神木入洛の事 附 洛中変異の事

 尾張修理大夫入道道朝は、将軍御兄弟合戦の時、恵源禅門の方に属して打ち負けしかば、鬱陶を散ぜず、暫くは宮方に身を寄せけるが、若将軍義詮朝臣より、様々幣礼を尽くして頻りに招請し給ひける間、又御方になつて、三男治部大輔義将を面に立てて、執事の職に据ゑ、武家の成敗をぞ意に任せられける。
 さる程に、越前国は多年の守護にて、一国の寺社本所領を半済{*1}して、家人どもにぞ分け行ひける。その中に、南都の所領河口荘をば、一円に家中の料所にぞなしたりける。「この所は、毎年維摩会の要脚たるのみにあらず。一寺の学徒、これを以て朝三の助けを得て、僅かに餐霞の飢ゑを止め、夜窓の灯を挑げて、聚蛍の光に替ふ{*2}。然るを近年は、かの押領に依つて、諸事の要脚、悉く闕如しぬれば、維摩の会場には、柳條乱れて垂手の舞を列ね、講問の床の前には、鴬舌代はつて緩声の歌を唱ふ。これ、一寺滅亡の基、又は四海擾乱の端たるべし。早く当荘押領の儀を止めて、大会再興の礼に復せしめ給ふべし。」と、公家に奏聞し、武家に触れ訴ふ。然れども、公家の勅裁は成れども、人用ゐず。武家の奉書は、憚りて渡す人なし。
 これに依つて、嗷議の若輩、氏人の国民等、春日{*3}の神木を飾り奉り、大夫入道道朝が宿所の前に振り捨て奉る。その日やがて勅使参迎して、神木をば長講堂へぞ入れ奉りける。天子、自ら玉扆{*4}を下りさせ給ひて、常の御膳を降され、摂家、皆高門を掩ひて、日の御供を奉り給ふ。今、澆末の風に向つて大本の遠きを見るに、政道は廃れて無きに似たりといへども、神慮は明らかにして在すが如し。「あはれ、とく裁許あれかし。」と、人々申し合ひけれども、時の権威を憚りて、「これを。」と申し沙汰する人もなかりけり。禰宜が鈴振る袖の上に、託宣の涙せきあへず。社人の夙夜する枕の上に、夢想の告げ、止む時なし。
 同じき五月十七日、いづくの山より出でたりとも知らず、大鹿二頭、京中に走り出でたりけるが、家の棟、築地の覆ひの上を走り渡つて、長講堂の南の門前にて四声鳴いて、いづれの山へ帰るとも見えずして失せにけり。これをこそ不思議の事と云ひ沙汰しける処に、同じき二十一日、月代の跡あつて目も鼻もなく、髪長々と生ひたるなましき入道の首一つ、七條東洞院を北へまろびありくと見えて、かき消す様に失せにけり。
 又、同じき二十八日、長講堂の大庭に、独楽廻して遊びける童の内に、年の程十ばかりなるが、俄に物に狂ひて、二、三丈飛び上がり飛び上がり躍る事、三日三夜なり。参詣の人、怪しみて、「如何なる神のつかせ給ひたるぞ。」と問ふに、物つき、口うちつぐみて、その返事をばせで、
  人や勝つ神や負くるとしばしまて三笠の山のあらんかぎりは
と、数万人の聞く所にて、高らかに三遍詠じて、物附きは則ち醒めにけり。見るも恐ろしく、聞くに身の毛もよだつ神託どもなれば、「これに驚きて、神訴を忽ちに裁許ありぬ。」とおぼえけれども、ひたすら耳の外に処して、三年まで差し置かれければ、朱の玉垣いたづらに、引く人もなき御注連縄、その名も長く朽ちはてて、霜の白幣かけまくも、畏き神の榊葉も、落ちてや塵に交じるらんと、今更神慮の程量られ{*5}、行く末如何にと空おそろし。
 今程国々の守護、所々の大名ども、一人として寺社本所領を押さへて領知せずといふ者なし。然れども、叶はぬ訴訟に退屈して、歎きながらいたづらに黙止しぬれば、国々の政に僻事多けれども、その人咎なきに似たり。然るに、この人一人、かかる大社の訴訟に取り合ひて、神訴を得て呪詛を負ひけるも、唯、その身の不祥とぞ見えたりける処に、同じき十月三日、道朝が宿所、七條東洞院より俄に失火出で来て、財宝一つも残らず、内厩の馬どもまでも多く焼け失せぬ。「これこそ春日明神の御祟りよ。」と、云ひ沙汰せぬ人も無かりけり。
 されども道朝、やがて三條高倉に屋形を立てて、大樹に咫尺し給へば、門前に鞍置き馬の立ち止む隙もなく、庭上に酒肴を舁き列ねぬ時もなし。それ、さらぬだにも富貴の家をば、鬼これを睨むといへり。如何に況んや、神訴を負へる人なり。「これとても、行く末如何あらんずらん。」と、才ある人はあやしめり。

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校訂者注
 1:底本は、「半済(はんさい)」。底本頭注に、「二分すること。」とある。
 2:底本頭注に、「〇要脚 銭のこと。こゝは費用ほどの意。」「〇餐霞の飢 餐霞は仙人の食を云ふがここには出家の潔斎の食料を云ふ。」「〇聚蛍 車胤の故事より云ふ。」とある。
 3:底本頭注に、「春日神社。」とある。
 4:底本は、「玉扆(ぎよくい)」。底本頭注に、「玉座。」とある。
 5:底本は、「量られて、」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。