大元より日本を攻むる事
つらつら三余の暇{*1}に寄つて千古の記する処を見るに、異国より吾が朝を攻めし事、開闢以来、已に七箇度に及べり。殊更、文永弘安両度の戦ひは、大元国の老皇帝{*2}、支那四百州を討ち取つて、勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて退治し難かりしかども、たやすく大元の兵を亡ぼして、吾が国無為なりし事は、唯これ、尊神霊神の冥助に依りしものなり。
その征伐の法を聞けば、先づ大元の大将万将軍、日本王畿五箇国を四方三千七百里に考へて、その地に兵を透間なく立ち並べてこれを数ふるに、三百七十万騎に当たれり。この勢を大船七万余艘に乗せて、津々浦々より押し出だす。この企て、かねてより吾が朝に聞こえしかば、「その用意を致せ。」とて、四国九州の兵は、筑紫の博多に馳せ集まり、山陽山陰の勢は、帝都に馳せ参る。東山道北陸道の兵は、越前敦賀津をぞ固めける。
さる程に、文永十一年八月十三日、大元七万余艘の兵船、同時に博多津に押し寄せたり。大舶、舳艫を並べて、もやひを入れて歩みの板を渡して、陣々に油幕を引き、干戈を立て並べたれば、五島より東、博多浦に至るまで、海上の四囲三百余里、俄に陸地になつて、蜃気ここに乾闥婆城を吐き出だせるかと怪しまる。
日本の陣の構へは、博多の浜端十三里に石の堤を高く築いて、前は敵のために切り立てたるが如く、後ろは御方のため平々として、懸け引き自在なり。その蔭に塀を塗り、陣屋を作つて、数万の兵、並み居たれば、「敵に勢の多少をば見透かされじ。」と思ふ処に、敵の船の舳先に、はねつるべの如くなる柱を数十丈高く立てて、横なる木の端に座を構へて、人を登せたれば、日本の陣内、目の下に見下されて、秋毫の先をも数へつべし。又、面の四、五丈広き板を、筏の如くに畳み鎖りて、水上に敷き並べたれば、波の上に平らなる路あまた作り出だされて、あたかも三條の広路、十二の街衢の如くなり。この路より敵軍、数万の兵馬を懸け出だし、死をも顧みず戦ふに、御方の軍勢の鋒たゆみて、多くは退屈してぞおぼえける。
鼓を打つて、兵刃既に交じはる時、鉄炮とて、鞠の勢ひなる鉄丸のほとばしる事、坂を下る車輪の如く、霹靂する事、閃々たる電光の如くなるを、一度に二、三千投げ出だしたるに、日本の兵、多く焼き殺され、木戸櫓に火燃えついて、打ち消すべき隙もなかりけり。上松浦、下松浦の者ども、この軍を見て、「尋常の如くにしては、叶はじ。」と思ひければ、よその浦より廻つて、僅かに千余人の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は猛けれども、九牛が一毛、大倉の一粒にも当たらぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討つ事は二、三万人なりしかども、終には皆生け捕られ、身を縲紲{*3}の下に苦しめて、掌を連索の舷に貫かれたり。かかりし後は、重ねて戦ふべき様もなかりしかば、筑紫九国の者ども、一人も残らず四国中国へぞ落ちたりける。
日本一州の貴賤上下、「如何せん。」とあわて騒ぐ事、ななめならず。諸社の行幸御幸、諸寺の大法秘法、宸襟を傾けて、肝胆を砕かる。すべて六十余州大小の神祇、霊験の仏閣に勅使を下され、奉幣を捧げられずといふ所なし。かくの如く御祈祷、已に七日に満じける日、諏訪湖の上より、五色の雲、西にたなびき、大蛇の形に見えたり。八幡の御宝殿の扉ひらけて、馬の馳せちる音、轡の鳴る音、虚空に充ち満ちたり。日吉の社二十一社の錦帳の鏡動き、神宝、刃とがれて、御沓、皆西に向かへり。住吉四所の神馬、鞍の下に汗流れ、小守、勝手の鉄の楯、己と立つて、敵の方につき並べたり。およそ上中下二十二社の震動奇瑞は申すに及ばず、神名帳に載する所の三千七百五十余社、乃至山家村里の小社、櫟社、道祖の小神までも、御戸の開かぬはなかりけり。この外、「春日野の神鹿、熊野山の霊烏、気比宮の白鷺、稲荷山の名婦{*4}、比叡山の猿、社々の仕者、悉く虚空を西へ飛び去る。」と、人毎の夢に見えたりければ、「さりともこの神々の助けにて、異賊を退け給はぬ事はあらじ。」と思ふばかりを憑みにて、幣帛を捧げぬ人もなし。
かかる処に、弘安四年七月七日、皇大神宮の禰宜荒木田尚良、豊受大神宮の禰宜度会貞尚等十二人、起請の連書を捧げて上奏しけるは、「二宮の末社、風の社の宝殿の鳴動する事、やや久し。六日の暁天に及んで、神殿より赤き雲一叢立ち出でて、天地を輝かし山川を照らす。その光の中より、夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神、顕はれ出でて、土嚢の結ひ目をとく。大風、その口より出でて、沙漠を揚げ、大木を吹き抜く。測り知んぬ、九州の異狄等、この日即ち滅ぶべしといふ事を。事、もし誠あつて、奇瑞、変に応ぜば、年頃申し請くる処の宮号、叡感の儀を以て宣下せらるべし。」とぞ奏し申しける。
さる程に、大元の万将軍、七万余艘のもやひをとき、八月十七日辰の刻に、門司、赤間関を経て、長門、周防へ押し渡る。兵、已に渡中をさしし時{*5}、さしも風止み雲閑かなりつる天気、俄に変つて、黒雲一叢、艮の方より立ち覆ふとぞ見えし。風烈しく吹いて、逆浪、天に漲り、雷鳴りはためいて、電光、地に激烈す。大山も忽ちに崩れ、高天も地に落つるかとおびただし。異賊七万余艘の兵船ども、或いは荒磯の岩に当たつて微塵に打ち砕かれ、或いは逆巻く浪に打ち返されて、一人も残らず失せにけり。かかりけれども、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも沈まず、窈冥たる空中に飛び揚がつてぞ立つたりける。ここに、呂洞賓といふ仙人、西天の方より飛び来つて、万将軍に示しけるは、「日本一州の天神地祇三千七百余社来つて、この悪風を起こし、逆浪を漲らしむ。人力の及ぶべき処にあらず。汝、早く一箇の破船に乗つて、本国へ帰るべし。」とぞ申しける。万将軍、この詞を信じて、一箇の破船ありけるに乗つて唯一人、大洋万里の波を凌ぎて、程なく明州の津にぞ著きにける。
船より上がり、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓、忽然として来つて申しけるは、「汝、日本の軍に打ち負けたる罪に依つて、天子怒つて、親類骨肉皆、三族の罪に行はれぬ。汝、帝都に帰らば、必ず共に刑せらるべし。早くこれより剣閣を経て、蜀の国へ行き去れ。蜀王、汝を以て大将として雍州を攻めばやと羨み思ふ事、切なり。至らば必ず大功を立つべし。」といひて別れたるが、「我、汝が餞のために嚢中を探るに、この一物の外は他なし。」とて、膏薬を一つけ与へける。その銘に「至雍発」とぞ書きつけたりける。
万将軍、呂洞賓が詞に任せて蜀へ行きたるに、蜀王、これを悦び給ふ事、かぎりなし。やがて万将軍に上将の位を授け、雍州をぞ攻めさせける。万将軍、兵を率し旅を屯して雍州に至るに、敵、山隘の高くそばだちたるに、石の門を閉ぢてぞ待つたりける。誠に、「一夫怒つて関に臨めば、万夫も添ふべからず。」と見えたり。このときに万将軍、「呂洞賓が我に与へし膏薬の銘に『至雍発』と書きたりしは、『この雍州の石門につけよ。』と教へけるにこそ。」と心得て、ひそかに人をして、一つけありける膏薬を、石門の柱にぞつけさせたりける。つくると等しく、石門の柱も戸も、雪霜の如く溶けて、山崩れ道平らになりければ、雍州の敵数万騎、防ぐべき便りを失うて、皆蜀王にぞ降りける。「この功、しかしながら万将軍が徳なり。」とて、やがて公侯の位に登せられける。
居ること三十日あつて、万将軍、背に癰瘡出でたりけるが、日を経ずして忽ちに死ににけり。雍州の雍の字は、癰瘡の癰の字と、韵声通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至雍発と書きけるは、「雍州の石門につけよ。」と教へけるか{*6}、又、「癰瘡の出でたらんにつけよ。」と示しけるか、その二つの間を知り難し。功は高くして命は短し。いづれをか捨て、いづれをか取らん。もし已む事を得ずしてその一つを捨てば、命は天にあり、我は必ず功を取らん。
そもそも大元三百万騎の蒙古ども、一時に亡びし事、全く吾が国の武勇にあらず。唯、三千七百五十余社の大小神祇、宗廟の冥助に依るにあらずや。
神功皇后新羅を攻め給ふ事
昔、仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻めさせ給ひけるが、戦ひ利なくして帰らせ給ひたりしを、神功皇后、「これ、智謀武備の足らぬ所なり。」とて、唐朝へ軍の束修のために、沙金三万両を遣はされ、履道翁が一巻の秘書を伝へらる。これは、黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授けし書なり。
さて、事已に定まつて後、軍評定のために、皇后、諸々の天神地祇を請じ給ふに、日本一州の大小の神祇冥道、皆勅請に随つて常陸の鹿島に来り給ふ。然りといへども、海底に跡を垂れたまふ阿度部磯良一人、召しに応ぜず。「これ、いかさま、故あらん。」とて、諸々の神達、庭火を焼き、榊の枝に白和幣、青和幣を取り懸けて、風俗、催馬楽、梅枝、桜人、石河、葦垣、此殿、夏引、貫河、飛鳥井、真金吹、差櫛、浅水橋、呂律を調べ{*7}、本末を返して数遍歌はせ給ひたりしかば、磯良、感に堪へかねて、神遊びの庭にぞ参りたる。
そのかたちを御覧ずるに、細螺、石花貝、藻に住む虫、手足五体に取りつきて、更に人の形にてはなかりけり。神達、怪しみ御覧じて、「何故にかかるかたちにはなりけるぞ。」と御尋ねありければ、磯良、答へて曰く、「我、滄海の鱗{*8}に交じはつて、これを利せんために{*9}、久しく海底に住み侍りぬる間、このかたちになつて候なり。かかる形にて、やんごとなき御神前に参らんずる恥づかしさに、今までは参りかねて候ひつるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも顧みずして参りたり。」とぞ答へ申しける。
やがて、これを御使にて、竜宮城に宝とする干珠満珠{*10}を借り召さる。竜神、即ち神勅に応じて、二つの玉を奉る。神功皇后、一巻の秘書を智謀とし、二つの明珠を武備として、新羅へ向かはんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩、已に五月にならせ給ひしかば、母后の御腹、大きになりて、御鎧を召さるるに御はだへあきたり。このために、高良明神{*11}の計らひとして、鎧の脇立をば、し出だしけるなり。諏訪、住吉大明神を、副将軍裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕ぎ並べ、高麗国へ寄せ給ふ。
これを聞きて、高麗の夷ども、兵船一万余艘に取り乗つて、海上に出で向ふ。戦ひ半ばにして、雌雄未だ決せざる時、皇后、先づ干珠を海中に投げ給ひしかば、潮、俄に退いて、海中、陸地になりにけり。三韓の兵ども、「天、我に利を与へたり。」と悦びて、皆船より下り、かち立ちになつてぞ戦ひける。この時に又皇后、満珠を取つて投げ給ひしかば、潮、十方より漲り来つて、数万人の夷ども、一人も残らず浪に溺れて亡びにけり。これを見て、三韓の夷の王、自ら罪を謝して降参し給ひしかば、神功皇后、御弓の末弭にて、「高麗の王は、我が日本の犬なり。」と、石壁に書きつけて帰らせ給ふ。これより高麗、我が朝に従ひて、多年、その貢物を奉る。古は呉服部{*12}といふ綾織、王仁といふ才人、我が朝に来りけるも、この貢物に備はり、大紋の高麗縁も、その箱物とぞ承る。
その徳、天に叶ひ、その化、遠きに及びし上古の代にだにも、異国を従へらるる事は、天神地祇の力を以てこそ、たやすく征伐せられしに、今、無悪不造の賊徒等、元朝、高麗を奪ひ犯し、牒使を立てさせ、そのかけものを送らしむる事、前代未聞の不思議なり。「かくては中々吾が朝、かへつて異国に奪はるることもやあらんずらん。」と、怪しき程の事どもなり。されば、福州の呉元輔王乙が、吾朝へ贈りたる詩にも、この意を述べたり。
{*k}日本の狂奴浙東を乱る 将軍変を聴いて気虹の如し
沙頭に陣を列ねて烽煙暗く 夜半に兵を皆殺しにし海水紅なり
篳箻に歌を按じて落月を吹く 髑髏に酒を盛りて清風を飲む
何時か南山の竹を截り尽くして 細かに当年の殺賊の功を写さん{*k}。
この詩の言について思ふに、「日本一州に近年、竹の皆枯れ失するも、もし、かやうの前表にてやあらん。」と、覚束なき行く末なり。
校訂者注
1:底本は、「三余(よ)の暇(いとま)」。底本頭注に、「冬期と夜分と雨天とを云ふ。」とある。
2:底本頭注に、「世祖文武皇帝。」とある。
3:底本は、「縲紲(るゐせつ)」。底本頭注に、「いましめ。」とある。
4:底本頭注に、「〇櫟社 大木の下に仮の祠又は鳥居のみ立てなどしたもの。」「〇道祖 道路を守る神。」「〇名婦 狐の異名。」とある。
5:底本は、「渡中(わたなか)をさしし時、」。底本頭注に、「大海中に漕ぎ出でた時。」とある。
6:底本は、「教へけよるか、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「〇風俗、催馬楽 共に俗謡。」「〇呂律を調べ 梅枝、桜人、石河、葦垣、真金吹は呂で、夏引、貫河、飛鳥井、差櫛、浅水の橋は律である。」とある。
8:底本は、「鱗(うろくづ)」。底本頭注に、「魚類。」とある。
9:底本は、「利せんが為に、」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
10:底本は、「干珠満珠(かんじゆまんじゆ)」。底本頭注に、「潮の干満を起す神力ある珠。」とある。
11:底本頭注に、「〇八幡大菩薩 応神天皇。」「〇高良明神 武内宿祢。」とある。
12:底本は、「呉服部(くれはとり)」。底本頭注に、「応神天皇の三十七年に来たと伝へられる。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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