細川相模守討死の事 附 西長尾軍の事

 讃岐には、細川相模守清氏と細川右馬頭頼之と数月戦ひけるが、清氏、遂に討たれて、四国、事ゆゑなく静まりにけり。その軍の様を伝へ聞くに、相模守、「四国を討ち平らげて、今一度都を傾けて、将軍を亡ぼし奉らん。」と企て、境浦より船に乗つて讃岐へ渡ると聞こえしかば、相模守が従兄弟の兵部大輔、淡路国の勢を率して三百余騎にて馳せつく。その弟掃部助{*1}、讃岐国の勢を相催して、五百余騎にて馳せ加はる。小笠原宮内大輔、阿波国の勢を率して、三百余騎にて馳せつきける間、清氏の勢は、程なく五千余騎になりにけり。
 その頃、右馬頭頼之は、山陽道の蜂起を鎮めんとて、備中国に居たりけるが、この事を聞きて、備中備前両国の勢千余騎を率し、讃岐国へ押し渡る。この時もし相模守、敵の船より上がらんずる処へ馳せ向つて戦はば、一戦も利あるまじかりしを、右馬頭、飽くまで心に智謀ありて、機変、時と共に消息する人なりければ、かねて母儀の禅尼を以て相模守のもとへ言ひ遣りけるは、「将軍、群少の讒佞を正されず、貴方、科なくして刑罰に向かはせ給ひし時、陳謝に詞なくして寇讐に恨みありし事、頼之、尤もその理に服し候ひき。さりながら、故左大臣{*2}殿も、仁木、細川の両家を股肱として、大樹累葉の九功を光栄すべしとこそ仰せおかれ候ひしに、一家のよしみを離れて敵に降り、多年の忠を捨て戦ひを致され候はん事、亡魂の恨み、苔の下まで深く、不義の譏り、世の末までも朽つべからず。頼之、苟くもこの理を存ずる故に、全く貴方と合戦を致すべき志を廻らさず。往んじを咎めずと申す事候へば、御憤り、今はこれまでにてこそ候へ。まげて御方へ御参り候へ。御分国已下、悉く日頃に替はらず申し沙汰すべきにて候。もし又、それも御意に叶はで、御本意を天下の反覆に達せんと思し召され候はば、頼之、力なく四国を捨てて備中へ罷り返るべく候。」と、言を和らげ礼を厚くして、頻りに和睦の儀を請はれけるを、相模守、心浅く信じて、問答に日数を経ける間に、右馬頭、中国の勢を待ち調へ、城郭を堅く拵へて、その後は音信もなかりけり。
 相模守の陣は白峯の麓、右馬頭の城は歌津なれば、そのあはひ、僅かに二里なり。「寄せやする。待つてや戦ふ。」と、互に時を伺ひて数日を送りける程に、右馬頭の勢、大略遠国の者どもなれば、兵粮につまりて窮困す。「かくては右馬頭は、讃岐国にはこらへじ。」と見えけるほどに、結句、備前の飽浦薩摩権守信胤、宮方になつて海上に押し浮かめ、小笠原美濃守、相模守に同心して、渡海の路を差し塞ぎける間、右馬頭の兵は日々に減じて落ち行き、相模守の勢は国々に聞こえておびただし。唯、魏の将司馬仲達が、蜀の討手に向つて、戦はで勝つ事を得たりけん、その謀りごとに相似たり。
 七月二十三日の朝、右馬頭、帷帳の中より出でて、新開遠江守真行を近づけて宣ひけるは、「当国両陣の体を見るに、敵軍は日々にまさり、御方は漸々に減ず。かくて猶数日を送らば、合戦、難儀に及びぬとおぼゆる。これに依つて事をはかるに、宮方の大将に中院源少将といふ人、西長尾といふ所に城を構へておはすなる。この勢を差し向けて攻むべき勢を見せば、相模守、定めて勢を差し分けて城へ入るべし。その時、御方の勢、城を攻めんずる体にて向ひ城を取つて、夜に入らば篝を多く焼き捨てて異道より馳せ帰り、やがて相模守が城へ押し寄せ、頼之、搦手に廻りて、まづ小勢を出だし、敵を欺くほどならば、相模守、たとひ一騎なりとも駆け出でて戦はずといふ事、あるべからず。これ、一挙に大敵を亡ぼす謀りごとなるべし。」とて、新開遠江守に四国中国の兵五百余騎を相添へ、路次の在家に火をかけて、西長尾へ向けられける。
 案のごとく{*3}相模守、これを見て、「敵は、西長尾城を攻め落として、後ろへ廻らんと巧みけるぞ。中院殿に合力せでは叶ふまじ。」とて、舎弟左馬助、従兄弟の掃部助を両大将として、千余騎の勢を西長尾城へ差し向けらる。新開、元来、城を攻めんずるためならねば、わざと日を暮らさんと、足軽少々差し向けて、城の麓なる在家所々焼き払つて、向ひ陣をぞ取りたりける。城は尚大勢なれば、「あはれ、新開が寄せて攻めよかし。手負少々射出だして後、一度にばつと駆け出でて、一人も残らず討ち留めん。」とぞ勇みける。
 夜、已に更けければ、新開、向ひ陣に篝を多く焼き残して、山を越ゆる直道のありけるより引き返して、相模守の城の前、白峯の麓へ押し寄する。かねて定めたる相図なれば、同じき二十四日の辰の刻に、細川右馬頭、五百余騎にて搦手へ廻り、二手に分かれて鬨の声をぞ挙げたりける。この城、元来、鳥も翔りがたき程に拵へたれば、寄せ手、たとひ如何なる大勢なりとも、十日二十日が中には、たやすく攻め落とすべき城ならず。その上新開、西長尾より引き返しぬと見えば、左馬助、掃部助、やがて馳せ帰つて寄せ手を追ひ払はんこと、かへつて城方の利になるべかりけるを、相模守は、いつも己が武勇の人に超えたるを憑みて、軍立て、余りに大はやりなる人なりければ、寄せ手の旗の手を見ると等しく、二の城戸を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷の小袖引きたをりて、鎧ばかりを取つて肩に投げ懸けて、馬上にて上帯締めて、唯一騎駆け出で給へば、相従ふ兵三十余騎も、或いはほほあてをして未だ兜をも著ず、或いは篭手を差して、未だ鎧を著ず、真先に包み連れたる敵千余騎が中へ破つて入る。「あはれ、剛の者や。」とは見えながら{*4}、片側破りの猪武者、をこがましくぞ見えたりける。
 実にも相模守、敵を物とも思はれざりけるも理かな。寄せ手千余騎の兵ども、相模守一騎に駆け分けられて、魚鱗にも進まず、鶴翼にも囲み得ず、ここの塚の上、かしこの岡に打ち上りて、馬人共に辟易せり。相模守は、鞍の前輪に引きつけてねぢ頚にせられける野木備前次郎、柿原孫四郎、二人が首を太刀の鋒に貫きて差し挙げ、「唐土天竺鬼海大元の事は、国遠ければ未だ知らず。吾が朝秋津島の中に生まれて、清氏に勝る手柄の者ありとは、誰もやはいふ。敵も他人にあらず。きたなく軍して笑はるな。」と恥ぢしめて、唯一騎、猶大勢の中へ駆け入り給ふ。飽くまで馬強なる打物の達者が、逃ぐる敵を追ひ立て追ひ立て切つて落とせば、その鋒に廻る者、或いは馬と共に尻居に打ち据ゑられ、或いは兜の鉢を胸板まで破りつけられ、深泥、死骸に地を替へたり{*5}。
 ここに、備中国の住人陶山三郎と備前国の住人伊賀掃部助と二騎、田の中なる細道をしづしづと引きけるを、相模守、追ひつきて切らんと、諸鐙を合はせて攻められける処に、陶山が中間、そばなる溝に下り立つて、相模守の乗り給へる鬼鹿毛といふ馬の草脇をぞ突いたりける。この馬、さしもの駿足なりけれども、時の運にや引かれけん、一足も更に動かず、すくみて地にぞ立ちたりける。相模守は、近づきて敵の馬を奪はんと、手負ひたる体にて馬手に下り立ち、太刀をさかさまに突て立たれたりけるを、真壁孫四郎、馳せ寄せ、一太刀打つて当て倒さんとする処に、相模守、走り寄つて、真壁を馬より引き落とし、「ねぢ頚にやする。人飛礫にや打つ。」と思案したる様にて、宙に差し上げてぞ立たれたる。伊賀掃部助高光は、駆け合はする敵二騎切つて落とし、鎧に余る血を笠印にて押し拭ひ、「いづくにか相模殿のおはすらん。」と、東西に目を配る処に、真壁孫四郎を宙に提げながら、その馬に乗らんとする敵あり。
 「あな、おびただし。凡夫とは見えず。これは、いかさま、相模殿にてぞおはすらん。これこそ願ふ処の幸ひよ。」と思ひければ、伊賀掃部助、畠をすぢかひに馬を真つしぐらに馳せかけて、むずと組んで引きかづく。相模守、真壁をば右の手に掻い掴んで投げ棄て、掃部助を射向の袖の下に押さへて頚を掻かんと、上帯延びて後ろに廻れる腰の刀をひき廻されける処に、掃部助、心早き者なりければ、組むと等しく抜きたりける刀にて、相模守の鎧の草摺はねあげ、上げ様に三刀刺す。刺されて弱ればはね返して、おさへて首をぞ取つたりける。さしもの猛将勇士なりしかども、運尽きて討たるるを知る人、更になかりしかば、続いて助くる兵もなし。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長と討死をしける外は、一所にて討死する御方もなし。その身は深田の泥の土にまみれて、首は敵の鋒にあり。唯、元暦の古、木曽義仲が粟津原にて討たれ、暦応元年の秋の初め、新田左中将義貞{*6}の足羽の縄手にて討たれたりし二人の体に異ならず。
 西長尾城へ向けられたりつる左馬助、二十四日の夜明けて後、新開が引き返したるを見て、「これは、いかさま、相模殿御陣の勢を外へ分けさせて、差し違へて城へ寄せんとたばかりけるぞ。軍、今は定めて始まりぬらん。馳せ返つて戦へ。」とて、諸鐙に鞭をそへて、千里を一足にと馳せ返りたまへば、新開、道に待ち受けて、難所に引き懸けて平野に開き合はせ、入れ替へ入れ替へ戦ひたり。互に討ちつ討たれつ、東西に地を替へ、南北に逢うつ別れつ、二時ばかり戦つて、新開、遂に懸け負けければ、左馬助、掃部助兄弟、勝ち鬨三声揚げさせて、気色ばうたる体にて白峯城へ帰り給ふ。
 かかる処に、笠印かなぐり捨てて、袖、兜に矢少々射つけられたる落武者ども二、三十騎、道に行き逢ひたり。後に追ひつきて、「軍の様、何とありけるぞ。」と問ひ給へば、皆泣き声にて、「早、相模殿は討たれさせ給ひて候なり。」とぞ答へける。「こは如何に。」とて、城を遥かに見上げたれば、敵、早入り替はりぬとおぼえて、見ざりし旗の紋ども、木戸、櫓の上に悠揚す{*7}。重ねて戦はんとするに力なく、楯篭らんとするに城なければ、左馬助、掃部助、落ち行く勢を引き具して、淡路国へぞ落ちられける。
 その国に志ありし兵ども、この事を聞きて、いつしか皆心替はりしければ、淡路にも尚たまり得ず、小舟一艘に取り乗つて、和泉国へぞ落ちられける。これのみならず、西長尾城も攻められぬ前に落ちしかば、四国は時の間に静まりて、細川右馬頭にぞ靡き従ひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇兵部大輔 氏春。」「〇掃部助 信氏。」とある。
 2:底本頭注に、「尊氏を指す。」とある。
 3:底本は、「案(あん)のごどく」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 4:底本は、「見ながら、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「死屍が地上に充満した。」とある。
 6:底本は、「暦応(りやくおう)二年の秋の初め、新田(につた)中将義貞」。底本頭注及び『太平記 五』(1988年)本文及び頭注に従い改め、補った。
 7:底本は、「幽揚(いうやう)す。」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。