諸大名道朝を讒する事 附 道誉大原野花の会の事

 そもそもこの管領職と申すは、将軍家にも宗徒の一族なりければ、誰かはその職を猜む人もあるべき。又、関東の盛んなりし世をも見給ひたりし人なれば、礼儀法度もさすがに今の人の様にはあるまじければ、「これ、誠に武家の世をも治めんずる人よ。」とおぼえけるに、諸人の心に違ふ事のみありて、終に身を失はれけるも、「唯、春日大明神の冥慮なり。」とおぼえたり。
 諸人の心に違ひける事は、一つには、近年、日本国の地頭御家人の所領に、五十分一の武家役を毎年懸けられけるを、この管領の時に、二十分一になさる。「これ、天下の先例にあらず。」と憤りを含む処なり。次に、将軍、三條坊門万里小路に御所を立てられける時、一殿一閣を大名一人づつに仰せて造らせらる。赤松律師則祐もその人数たりけるが、作事遅くして、期日僅かに過ぎければ{*1}、「法を犯す咎あり。」とて、新恩の地大荘一所没収せらる。これ又、赤松が恨みを含む随一なり。次には、佐々木佐渡判官入道道誉、五條橋を渡すべき奉行を承つて、京中の棟別を取りながら、事大営なれば、少し延引しけるを励まさんとて、道朝、他の力をも借らず、民の煩ひをも成さず、厳密に五條橋を数日の間にぞ渡しける。これ又道誉、面目を失ふ事なれば、「これ程の返礼をば致さんずるなり。」とて、便宜を目に懸けてぞ相待ちける。
 かかる処に、柳営庭前の花、紅紫の色を交じへて、その興、類なかりければ、道朝、種々の酒肴を用意して、貞治五年三月四日を点し{*2}、「将軍の御所にて花の下の遊宴あるべし。」と催され、殊更、道誉にぞ相触れける。道誉、かねては参るべきよし領状したりけるが、わざと引き違へて、京中の道々の物の上手ども、ひとりも残さず皆引き具して、大原野の花の下に宴を設け席をよそほひて、世に類なき遊びをぞしたりける。
 已にその日になりしかば、軽裘肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山にぞ赴きける。麓に車を駐めて、手に碧蘿{*3}を取つてよぢのぼるに、曲径、幽かなる処に通じ、禅房、花木深し。寺門に当たつて湾渓のせせらぎを渡れば、路、羊腸を巡つて、橋、雁歯{*4}の危ふきをなせり。ここに高欄を金襴にて包みて、擬宝珠に金箔を押し、橋板に大唐の氈、呉郡の綾、蜀江の錦、色々に敷き延べたれば、落花、上に積もつて、朝陽、渓陰の処に到らず。横橋、一板の雪を留め得たるに相似たり。踏むに足すさまじく、歩むに沓香ばし。遥かに風磴{*5}を登れば、竹筧に甘泉を分けて、石鼎に茶の湯を立て置きたり。松籟、声を譲りて、芳甘、春濃やかなれば、一椀の中に天仙をも得つべし{*6}。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛けて、螭頭の香炉に鶏舌の沈木を薫じたれば、春風香暖にして、覚えず栴檀林に入るかと怪しまる。眸を千里に供じ、首を四山に廻らせば、煙霞重畳として、山川交じはりそばだちたれば、筆を丹青に借らず十日一水の精神{*7}ここに集まり、足を寸歩に移さず四海五湖の風景立ちどころに得たり。
 一歩三嘆して遥かにのぼれば、本堂の庭に十囲{*8}の花木四本あり。この下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸けて、一双の華に作りなし、そのあはひに両囲の香炉を両の机に並べて、一斤の名香を一度に焚き上げたれば、香風四方に散じて、人皆、浮香世界の中に在るが如し。その蔭に幔を引き曲彔を立て並べて、百味の珍膳を調へ、百服の本非を飲みて、懸け物、山の如く積み上げたり。猿楽優士、一度廻りて鸞の翼を翻し、白拍子、倡楽濃やかに春鴬の舌を伸ぶれば、座中の人々、大口小袖を解いて投げ与ふ。興たけなはに酔ひに和して、帰り路に月なければ、松明、天を輝かす。鈿車、軸轟き、細馬、くつばみを鳴らして、馳せ散り喚き叫びたる有様、唯、三尸百鬼の、夜更けてちまたを過ぐるに異ならず。「華開き{*9}花落つる事二十日、一城の人、皆狂せるが如し。」と、牡丹妖艶の色を風せしも、実にさこそはありつらめと、思ひ知らるるばかりなり。
 この遊び、洛中の口ずさみとなつて管領の方へ聞こえければ、「これは唯、我が申し沙汰する将軍家の花の下の会を、かはゆげなる遊びかなと欺きけるものなり。」と、安からぬ事にぞ思はれける。さりながら、これは心中の憤りにて、公儀に出だすべき咎にも非ず。「あはれ、道誉、何事にても公事に就きて法を犯す事あれかし。辛く沙汰を致さん。」と、心をつけて待たれける処に、二十分一の武家役を、道誉、両年まで沙汰せざる間、管領、「すはや、究竟の罪科出で来ぬ。」と悦びて、道誉が近年賜はりたりける摂州の守護職を改め、同国の旧領多田荘を没収して、政所料所にぞなしたりける。
 これに依つて、道誉が鬱憤、安からず。「如何にもしてこの管領を失はばや。」と思つて、諸大名を語らふに、六角入道は当家の総領なれば、仔細なし。赤松は聟なり、なじかは異議に及ぶべき。この外の大名どもも、大略は道誉にへつらはずといふ者なかりければ、事に触れて、「この管領、天下の世務に叶ふまじき」よしを、将軍家へぞ讒し申しける。魯叟、言へることあり、曰く、「衆のこれを憎む、必ず察す。衆のこれをよみんず、必ず察す。或いはその衆、阿党比周してよみんずる事あり。或いはその人、特立不詳にして憎まるる事あり。毀誉、共に察せずんばあるべからず。」諸人の讒言、遂に真偽を糺さざりしかば、道朝、咎なくして忽ちに討たるべきに定まりけり。
 この事内々、佐々木六角判官入道崇永に仰せられて、江州の勢をぞ召されける。道朝、この由を伝へ聞きて、貞治五年{*10}八月四日の晩景に、将軍の御前に参じて申されけるは、「御不審を蒙る由、内々告げ知らする人の候ひつれども、身に於いて不忠不義の事候はねば、申す人の誤りにてぞ候らんと、愚意を遣り候ひつるに、昨日、江州の勢ども、合戦の用意にて罷り上り候ひけるよし、承り及び候へば、風聞の説、早、誠にて候ひけりと、信を取つて候。
 「そもそも道朝、無才庸愚の身を以て、大任重器の職を汚し候ひぬれば、讒言も多く候らんとおぼえ候。然るを、讒者の御糺明までもなくて、御不審を蒙るべきにて候はば、国々の勢を召さるるまでも候まじ。侍一人に仰せ附けられて、忠諌の下に死を賜はつて、衰老の後に屍を曝さん事、何の仔細か候べき。」と、恨みの面に涙を拭ひて申されければ、将軍も理に服したる体にて、さしたる{*11}御詞なし。やや久しく黙然として、涙を一目に浮かべ給ふ。暫くあつて道朝、已に退出せんとせられける時、将軍、席を近づけ給ひて、「條々の趣、実にもさる事にて候へども、今の世の中、我が心にも任せたる事にてもなければ、暫く越前の方へ下向あつて、諸人の申す処をも宥められ候へかし。」と宣へば、道朝、「畏まつて承りぬ。」とて、やがて退出せられぬ。
 さる程に、崇永、かねて用意したる事なれば、きびしく鎧ひたる兵八百余騎を率して、将軍の御屋形へ馳せ参り、四門を警固仕る。これより京中、ひしめき渡つて、将軍へと馳せ参る武者もあり、管領へと馳する人もあり。柳営、家臣の両陣のあはひ、僅かに半町ばかりあれば、いづれを敵、いづれを御方とも見分かず。道朝、始めは、「一箭射て腹を切らん。」と企てけるが、将軍より三宝院覚済僧正を御使にて、度々宥め仰せられける間、「さらば。」とて、北国下向の議に定まりぬ。
 さりながら、「おめおめと都を出でて下る体ならば、悪しかりなん。敵どもに追つ懸けらるる事もこそあれ。」とて、八月八日の夜半ばかりに、二宮信濃守五百余騎、高倉西の門より将軍家に押し寄する体を見せて、鬨{*12}をぞ揚げたりける。これを聞きて、将軍家へ馳せ参りたる大勢ども、内へ入らんとするもあり、外へ出でんとするもあり、何といふ事もなくせき合ふ程に、鎧の袖、兜を奪はれ、太刀長刀を取られ、馬物具を失ふ者、数を知らず。未だ戦はざる先に、禍ひ、蕭墻の中より出でたりとぞ見えたりける。このひしめきの紛れに、道朝は、三百余騎の勢を率し、長坂を経て越前へぞ落ちられける。
 先陣、今は一里ばかりも落ち延びぬらんとおぼゆる程に成つて、二宮は、後を追つて落ち行く。諸大名の勢ども、「疲れに乗つて討ち止めん。」と追つ懸けたり。二宮、長坂峠に控へて、少しも漂へる機を見せず。馬に道草かひて、あざわらひたる声ざしにて申しけるは、「都にて軍をせざりつるは、敵を恐るるにはあらず。唯、将軍に所を置き奉る故なり。今は、都をも離れぬ、夜も明けぬ。敵も御方も、唯今まで知り知られたる人々なり。ここにては、我人の剛臆の程を顕はさでは、いづれの時をか期すべき。馬の腹帯の延びぬ先に、早これへ御入り候へ。我等が首を御引出物に参らするか、御首どもを餞に賜はるか、その二つの間に自他の運否を定め候はばや。」と高声に呼ばはつて、馬の上にて鎧の上帯締め直して、東頭に控へたり。その勇気、誠に節に当たり、死を軽んずる義あつて、前に恐るべき敵なしと見えければ、数万騎の追手ども、「よしや、今はこれまでぞ。」とて、長坂の麓より引き返しぬ。
 道朝、二宮を待ちつけて越前へ下著し{*13}、やがて我が身は杣山城に篭り、子息治部大輔義将を栗屋城に篭めて、北国を打ち随へんと議せられける間、将軍、「さらば、討手を下せ。」とて、畠山尾張守義深、山名中務大輔{*14}、佐々木治部大輔高秀、土岐左馬助、佐々木判官入道崇永、舎弟山内判官入道崇誉、赤松大夫判官、同兵庫助範顕、能登、加賀、若狭、越前、美濃、近江の国勢相共に七千余騎、同じき年の十月より、二つの城を囲んで、日夜朝暮に攻めけれども、この城、落とさるべしとも見えざりけり。かかる処に、翌年七月に、道朝、俄に病に侵され逝去しければ、子息治部大輔義将、様々に歎き申されけるに依つて、同じき九月に宥免安堵の御教書を成され、京都へ召し返さる{*15}。幾程なく越中の討手を承つて、桃井播磨守直常を退治したりしかば、やがて越中の守護職に補せらる。これより北国は{*16}無為になりにけり。
 この濫觴、そもそも道朝が僻事は何ぞや。ただ諸人の讒言に依つて身を失ひ給ひしものなり。されば、楚の屈原が汨羅沢にさまよひて、「衆人皆酔へり。我ひとり醒めたり。」と世を憤りしを、漁父わらつて、「衆人皆酔へらば、何ぞその糟を食ひてその汁をすすらざる。」と歌ひて、滄浪の船に棹さししも、「実に、さる事もありけり。」と、思ひ知らるる世となりにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「過ぐれば、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「〇柳営 幕府。将軍の居所。」「〇点し 卜し。」とある。
 3:底本は、「碧蘿(へきら)」。底本頭注に、「緑の蔓草。」とある。
 4:底本は、「雁歯(がんし)」。底本頭注に、「雁の行列が人鳥の牙歯の形のやうに前後してゐる様。」とある。
 5:底本は、「風磴(ふうとう)」。底本頭注に、「岩石の阪路。」とある。
 6:底本頭注に、「〇一椀の中に云々 廬同の茶歌に『一椀唯吻潤、六椀通仙霊。』」とある。
 7:底本頭注に、「名人の筆は五日に一石十日に一水を描くといふ。こゝは名画の精神ほどの意。」とある。
 8:底本は、「十囲(ゐ)」。底本頭注に、「十抱へ。」とある。
 9:底本は、「華(はな)開け」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 10:底本は、「貞治(ぢやうぢ)四年」。底本頭注及び『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
 11:底本は、「差したを御言(おんことば)なし。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 12:底本は、「鬨(とき)の声(こゑ)をぞ」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。底本頭注に、「〇二宮信濃守 貞家。」とある。
 13:底本は、「越前へと著し、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「氏冬。」とある。
 15:底本は、「同じき九日に宥免(いうめん)安堵(あんど)の御教書(みげうしよ)を成され、京都へ召(め)し返(かへ)され、」。『太平記 五』(1988年)に従いそれぞれ改めた。
 16:底本は、「北国無為(ぶゐ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。