芳賀兵衛入道軍の事
かくの如く近年は、敵になつたりつる人々は皆、降参して、貞治改元の後より、洛中、西国、静かなりといへども、東国に又、不慮の同士軍出来して、里民、樵蘇を楽しまず{*1}。
その事の起こりを尋ぬれば、この三、四年が先に、将軍兄弟の御中悪しくなり給ひて、合戦に及びし刻、上杉民部大輔{*2}、故高倉禅門の方にて、始めは上野国板鼻の合戦に、宇都宮に打ち負けて、後には薩埵山の軍に御方の負けをしたりしが、とかうして信濃国へ逃げ下り、「宮方になりて、猶この所存を遂げばや。」と、時を待つてぞ居たりける。上杉、かかる不義を致しけれども、鎌倉左馬頭基氏、幼少より上杉に抱き育てられたりし旧好、捨て難く思はれければ、別儀を以て先づ越後国の守護職を与へて、上杉をぞ呼び出だされける。
この時、芳賀兵衛入道禅可は、越後国の守護にてありけるが、「降参不忠の上杉に思ひ替へられ奉つて、忠賞恩補の国を召し放さるべき様やある。」とて、上杉と芳賀と越後国にて合戦に及ぶ事、数月なり。禅可、遂に打ち負けしかば、当国を上杉に奪はるるのみならず、一族若党、その数を知らず、落ち様に皆討たれにけり。禅可、これを怒つて、「あはれ、不思議もあつて世の中乱れよかし。上杉と一合戦して、この恨みを散ぜん。」と憤りけり{*3}。かかる処に、「上杉、已に左馬頭の執事になつて、鎌倉へ越ゆる。」と聞こえければ、禅可、「道に馳せ向つて戦はん。」とて、上野の板鼻に陣を取つてぞ待ちたりける。然れども上杉、上野国へも入らざる先に、左馬頭、宣ひけるは、「何ぞ我意に任せてかやうの狼籍を致すべき。所存あらば、追つて訴訟を致すべき処に、合戦の企て、奇怪の至りなり。所詮、退治を加ふべし。」とて、自ら大勢を率して、宇都宮へぞ寄せられける。
禅可、この事を聞きて、「さらば、鎌倉殿と先づ戦はん。」とて、我が身は宇都宮にありながら、嫡子伊賀守高貞、次男駿河守{*4}に八百余騎を差し添へて、武蔵国へぞ遣はしける。この勢、坂東路八十里を一夜に打つて、六月十七日辰の刻に、苦林野にぞ著きにける。小塚の上に打ち上がりて鎌倉殿の御陣を見渡せば、東には白旗一揆の勢五千余騎、甲冑の光を輝かして、明け残る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆の勢三千余騎、戟矛、勢ひすさまじくして、陰森たる冬枯れの林を見るに異ならず。中の手は左馬頭殿とおぼえて、二引両の旗一流れ、朝日に映じて飛揚せるその蔭に、左輔右弼きびしく、騎射馳突の兵ども、三千余騎にて控へたり。上より見越せば数百里に列なつて、坂東八箇国の勢ども、唯今馳せ参るとおぼえて、雲霞の如く見えたり。鳥雲の陣堅くして、逞卒、機鋭なれば、如何なる孫呉が術を得たりとも、千騎に足らぬ小勢にて懸け合はすべしとはおぼえず。
芳賀伊賀守、馬に打ち乗つて、母衣を引き繕ひて申しけるは、「平一揆、白旗一揆は、かねて通ずる仔細ありしかば、軍の勝負について、或いは敵ともなり、或いは{*5}御方ともなるべし。後にさがりて唯今馳せ参る勢は、たとひ何百万騎ありといふとも、物の用に立つべからず。家の安否、身の浮沈、唯一軍の中に定むべし。」と高声に呼ばはつて、前後に人なく東西に敵ありとも思はぬ気色にて、真先にこそ進んだれ。舎弟駿河守、これを見て、「軍門に君の命なし、戦場に兄の礼なし。今日の軍の先駆けは、我ならではおぼえぬものを。」と、嗚呼がましげに広言吐いて、兄より先に、つと駆け抜けて駆け入る上は、相従ふ兵ども八百余騎、誰かはこれに劣るべき。我先に戦はんと、魚鱗になつてぞ懸かりける。
左馬頭基氏、参然たる敵の勇鋭を見ながら、機を撓め給はず。相懸かりに馬をしづしづと歩ませ、事もなげに進まれたり。敵、鬨の声三度作つて、ちと擬議{*6}したる処に、天も落ち地も裂くるかとおぼゆるばかりに唯一声、鬨を作つて左右に颯と分かる。芳賀が八百余騎を東西より引つ包みて、弓手に相附け馬手に背けて、切つては落とされ、捲つつ捲られつ、半時ばかり戦つて、両陣互に地を替へ、南北に分かれてその後を顧みれば、原野血に染みて、草はさながら緑をかへ、人馬汗を流して、堀かねの池も血となる。
左馬頭は、芳賀が元の陣に取り上がり、芳賀は左馬頭の始めの陣に打ち上がりて、共にその兵を見るに、討たれたる者百余人、創を被る者、数を知らず。「さても、宗徒の者どもの中に、誰か討たれたる。」と尋ぬる処に、「駿河守殿こそ、鎌倉殿に切り落とされ給ふと見えつるが、召されて候ひし御馬の放れて候ひつる。いかさま、討たれさせ給ひてや候らん。」と申しければ、兄の伊賀守、流るる涙を汗と共に押し拭ひていひけるは、「唯二人、影の如く随ひて、死なば共にと思ひつる弟を目の前にて討たれ、その死骸、いづくにありとも見えず、さてあると云ふ事やあるべき。」とて、切り散らされたる母衣結び継ぎて、鎧ゆり直し、喚いてぞ駆け入りける。
鎌倉殿方にも、軍兵七十余人討たれたるのみならず、木戸兵庫助{*7}、両方引き分かれつる時、近づく敵に引き組んで、落ち重なる敵に討たれければ、これを聞き給ひて、鎌倉殿御眼、血をときたる如くになつて宣ひけるは、「この合戦に、必ず死なばもろともに死し、生きば同じく生きんと、深く契りし事なれば、命を惜しむべきにあらず。」とて、ささらの子の如く叩きなしたる太刀の歯本を小刀にて削り直し、打ち振つて、駆け足を出だし給へば、左右の兵ども三千余騎、大将の先に馳せ抜けて、一度に颯と懸かりあひ、追ひ廻し懸け違へ、喚き叫んで戦ふ声、さしも広き武蔵野に余るばかりぞ聞こえける。
大将左馬頭、余りに手繁く懸け立て懸け立て戦ひける程に、乗り給へる馬の三頭平頚、三太刀斬られて、犬居にどうとぞ{*8}伏したりける。これを大将と見知りたる敵多かりければ、懸け寄せ懸け寄せ、兜を打ち落とさんと後ろより廻る者あり、飛び下り飛び下りかち立ちになり、太刀を打ち背けて組み討ちにせんと、左右より懸かる敵もあり。されども左馬頭、元来力、人に勝れ、心飽くまで早くして、はだへ撓まず目まじろがず。黄石公が伝へし処、李道翁が授けし道、機にあたつて心とせし太刀ぎきなれば、或いは兜の鉢を真二つに打ち破り、引く太刀に廻る敵を切り据ゑ、或いは鎧の胴中を懸けず打ち切つて、余る太刀にては、左に懸かる敵を払はる。その刃に胸を冷やして、敵、敢へて近づかず。東西開け前後晴れていよいよ、「大将、馬に放れぬ。」と見知らぬ敵もなかりけり。
大高左馬助重成、遥かにこれを見て、急ぎ馳せ寄り、弓手に下り立つて、「あな、おびただしの唯今の御ふるまひ候や。昔の和泉、朝比奈{*9}も、これまではよも候はじ。」と、てきめんに褒め奉り、「早、この馬に召され候へ。」と申せば、左馬頭、悦んで馬の尻股にゆらりと飛び乗つて、鞍壺に直り様に、「平家の侍、後藤兵衛{*10}が主の馬に乗つて逃げたりしには、遥かに替はりたる振舞かな。」と。「唯今こそ誠に大高の名は相応したれ。」と、互にぞ褒め返されける。その後、左馬助は、放れ馬のありけるを取つて打ち乗り、所々に叢立ちたる御方の勢を相招き、又敵の中へ駆け入つて、時移るまでぞ戦ひける。互に人馬を休めて、両方へ颯と引き分かれたれば、又鎌倉殿の御陣は芳賀が陣となり、芳賀が陣は二度鎌倉殿の御陣となる。
芳賀伊賀守、御方の勢を見廻らして、「八郎が見えぬは。討たれたるやらん。」と、親の身なれば心元なげに申しけるを、馬の前なる中間、「放れ馬の数百匹走り散りたる中に、毛色、鞍具足を委しく見て候へば、黒月毛なる馬に連弱の鞦かけたるは、慥かに八郎殿召されたりつる御馬にて候。早、討たれさせ給ひぬとこそおぼえ候へ。」と申しければ、「さてその馬に、血や附きたる。」と問ふに、「いや、馬の頭に矢一筋立ちて見え候へども、鞍に血は候はず。」とぞ答へける。これを聞きて、さしも勇める伊賀守、涙を一目に浮かめて、「さてはこの者、幼稚なれば、生け捕られけり。軍、暫くも隙あらば、八郎、いかさま切られぬとおぼゆ。いざ、今一軍せん。」といひければ、岡本信濃守富高、聞きもあへず、につこと打ち笑ひて、「仔細候はじ。敵の大将を見知らぬ程こそ、葉武者に逢ひて組んで勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て下り立ちたりつる若武者は、慥かに鎌倉殿と見澄ましたり。鎧の毛をしるしにして、組み討ちに討ち奉らんずる事、何よりも安かるべし。」とて、敵に心安く紛れんと、笠印を取つて投げ捨て、時衆に最期の十念を受けて、思ひ切つたる機をぞ顕はしける。
左馬頭の御方に、岩松治部大輔{*11}は、よく慮りあつて、軍の変を計る人なりければ、「大将左馬頭殿の鎧の毛を、敵、いかさま見知りぬらん。」と推量して、「御大事に替はらん。」と思はれければ、我が今まで著給へる紺糸の鎧に、鎌倉殿の白糸の鎧を俄に著替へ奉りてぞ控へたる。暫くあつて、両陣又乱れ合ひて、入れ替へ入れ替へ戦ひける。岡本信濃守、白糸の鎧著たる岩松を、左馬頭殿ぞと目にかけて、組んで討たんと相近づく。岩松は又元来、左馬頭の命に代はらんと鎧を著替へし上は、なじかは命を惜しむべき。二人共にしづしづと馬を歩ませ寄せて、あはひ、已に草鹿のあづち{*12}だけになりける時、岩松が郎等金井新左衛門、岩松が馬の前に馳せ塞がつて、岡本と引き組み、馬よりどうと落ちけるが、互に宙にて刺し違へて、共に命を止めてけり。岩松は、左馬頭の命に代はらんと鎧を著かへ、金井は、岩松の命に代はつて討死す。主従共に、義を守つて節を重んずる忠貞、ありがたかるべき人々なり。
その外、命を軽んじ義を重んじて、ここにて勝負を決せんと、あひたがひにぞ戦ひける。さて、芳賀八郎は生け捕られたりけれども、幼稚の上、垂れ髪なりければ、軍散じて後に、人を附けて帰されけるとかや。「優にやさし。」とぞ申しける。さる程に、芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打ちしかば、馬皆疲れぬ。今日は又、入り替はる勢もなくて、日ねもす戦ひ暮らしければ、兵、息をも継ぎあへず。所存、今はこれまでとや思ひけん、日、已に夕陽になりければ、討ち残されたる兵、僅かに三百余騎を助けて、宇都宮へぞ帰りける。
これを見て、今まで戦ひをよそに見て、勝つ方に附かんと伺ひつる白旗一揆、「弊えに乗り、疲れを攻めて、いづくまでも追つ詰めて討ち止めん。」と、高名顔に追ひたりける。これのみならず、「芳賀が勢、打ち負けて引く。」と聞こえしかば、後れ馳せに御陣へ参りける兵ども、橋を引き路を塞いで、落とさじとしける程に、道にても百余騎討たれけり。辛き命を助かりて故郷に帰りける者も、大略皆、髪を切り遁世して、無きが如くになりにけり。
軍散じければ、やがて宇都宮{*13}を退治せらるべしとて、左馬頭、八十万騎の勢にて、先づ小山が館へ打ち越え給ふ。かかる処に、宇都宮、急ぎ参じて申しけるは、「禅可がこの間の振舞、全く我{*14}、同意したる事候はず。主従向背の自科遁れ難きに依つて、その身、已に逐電仕りぬる上は、御勢を向けらるるまでも候まじ。」と申しければ、左馬頭も、深き慮りやおはしけん、翌日やがて鎌倉へ打ち帰り給ひにけり。されば、「君、諌臣無ければ、則ち君、その国を失ひ、父、諌子無ければ、則ち父、その家を亡ぼす。」といへり。禅可、たとひ老い僻みて、かかる悪行を企つとも、子ども、もし義を知つて制し止むる事あらば、豈若干の一族どもを討たせて、諸人に嘲哢せられんや。思慮なき禅可が合戦故に、鎌倉殿の威勢、いよいよ重くなりしかば、大名一揆の嗷議ども、これよりちと止みにけり。
校訂者注
1:底本は、「樵蘇(せうそ)を楽しまず」。底本頭注に、「その業に安んぜざるを云ふ。樵は薪を樵ることで蘇は田草をとること。」とある。
2:底本頭注に、「憲顕。」とある。
3:底本は、「憤(いきどほ)りける。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
4:底本頭注に、「高家。」とある。
5:底本は、「敵ともなり、御方(みかた)とも」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
6:底本は、「擬議(ぎゞ)」。底本頭注に、「猶予。」とある。
7:底本頭注に、「毎氏。」とある。
8:底本は、「どうと伏(ふ)したりける。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
9:底本頭注に、「〇和泉 小次郎親衡。」「〇朝比奈 三郎義秀。」とある。
10:底本頭注に、「守長。」とある。
11:底本頭注に、「直国。下野太郎政経の子。」とある。
12:底本頭注に、「〇草鹿 射芸の一種。」「〇あづち 的をおく為に築いた盛土。」とある。
13:底本頭注に、「氏綱。公綱の子。」とある。
14:底本は、「我(わ)が同意(どうい)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
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