和田楠箕浦次郎左衛門と軍の事
南方の敵軍和田、楠も、相模守にかねて相図を定めて、同時に合戦を始めんと議したりけるが、七月二十四日、相模守討たれて、「四国、中国は大略、細川右馬頭頼之に靡き従ひぬ。」と聞こえければ、日頃の支度相違して、気を損じ色を失ひてぞ居たりける。「さもあれ、かやうにていたづらに日を送らば、敵はいよいよ勝つに乗つて、諸国の御方、降人になる者ありぬとおぼゆれば、一軍して国々の宮方に気を直させん。」とて、和田、楠、その勢八百余騎を率し、野伏六千余人、神崎の橋詰めへ打ち臨む。
この頃、摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道道誉が持ちたりければ、その身は京都にありながら、箕浦次郎左衛門{*1}に勢百四、五十騎附けて、国の守護代にぞ置きたりける。催促の国人取り合はせて、その勢僅かに五百余騎、神崎の橋二、三間焼き落として、「敵、河を渡さば、河中にて皆射落とさん。」と、鏃をそろへて待ち懸けたり。
和田、楠、わざと敵をたばからんために、神崎の橋詰めと株瀬と、二箇所に打ち向つて控へたれば、「ここを渡させじ。」と、箕浦弥次郎、同四郎左衛門、塩冶六郎左衛門、多賀将監、後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は、株瀬へ馳せ向ふ。守護代箕浦次郎左衛門、伊丹大和守、河原林弾正左衛門、芥河右馬允、中白一揆三百余騎は、神崎の橋詰めへ打ち臨む。橋桁は、元来、焼き落としたり。株瀬は水深し。和田、楠が兵ども、たとひ弥猛に思ふとも、渡すべしとは見えざりけり。
八月十六日{*2}の夜半ばかりに、和田、楠、元の陣に尚控へたる体を見せんために、殊更篝を多く焼き続けさせて、これより二十余町上なる三国の渡りより打ち渡つて、小屋野、富松、河原林へ勢を差し廻して、敵を河へ追ひはめんと取り篭めたり。京勢は、これを夢にも知らねば、いたづらに河向うに敵未だ控へたりと身繕ひして居たる処に、小屋野、富松に当たつて、所々に火燃え出でて、煙の下に旗の手あまた見えたり。これまでも尚、敵、河を越えたりとは思ひも寄らず、「焼亡は御方の軍勢どもの手過ちにてぞあるらん。」と油断して、明け行くままに後ろを遥かに見渡したれば、十余箇所に叢雲立つて控へたる勢の旗どもは、皆菊水の紋なり。
「さては敵、はや、河を渡してけり。平場の駆け合ひは叶ふまじ。城へ引き篭つて戦へ。」とて、浄光寺の要害へ引き返さんとすれば、敵、早、入り替はりたりとおぼえて、勝ち鬨を作る声、浄光寺の内に聞こえたり。これを見て、中白一揆の勢三百余騎は、国人なれば案内を知つて、いつの間にか落ち失せけん、一騎も残り留まらず。唯、守護の家人、僅か五十余騎、思ひ切つたる体に見えて、二箇所に控へて居たりける。両所に控へたる勢、一所に打ち寄らんとしけるが、敵の大勢に、早、中を隔てられて叶はざりければ、箕浦次郎左衛門、東を差して落ち行くに、両方深田なる細堤を、敵、立ち切つて、これを討ち留めんと行く先を遮り、道を横切つて取り篭むる事、度々に及べり。されども箕浦、駆け破つては通り、取つて返しては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門は討たれぬ。これを見て、芥河右馬允、すげなう引き分かれて落ちて行かんとしけるを、「日頃の口には似ぬ者かな。」と箕浦に詞をかけられ、一所に打ち寄つて相伴ふ。箕浦、これを案内者にて、数箇所の敵の中を遁れ出で、都を指してぞ上りける。
下の手に控へたる者どもは、落ち方を失うて茫然として居たるを、木村兵庫允泰則、「兵どもの掟、面々存知{*3}の前なれども、戦ひ難儀なる時、死なんとすれば生き、生きんとすれば死ぬるものにて候ぞ。唯、幾度も敵のなき方へ引かで、敵の大勢控へたらん所へ駆け入つて戦はんに、討たれば{*4}元来の儀、討たれずば駆け抜けて、西を指して落ちて行かんに、敵もさすが、命を捨ててはさのみ長追ひをばし候はんや。いふ処、実にもと思はば、泰則に続けや、人々。」といふままに、浄光寺前に百騎ばかり控へたる敵の方へ、馬を引つ返して歩ませ行く。
敵、これを見て、「これは、いかさま、降人に出づる者か。」と、少し猶予して控へたる処に、かち立ちなる石津助五郎行泰に矢二筋三筋射させて、敵の馬の足、ちとしどろになれば、三騎の者ども、「をつ。」と喚いて駆け入るに、百騎ばかり控へたる敵、颯と分かれ靡きて、敢へてこれに当たらんとせず。唯、射手を進めて射させける程に、箕浦弥次郎、討たれぬ。同四郎左衛門、深手を負ひて、田の中に伏したり。塩冶六郎左衛門、木村兵庫も、馬の平頚草脇二所射させて、深田のあぜに下り立つたり。「すはや、討たれぬ。」と見えけるが、木村兵庫、放れ馬のありけるに打ち乗つて、かちになつたる塩冶を、馬の上より手を引いて、尼崎へ落ちて行く。敵、後に附きても追はざりければ、道場の内に一夜隠れ居て、明日の夜、京へぞ上りける。
和田、楠等、唯一軍に摂州の敵を追ひ落として、勝つに乗るといへども、「赤松判官{*5}、信濃彦五郎兄弟、猶兵庫の北なる多田部城に篭つて、兵庫湊川を管領す。」と聞こえければ、九月十六日、石堂右馬頭、和田、楠、三千余騎にて兵庫湊川へ押し寄せ、一宇も残らず焼き払ふ。この時、赤松判官兄弟は、多田部、山路、二箇所の城に篭つて、敵懸からば、ここにて利をせんと待ちかけけるが、楠、いかが思ひけん、やがて兵庫より引き返しければ、赤松、出で合ひに及ばず。野伏少々城より出だして、遠矢射懸けたるばかりにて、はかばかしき軍はなかりけり。
都には、同じき九月晦日、改元あつて貞治と号す。これは、「南方の蜂起、さてもや静まる。」と諸卿、申し合はされし故なり。実にも、改元のしるしにや、「京都より、武家の執事尾張大夫入道、大勢を討手に下す。」と聞こえければ、和田、楠、又尼崎、西宮の陣を引きて、河内国へ帰りぬ。これを聞きて、山名伊豆守時氏が勢の、丹波の和久に居たりしも、因幡国へぞ引き返しける。
今年、天下已に同時に乱れて、宮方、眉を開きぬと見えけるが、程なく国々静まりけるも、天運の未だ至らぬ処とはいひながら、まづは細川相模守が楚忽の軍して、いひがひなく討死をせし故なり。
校訂者注
1:底本頭注に、「俊定。」とある。
2:底本は、「八月六十日」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
3:底本は、「存(ぞん)じ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本は、「討たるれば」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「光範。」とある。
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