひ遣はされたりけれども、楠、さしも許容の分なかりければ、宇知郡にも隠れ得ず、都へ立ち帰るべき方もなし。南都山城脇辺に、とある禅院律院、或いは山賤の柴の庵、賤が伏せ屋の寂しきに、袂の露を片敷きて、夜を重ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬばかりにて、朝三暮四{*6}の助けに心ある人もがなと身を苦しめたる有様、聞に耳すさまじく、見るに目もあてられず。幾程もなく、兄弟共にはかなくなりけるこそあはれなれ。
「人間の栄耀は、風前の塵。」と白居易が作り、「富貴は草頭の露。」と杜甫が作りしも理かな。この人々、去々年の春は、三十万騎が大将として南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇ぎて、靡かぬ草木もなかりしに、いつしか三年を過ぎざるに、忽ち生き恥を曝して敵陣の境にさまよひぬる事、更に只事とはおぼえず。この人に出だし抜かれ討たれし新田左兵衛佐義興、怨霊となつて吉野の御廟へ参りたりけるが、「畠山をば義興が手にかけて、生きながら軍門に恥を曝さすべし。」と奏し申しける由、先立つて人の夢に見て、天下に披露ありしも、誤りにてはなかりけりと、今こそ思ひ知られたれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「漢の李広のこと。」とある。
2:底本頭注に、「〇菊池彦次郎 武義。」「〇鹿子木民部大輔 貞員。」とある。
3:底本は、「道誓が」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本は、「徒歩(かち)て、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇鰐の淵を去り 韓文三十六に『今与鰐魚約、尽三日、其率醜類、南徙于海、以避天子之命。』。」「〇蝗の境を出づる 後漢書列伝に『魯恭字仲康、扶風平陵人。肅宗時、拝中牟令。専以徳化為理、不任刑法。郡国螟傷稼、犬牙縁界不入中牟。』」とある。
6:底本頭注に、「〇道路に袖を云々 乞食しないばかりで。」「〇朝三暮四 列子に見ゆ。元来は人を愚弄することだがこゝは単に食物を与へることを云ふ。」とある。
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