大元軍の事

 昔、孔子、顔淵に謂つて曰く、「これを用ゐる時は則ち行ひ、これを捨つる時は則ち隠る。唯、我と汝とこれあるかな。」とほめ給ひけるを、傍にて聞きける子路、大きに怒つて曰く、「子、三軍を行ふ時は、則ち誰と共にせん。」と申しければ、孔子、重ねて子路を諌めて曰く、「暴虎憑河して死するとも悔いなからん者には、吾は与せじ。必ずや事に臨んで恐れ、謀りごとを好んで成さん者なり。」とぞ宣ひける。されば、古も今も、敵を滅ぼし国を奪ふ事、唯、猛く勇めるのみにあらず。かねては謀りごとを廻らし、智慮を先とするにあり。
 今、大宋国の四百州、一時に亡びて、蒙古に奪はれたる事も、西蕃の帝師が謀りごとを廻らせしによれり。その草創のよれる所を尋ぬれば、宋朝、世を治めて已に十六代、その亡びし時の帝をば幼帝とぞ申しける。この時、大元の国主老皇帝、その頃は未だ吐蕃の諸侯にてありけるが、「あはれ、如何にもして宋朝{*1}四百州、雲南万里、高麗の三韓に至るまで、残らずこれを討ち取らばや。」と思ふ心、骨髄に入つて止む時なし。
 或る時、かの老皇帝、この事を天に仰ぎ、少しまどろみ給ひける夢に、「宋朝の幼帝と大元の老皇帝と、楊子江を隔てて陣を張りて相対する事、日久し。時に楊子江、俄に水干て陸地となる。両陣の兵、已にあひ近づきて戦はんとする処に、幼帝は、その身化して勇猛忿迅の獅子となり、老皇帝は、形、俄に変じて白色柔和の羊となる。両方の兵、これを見て、弓をふせ戈を棄てて、「天下の勝負は、唯この獅子と羊との戦ひに在るべし。」と伺ひ見る処に、羊、獅子の怒れる形に恐れて、忽ちに地に倒る。時に羊、二つの角と一つの尾骨をつき折つて、天に昇りぬ。」とぞ見給ひける。
 老皇帝、夢醒めて後、心、更に悦ばず。「大きに不吉なる夢なり。」と思ひ給ひければ、夙に起きて、西蕃の帝師にこの夢を語り給ふ。帝師これを聞きて、心の中に夢を占ひて曰く、「羊といふ文字は、八点に王を書きて、懸け針を余せり。八点は角なり、懸け針は尾なり。羊、二つの角と一つの尾を失はば、王といふ字になるべし。これ、老皇帝、大元宋国高麗の国を合はせ保つて、天下に主たるべき瑞相なり。又、宋朝の幼帝、獅子になつて闘ひ怒ると見えけるも、自滅の相なり。獅子の身中に毒虫ありて、必ずその身を食ひ殺す。いかさま、幼帝の官軍の中に弐心ある者出で来て、戈をさかしまにする事あるべし。」と占ふ。夢の理明らかに、両方の吉凶を心に考へければ、「これ、大きなる吉夢なり。時を替へず兵を召されて宋国を攻めらるべし。」とぞ帝師、勧め申されける。
 老皇帝は、元来、帝師が才智を信じて、万事をこれが申すままに用ゐ給ひければ、重ねて吉凶の故を尋問に及ばず。大元七百州の兵、三百万騎の勢を催して、楊子江の北のほとりに打ち臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。大宋国の幼帝、この事を聞きたまひて、「さらば、討手を差し下せ。」とて、伯顔丞相を上将軍として百万騎、襄陽の守呂文煥を裨将軍として三十万騎、大金の賈似道、賈平相兄弟を副将軍として六十万騎を差し下さる。三軍の兵三百万騎、江南に打ち臨み、夜を日に継いで、楊子江を前に見下して、三箇所に陣をぞ取りたりける。
 中にも伯顔丞相、一陣に進みて、楊子江の南に控へたりけるが、大元の兵どもの、浮橋をかけ陣を張つたる体を見て、「謀りごとを廻らして戦はずんば、勝つ事を得難し。」と思ひければ、今の陣より六十里後ろに、高く嶮しき山を城に拵へて、四方の塀を、いかに打ち破るとも左右なく破られぬ様に高く塗らせて、内に数千軒の家を透間もなく作り並べ、櫓の上、矢間の蔭に人形を数千万立て置いて、或いは戈をさしまねき{*2}刃を交じへ、或いは太鼓を打ち弓を引いて、戦ひを致さんとする様に、風を以てしつらひ水を以て操りて、岩を切つたる細道に、唯、城戸一つ開けて、内に実の兵を二百余人留め置き、「敵、城へ寄せば、暫し戦ふ真似をして、防ぎかねたる体を見せよ。敵、勝つに乗つて城中へ攻め入らば、敵を皆内へおびき入れて後、同時に数千の家々に火をかけて、己が身ばかり隠して、掘つたる土の穴より遁れ出でて、敵を皆焼き殺すべし。」とぞ謀りける。
 さる程に、三百余箇所の浮橋を已に渡しすましてければ、大元の兵三百万騎、争ひ進んで橋を渡る。伯顔丞相、かねて謀りたる事なれば、矢軍ちとする真似して、暫くも支へず引いて行く。大元の兵、勝つに乗つて逃ぐるを追ふ事、甚だ急なり。宋国の兵、猶も偽りて引く体を敵に推せられじと、楯鉾、鎧兜を取り捨てて、堀溝に馬を乗り棄てて、我先にと逃げ走る。これをたばかるぞとも知らざりける羽衛{*3}斥候の兵、いたづらに命を軽んじて討死するも多かりけり。
 日、已に暮れければ、宋国の兵、城へ引き篭る真似をして、後ろなる深山へ隠れぬ。大元の兵は、敵の疲れたる弊えに乗つて、則ちこれを討たんと城の際までぞ攻めたりける。旗を進め、戈をさしまねきて、城を遥かに見上げたれば、櫓の上、塀の蔭に、兵、袖を連ねて並み居たりとは見えながら、鬨の声も幽かに、射出だす矢、楯をだにも徹さず。大元の将軍、これを見て、人形の木偶人どもに誠の人が少々相交じはりて防ぐ真似するとは思ひも寄らず。「敵は、今朝の軍に遠引きして、気疲れ勢尽きはてけるぞ。時を暫くも捨つべからず。攻めよや、兵ども。」と諌めののしりて、攻め鼓を打つて楯を進めければ、城中に少々残し置かれたる兵ども、暫くあつて火の燃え出づる様に家々に火をかけて、抜け穴より逃げ去りけり。
 木偶人、誠の兵ならねば、敵攻め入るとも防ぐ者なし。大元三百万騎の兵ども、勇み進んで二つともなき城戸より城の中へ込み入り、或いは偽つて棄て置きたる財宝を争ひて奪ひ合ひ、或いはたばかつて立て置きたる木人に向つて、剣をとり拉ぎ戈を靡かす処に、三万余家作り並べたる城中の家々より同時に火燃え出でて、煙、城に満ち、炎、四方に盛んなり。大元の兵ども、塀を上り越えて火を遁れんとすれば、取り附くべき便りもなく、橋もなし。攻め入りつる城戸より出でんとするに、煙に目くれて胆迷うて、いづくをその方ともおぼえず。唯、猛火の中に走り倒れて、大元の兵三百万人は、皆焼け死にけり。
 大元王は、多日の粉骨、いたづらに一時の籌策に破られ、大軍未だ帝都の戦ひを致さざる前に、三百万人まで亡びければ、「この事、今は叶ふまじかりけり。」と、気を屈して黙止されける処に、西蕃の帝師、大元王に謁して申しけるは、「大器は遅く成るといへり。大元国の天下、豈大器にあらずや。又、機巧は大真にあらず。成る事は微々にして、破るる事は大なり。今、宋国の節度使等が武略の体を聞くに、死を善道に守り、命を義路に軽んずるにあらず。唯、尺寸の謀りごとを以て大功の成らんことを意とするものなり。宋国の臣、ひとり智あつて、元朝の人、皆愚かならんや。我今、謀りごとを廻らさば、勝つ事を一戦の前に得つべし。君、益々志を天下の草創に懸け給へ。臣、須らく智謀を以て、大宋国の四百州を一日の中に傾くべし。」と申しければ、大元王、大きに悦んで、「公が謀りごとを以て、我もし大宋国を得ば、必ず公を上天の下、一人の上に貴んで、代々帝王の師と仰ぐべし。」とぞ約せられける。
 帝師、則ち形をかへ、身を窶して大宋国へ越え、江南の市に行きて、「あはれ、身貧しくして子多く持つたる人もがな。」と伺ひ見る処に、年六十有余なる翁の、一の剣を売りて肉饅頭を買ふあり。帝師、問うて曰く、「剣を売りて牛を買ふは、治まれる世の備へなり。牛を売りて剣を買ふは、乱れたる時の事なり。父老今、剣を売りて饅頭を買ふ。その用、何事ぞや。」
 老翁、答へて曰く、「我、かつて兵の凶器なる事を知らず。若かりし時、好んで兵書を学びき。智は性の嗜む処に出づるものなれば、呉氏、孫氏が秘する処の道、尉繚、李衛が難しとする処の術、一を挙げて占へば、則ち三を反して悟りき。然れば、居ながら三尺の雄剣をひつ提げて、立ち処に四海の乱れを治めん事、我に非ずば誰ぞやと、心を千戸万戸の侯に懸けて思ひしに、我盛んなりし程は世治まり国静かなりし間、武に於いて用ゐられず{*4}。今、天下まさに乱れて、剣士、尤も功を立つる時には、我、已に老衰して、その選びに当たらず。久しくこの江南の市のほとりに旅宿して、僅かに三人の男子を儲けたり。相如が破壁、風寒くして夜の衣短く、劉仲が乾鍋、薪尽きて朝の餐空し{*5}。唯、老驥の千里を思ふ心、未だ屈せざれども、飢鷹の一呼を待つ身となりぬ{*6}。故にこの剣を売りて、三子の飢ゑを助けんと欲するなり。」と、委しく身の上の疲れを侘びて、涙を流してぞ立つたりける。
 帝師、重ねて問うて曰く、「父老の詞を聞くに、三人の子供飢ゑて、公が百年の命、已に迫れり。我、三千両の金を持ちたり。願はくは、これを以て父老の身を買はん。父老何ぞ、とても幾程なき老後の身を売りて、行く末遥かなる子孫の富貴を欲せざるや。」と問ふに、老翁、眉を揚げ面を垂れて{*7}、「誠に公の詞の如く、我に三千両の金を与へられば、我、豈三子の飢ゑを助けて、幾程なき命を捨てざらんや。」とぞ悦びける。
 「さらば。」とて、帝師、則ち老翁の身を三千両の金に買ひ、大元へ帰りて後、先づ使者を宋国の帝都へ遣はして、「今度、楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯に誇れりと聞こゆる{*8}上将軍伯顔丞相、呂文煥等が事を、都に如何いひ沙汰する。」とぞ伺ひ聞かせける。使者、都に{*9}上りて家々にたたずみ、事の体、人の云ひ沙汰する趣、よくよく伺ひ聞きて、大元に帰り、帝師に向ひて語りけるは、「伯顔丞相、呂文煥等、大元の軍に討ち勝つて、武功、身に余れり。天下の士、これを重んずる事、上天の威に超えたり。『もしこの勢ひを以て世を傾けんと思はば、唯、掌を指すよりも易かるべし。古、安禄山が兵を引いて帝都を侵し奪ひしも、かかる折節にてこそあれ。』と恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。
 帝師、使者の語るを聞きて、「今は、かう。」と思ひければ、三千両の金に身を売つたりつる老翁を呼びて、彼が股の肉を切り裂きて、呂文煥、伯顔将軍、賈丞相三人が手跡を学んで叛逆籌策の文を書き、彼が骨のあはひに収めて、疵を癒してぞ持たせける。その文に書きけるは、「我等、已に大元の軍に打ち勝つて、士卒の附き従ふ事、数を知らず。天、已に時を与へたり。取らずんば、かへつて禍ひあるべし。然らば、早く士を引き、約をなして、帝都に赴かんと欲す。もし亡国の暗君を捨てて、有道の義臣に与せんとならば、戈をさかしまにする謀りごとを致すべし。」と書きて、宮中の警固に残し留められたる国々の兵の方へぞ遣はしける。
 敵を謀る手だて、かくの如くしたためて、帝師、重ねて老翁に向つて申しけるは、「汝、まづ帝都に上り、怪しげなる体にて宮中を伺ひ見るべし。さる程ならば、宮門を守る兵ども、汝を捕らへて嗷問すべし。たとひ水火の責めに逢ふとも、暫くは落つる{*10}事なかれ。倒懸、身を苦しめ、炮烙、骨を砕く時に至つて、『我は、伯顔将軍、賈丞相等が使として、謀叛与力の兵どもに事の仔細を相触れんために、帝都に赴きたる』由を白状して、『そのしるし、これなり。』とて、くだんの身の中に隠しける書を取り出だすべし。」とぞ教へける。かの老翁、已に三千両の金に身を売りし上は、命を惜しむべきにあらず。帝師が教へのままに謀叛催促の状を数十通、身の肉を割いて中に収め、帝都の宮門へぞ赴きける。忽ちに身を車裂きにせられ、骨を醢{*11}にせらるべきをも顧みず、千金に身をかへて五刑に赴く、人の親の子を思ふ道こそ哀れなれ。
 老翁、則ち帝都に上つて、わざと怪しげなる体に身を窶し、宮門を廻つて案内を見る由に振舞ひける間、守護の武士、これを捕らへて、上げつ下しつ責め問ふに、暫しは敢へて落ちず。嗷問、度重なつて、骨砕け筋断えぬと見えける時に、「我はこれ、伯顔将軍、呂文煥等が謀叛催促の使なり。」と白状して、股の肉の中より、宮中洛外諸侯の方へ約をなし賞を与へたる、数通の状をぞ取り出だしたりける。典獄の官、驚いてこの由を奏聞しければ、まづ使者の老翁を誅せられて、やがて伯顔将軍、賈丞相、呂文煥等が父子兄弟、三族の刑に行はれて、或いは罪なき諸侯、死を兵刃の下に賜はり、或いは功ありし旧臣、屍を獄門の前に曝せり。この事、速やかに楊子江の陣へ聞こえしかば、伯顔将軍、賈丞相、呂文煥等、頭を延べて罪なき由を陳じ申さんために、大元の戦ひを打ち捨てて都へ帰り上りけるが、国々の諸侯、道塞がりて通ぜざりける間、三人の将軍、空しく帝師が謀りごとに落とされて、所々にて討たれにけり。
 これより楊子江の陣には、敵を防ぐ兵一人もなければ、大元五百万騎の兵ども、押して都へ攻め上るに、敢へて遮るべき勢なければ、宋朝の幼帝、宮室を尽くし宗廟を捨てて、遂に南蛮国へ落ち給ふ。大元の老皇帝、やがて都に入り替はり給ひしかば、天下の諸侯、皆従ひ附き奉つて、大宋国四百州、忽ちに大元の世になりにけり。
 さしもいみじかりし大宋国、一時に傾きし事も、天運、図に当たる時とはいひながら、唯、帝師が謀りごとによれるものなり。今、細川相模守、無双の大力、世に超えたる勇士なりと聞こえしかども、細川右馬頭が尺寸の謀りごとに落とされ、一日の間に亡びぬる事、ひとへに宋朝の幼帝、帝師が謀りごとに相似たり。人として遠き慮り無き時は、必ず近き憂へ有りとは、かくの如き事をや申すべき。

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校訂者注
 1:底本は、「本朝(ほんてう)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 2:底本は、「麾(さしまね)ぎ」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 3:底本は、「謀(たばか)るぞとも」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。底本頭注に、「〇羽衛 禁中守護の兵。」とある。
 4:底本は、「用ひられず、」。
 5:底本頭注に、「〇相如 司馬相如。破壁は相如が資材乏しく舎には唯四壁が立つてゐたのみといふ故事。」「〇劉仲 漢の高祖の兄。これも貧窮の時があつたといふ故事。」とある。
 6:底本頭注に、「飢えた鷹が飼人の一呼ぶを今か今かと待つやうな身。」とある。
 7:底本頭注に、「一度は喜び一度は思案するさま。」とある。
 8:底本は、「聞ける」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 9:底本は、「使者(ししや)上りて」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 10:底本頭注に、「白状する。」とある。
 11:底本は、「醢(ひしほ)」。底本頭注に、「塩辛漬け。」とある。